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HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て、京都精華大学ファッションコース専任講師。
ファッションの批評誌『vanitas』編集委員、ファッションのギャラリー「gallery 110」運営メンバー、服と本の店「コトバトフク」運営メンバー。

e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
twitter: @ihsorihadihsa

『vanitas』の情報は↓
http://fashionista-mag.blogspot.com/
http://www.facebook.com/mag.fashionista

デマ

 もう3年前になるのですが、H川武治さんのブログでこんな記事が書かれていました。

「若き二人の発言者、蘆田裕史と工藤雅人のレベルとは、/昨年末のANRAELAGEの会で。」

http://lepli.org/discipline/articles/2013/02/post_105.html

    
 内容があまりに香ばしかったので、3年前にこの記事を読んだときもコメントしておいた方がよいかと思ったのですが、こういうことを書く人はおそらく愉快犯のようなものと一緒で、リアクションを取った方が相手を喜ばせるだけだろうから、放っておくことにしました。どうせそのうち人の目に触れないようになるだろう、と。
    
 ところが、最近自分の名前で検索をしたところ、この記事が検索結果の上位に残っているのを見つけました。こういう妄想に基づいた発言が残り続けて、事実っぽく扱われるのも面倒なので、とっても今更ながらコメントをしておくことにします。
    
 H川さんはこう書いています。

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彼の発言は“M.WORTH/Charles Frederick Worth”のクチュールの時代が

現代の時代性に類似しているというもの。

1911年に彼がロンドンから巴里へ進出し、自分のオーダーメイドシステム

今で言うところのクチュールハウスを開きそれ以後、

巴里でのオートクチュールビジネスの時代が始まった。

この様な時代性が現代に類似しているとうい単純な表層からの一般的な知識の

見せびらかしを行った。しかし、それを視点にするなら彼、M.WORTHの

当時の時代性と社会性からその時代の新しさを先ず説明すべきであった。

M.WORTHが何のよりどころも無くロンドンから巴里へ来てクチュールハウスを

開店したのではない。彼なりの”時代の読み”が根拠としてあったからであり、

これを先ずは説明した上でこの若き評論家は学んだ事と経験とによる視点で分析し、

比較した上での論点でなければ無ければその論説は主張出来ない。

難しいカッコ付けの言葉の空売りがモード評論では無い、

モードとはその時代の社会性と時代性に乗っかって展開して来たものである。

思ったとうりの、所詮、『論語読みの論語知らず』。

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要するに「アシダはこんなことを言っている→だからあいつは馬鹿だ」という論旨で、これを読んだ人は「ああ、たしかにアシダは何もわかっていなそうだなあ」と思ってしまいそうな文章です。でも、この場にいた人はわかってくれると思うのですが(覚えていれば)、そもそも「アシダはこんなことを言っている」という部分が間違っているんですよね。僕の発言は「現代のファッションはワースが始めたシステムを踏襲しているけど、これからはむしろワースより前のシステムに可能性がある」という趣旨のもので、何をどう誤解したらこうなるのやら…という感じです。
    
 さらにひどいのはここ。

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彼の穿いていた下モノはM.ブランドの200%エゴに挑戦しているデザイナーからの
貰った物を身に付けての登場も含めて、森永君をナメての登場か?
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 僕が自分で買ったものを着ていったのですが、なぜそれを「もらったもの」と思い込んでるのかほんと意味不明です。
    
    
 僕がH川さんの記事を僕が問題視するのは、この人の妄想の事実確認ができないことなんです。この人のほかにも、僕のことを目の敵のように思っているのか、僕が新しい文章を発表する度にわざわざチェックして難癖をつけてくる人もごく稀にいたりしますが、それは別に構わないんです。というのは、公にされた文章であれば、興味を持った人はそこに何が書かれているのか確認することができるから。ファッションデザイナーが発表した作品について僕が発言する権利があるように、僕が発表した文章について発言する権利があるので。それがいやなら社会に向けて発表しなければいいだけです。
    
 H川さんのは悪質なデマ以外の何ものでもない上に、それを誰も検証できない。しかも関わるのが面倒だと思って放置をしてしまうから、本人はさらに調子に乗る。Twitterなんかで議論をしていて、面倒になった相手が無視し始めると「論破してやった」と勘違いする人がいますよね。それと同じです。最近の記事でも、ある若手デザイナーたち(もう中堅と言ってもいいかもしれませんが)「集団で僕の鎌倉へ”泣き”に来た」と書いているのを目にしました。これに関しても、「泣きに来た」かどうか(そもそも「泣きに来た」のではなく、「泣きつきに来た」と言いたいのでしょうけど)は事実かどうか第三者にはわからないんですよね。
    
 こういう「俺だけが真実を知っていて、俺だけが正義だ」と勘違いしている人はちらほら見かけますが、本当に迷惑なので、とっとと退場してほしいものです。
    
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追記。
    

 実は今日の記事は半年前に途中まで書いて、放置していました。こんな文章書いても楽しくないし、生産的じゃないし。でも、最近身の回りで似たような被害に巻き込まれる人を見て、やっぱり放置することこそ非生産的なんだと思うに至りました。今話題になっている豊洲市場でもそうですよね。デマを撒き散らし続ける人に対して誰かがちゃんと反論をするから少しずつ問題が解決されつつある。そもそもデマがなければ反論の必要もないから反論は無駄な労力でしかないけれども、それでもデマは放置しちゃいけないんだな、と。世の中から妄想でデマを撒き散らす人がいなくなればいいのに、と切に願いながら筆を置きます。

岸政彦『断片的なものの社会学』

最近読んだ本で、前回同様に高校生や大学生に薦めたいものの紹介を。
   
岸政彦『断片的なものの社会学』、朝日出版社、2015年。
   
デザイナー志望の学生はまずなによりもまず「見る」力と「分析する」力を身に着けなければならないと僕は常々思っているのですが、この本はそのトレーニングにもなるはずです。
   
植木をくれる近所のおばちゃん、SFに夢中になっていた小学生時代の空想、誕生日を祝うこと、そんな日常生活で起きる「何事でもないこと」から展開される著者の思考を追うことで、日常的な出来事を分析する方法を学ぶことができるでしょう。
   
それだけではなく、この本は「わからないことをわからないと認める(でもそれについて考えるのを放棄するわけではない)」ことの重要性も教えてくれます。
世の中には、物事に白か黒のどちらかしかないと考える人が少なくなく、そうした人たちは断定的な、それゆえわかりやすい発言をしがちです(もちろん、ときにはそれも必要なのですが)。
しかしながら、この世のほぼすべての物事は白か黒ではなく灰色なはずです。とはいえ、私たちは人生において、その灰色のグラデーションのなかのある一点を悩みに悩んで選ばなければなりません。白黒はっきりさせることではなく、灰色のなかで悩むことを肯定してくれる本書はきっとあなたの視野を広げてくれると思います。

高校生向け課題図書

最近、全然ブログを書く時間が取れないので、その場しのぎに別のところで書いた書籍紹介を。


以下は精華大のファッションコースに入学する前の課題図書リストです。
大学に入る前にこんなものを読んでいてくれたらいいな、という僕の個人的な願望です。
ファッションの勉強している学生さんも是非。

◆鷲田清一 『ちぐはぐな身体──ファッションって何?』(ちくま文庫、2005年)
衣服は私たちの日常生活に欠かせないはずなのに、改めて衣服について考えることってあまりありませんよね。鷲田さんの専門である哲学の視点から、人間の身体と衣服の関係について考えるきっかけを与えてくれる一冊です。

◆古市憲寿+國分功一郎 『社会の抜け道』(小学館、2013年)
IKEAや保育園から選挙やインターネットまで、日常的な物事について社会学者(古市さん)と哲学者(國分さん)が会話を繰り広げています。何気なく見ているものについて深く考えることができれば、あなたの視野は必ず広がるはずです。

◆坂口恭平 『独立国家のつくりかた』(講談社現代新書、2012年)
「生きていくために本当にお金は必要なの?」「大地は自然のものなのに、土地を所有できるっておかしくない?」など、言われてみれば「たしかに!」と思ってしまう疑問を出発点に、私たちの世界の見方を変える方法を教えてくれます。


◆東浩紀 『弱いつながり──検索ワードを探す旅』(幻冬舎、2014年)
インターネットが発達した現在、私たちは日本にいながらにして、ヨーロッパの景色も、アフリカの政治情勢も、南米の文化も知ることができます。そのような現代社会では、何かをするのに「場所性」など関係ないと思われがちですが、実はそうではないということを教えてくれる本。平易な言葉で書かれてはいますが、れっきとした哲学の本です。

◆ヨースタイン・ゴルデル 『ソフィーの世界──哲学者からの不思議な手紙』(NHK出版、新装版2011年)
「哲学って難しそう」と思っている人に読んでほしい一冊。この本は、14歳の少女ソフィーを主人公とするミステリー仕立てのファンタジーなのですが、れっきとした哲学の本でもあるのです。物語を楽しみながら哲学の歴史まで知ることができてお得感いっぱいです。

◆ブルーノ・ムナーリ 『モノからモノが生まれる』(みすず書房、2007年)

ファッションデザイナーになりたい人は、まず「デザイン」がどのようなものなのかを知るべきです。料理人が包丁の使い方をまず身に着けるように、スポーツ選手がまず筋トレや走り込みをするように、オーソドックスなデザインの考え方をまず身に着けてほしい。その教科書としてうってつけなのがこの本です。

◆安部公房 『箱男』(新潮文庫、1982年)
世の中にあふれる小説のなかには「ファッション論」として読めるものがいくつもありますが、『箱男』はその代表だと思います。小説でもアニメでもマンガでも、どこにでもファッションについて考えるきっかけはあるのです。この本をきっかけに、何かを読む/見るときに「ファッション」を意識するようにしてください。

◆山崎亮『コミュニティデザイン──人がつながるしくみをつくる』(学芸出版社、2011年)
「デザイン」という言葉は「モノ」を作ることだけを指すのではありません。人と人との関係であったり、場所の使い方であったり、さまざまな「コト」をデザインによって改良することができるのです。そんなことをこの本で学んでもらえたら。


◆谷崎潤一郎『陰翳礼賛』(中公文庫、1995年など)
谷崎潤一郎はとてもきれいな日本語を書く作家です。小説としては「刺青」などを読んでもらうのが良いのですが、まずはデザイン論として読める本書から手に取ってみてください。

◆ヴァレリー、ボードレール、ランボー、リルケの詩集から1冊
特にこの4人じゃないといけないというわけではなく、古典的な詩を読んでください。というのは、言葉による表現の幅を広げてほしいからです。言語化は感覚と密接な関係を持っています。なんでも「かわいい」で済ましていては、感覚は豊かになりません。まずは詩人や小説家の表現に触れる機会をできるだけ多くし、語彙や表現力を豊かにすることから始めてみましょう。

トークイベントのお知らせ

今日はお知らせのみです。


11月8日(土)、『vanitas』編集委員の蘆田・水野によるトークイベントを名古屋で開催いたします。聞き手は名古屋を代表するセレクトショップ「fro・nowhere」代表の藤井佑樹氏。
ファッション批評のことだけでなく、ファッションデザインやファッションの出版・メディアのこと、あるいは地方でファッションを仕事にすることなど、さまざまなトピックについて語る予定です。
名古屋近郊の方、お時間ありましたら是非。

日時: 11月8日(土)20:00〜21:30
料金: 1500円(1ドリンク付)
会場: re:Li
    〒460-0008
    名古屋市中区栄1丁目25-5
    仲ノ町公園南ビル1.2F   
    http://cafereli.com/
問合せ:fashionista@live.jp

ファッション雑誌

僕が運営に携わっているgallery 110では、「bookself」という期間限定図書館のような展示を毎年夏に行っています(まだ2年目ですが)。

去年は「お薦めファッション本」というざっくりしたテーマ、今年は各自が設定したテーマに基づいて10冊選んでコメントをつけるというシンプルな企画です。


リストやコメントは公開していないのですが、ふと僕が今年選んだものを紹介してみようかな、と思ったのでここでお知らせを。


今回、僕が選んだテーマは「ファッション雑誌」です。

雑誌が売れないとか紙媒体は衰退しているとかよく言われますが、まだまだ良い雑誌ってあるんですよね。というわけで、もし将来ファッション雑誌の編集者になりたいという人がいたら、こんな雑誌を見てみたらいいんじゃないのかな、というものを集めました。厳密には雑誌じゃないものも入っているんですけれども。

そしてひとつ自分が関わっているものが入っているのはお許しください(笑)


コメントがないと選んだ意図がわからないものもあるのですが(特定の号のみの話をしている場合もありますし)、全部載せると長くなってしまうので今回は割愛します。

出版元などへのリンクを貼っておいたので、興味のわいた本がありましたらチェックしてみてくださいませ。


『The Room』

『GREY』

『LOVE WANT』

『encens』

『DAPPER DAN』

『Fashion Theory』

『VESTOJ』

『mslm』

『vanitas』/『fashionsita』

『ユリイカ』/『現代思想』

デザインとしてのファッション

僕は普段大学のファッションコースで教えているのですが、今日はそれに関連する話を少しだけ。


僕がファッション教育において考えていることは、ファッションをデザインとして捉えてもらいたい、それに尽きます。

このような言い方をすると、「いやいや、ファッションデザインということばもあれば、ファッションデザイナーという職業もありますよね」と反論されるかもしれません。でも、ファッション教育をデザイン教育として捉えている学校はとても少ないように感じるのです。

僕はファッションデザインの話をするときに、よく料理にたとえます。それは料理もデザインだからです。というのは、端的に言えば料理には理屈と論理があるからです。

たとえばぶり大根をつくるとき、大根を米のとぎ汁で煮るというのがオーソドックスな方法です。その行為の意味を聴かれて、「え、なんとなく」とか「その方がかっこいいじゃないですか」とか答える料理人はいませんよね。あるいは、見た目にインパクトがあるからといって、あるいはかわいいからといって、ショートケーキに納豆をかけたりラーメンにマヨネーズをかけたりする料理人もいません。


でも、学校の卒業制作や学生向けのコンテストでは、納豆ケーキやマヨネーズラーメンのような「これどこで誰が食べる(着る)の?」というものばかりが作られているように感じます。そこには論理も理屈もない。

僕は学生(あるいは若い人たち)にファッションもデザインだと捉えてほしいのです。服をデザインするときにいきなり「自己表現」をするのではなく、誰がいつどこでどのように着るためのものなのか。すなわち、5W1Hのようなことをまず考えること。デザインはそれを使う人のためにするべきであって、デザイナーの自己表現のためではない。それが前提だと思うのです。


「自分の好きなものを作りなさい」では良いデザイナーは育たないと思っています。もちろん、ごく一部の勘のいい人はそういう教育方針でも自分で考えて成長することができるでしょう。しかし、学校教育は普通の人が普通の仕事をできるようにするのが第一義なはずです。そうするとやっぱりきちんとした方法論を教えるべきだと思うのです。他の多くの分野と同じように。


デザインという行為はそれほど特殊なことだとは思いません。誰もが料理をできるのと同じように、方法さえ身に着ければ誰もがデザインをすることができるはず。そんなことを最近よく考えています。


もし上記のような考え方に興味を持ってくれた人は是非ブルーノ・ムナーリの『モノからモノが生まれる』を読んでみてください。僕の授業の教科書的な本です。

『vanitas』No.003

水野大二郎君と共同で発行しているファッションの批評誌『vanitas』の第3号をようやく発売することができました。
目次や取扱店などはこちらをご覧ください。
元NAiyMAのデザイナー、柳田剛さんのインタビューが個人的にはオススメです。
他では絶対読めないでしょうから。


と、宣伝だけで終わりそうな雰囲気のエントリーですが、今日はこの宣伝が主目的ではないのです!


今日ブログを書こうと思ったのは、繊研新聞社の「ファッション意識調査」(言い換えれば「服飾系専門学校生のよく買うブランドランキング」)が少し前に話題になっていたことに端を発します。


「ファッションを勉強する学生の買うブランドがファストファッションばかり買っているなんてけしからん!」という感じで、ファッション業界の将来を憂うような発言が散見されました。ファッションを勉強しているのであれば、もっと良い服を買うべき/着るべきだ、と。

そうしたコメントを見て、正直なところ驚きを禁じ得ませんでした。これまでのファッション業界はそういう未来を望んでいるようにしか思えなかったからです。


まず、19世紀に生まれたオート・クチュールが20世紀後半になってプレタポルテに取って代わられたとき、その運命がおおよそ決まりました。つまり、大量生産による価格の引き下げが是とされたわけです。その後、プレタポルテのブランドのなかでもセカンドラインやディフュージョンラインなどが作られて価格帯は低下の一途をたどってきました。つまり、現在のファストファッションが隆盛を誇る状況は生まれるべくして生まれたと言えるのです。


もうひとつは、服の「良さ」についてです。僕のような人間がファッション批評が必要だと主張するときまって
「ファッションに必要なのは感覚だけで、論理なんかいらない」
「説明が必要な服なんてだめだ、服は見た目がすべてだ」
「ファッションは言語化なんてするべきではない」
などと言う人がいまいます。でも、よくよく考えてみると、批評がないということは、どんな服が良い服なのか誰も説明しないということです。
言葉で良さを説明することなしに、「おまえら良い服がどういうものかわかれよ」なんて傲慢もいいところではないでしょうか。


そもそも、良い服ってなんなのでしょう?それを考えるのが批評です。

批評に唯一解はありません。その基準は人それぞれです。パターンを見る人もいれば、コンセプトを見る人もいますし、ビジネスの方法論に注目する人もいるでしょう。その論理に整合性があれば、読者が納得することができれば成立します。ですので、「良い服」というもののあり方もさまざまです。


まず必要なのは各自が良い服とは何かを考え、議論すること。それをしてもいないのに現状を嘆くというのはちょっと理不尽ではないでしょうか。

小梶真吾「服バカ日誌」

いまから3年前、京都造形芸大でファッション史の授業を担当していたときに出会った小梶真吾君。
今まで出会ったなかで、抜群のセンスを持った学生でした。センスと一言で言ってしまうと身も蓋もありませんが、判断力や思考力、そしてもちろん創造力も、デザイナーにとって必要な能力すべてを彼は持っていました。

その小梶君の卒業制作のタイトルは「服バカ日誌」。
一見人を食ったようにみえるタイトルですが、服を作ること、そして売ることにきちんと向き合った作品です。
地味かもしれませんが、これこそファッション教育が目指すひとつのモデルだと僕は思います。

ファッションを学ぶ学生の多くは、自分が服を作る必然性を考えることのないまま卒業していくように見えます。そういう学生はファッションデザインとかファッションデザイナーとかいう言葉は使う割に、デザインという概念について考えることがありません。

デザインには論理が必要です。こんなこと言うとすぐ「ファッションは感覚だ」と反論する人がいます。けれども、たとえば料理の場合はどうでしょうか。

砂糖や塩の分量を「なんとなく」決めてしまう料理人はいませんよね。既存のレシピを研究し、自分でも試行錯誤を繰り返した上で自分がベストだと思う分量を決める。そこには論理があります。

丈ひとつ決めるにしても、ボタンの数を決めるにしても、ポケットの位置を決めるにしても、本当は論理と試行錯誤が必要だと思うのです。

なんとなく作っても、一度や二度はたまたまいいものが出来るかもしれない。でも、そんなやり方だとそれ以上展開することができない。

同様に、デザインには5W1Hのようなものが必要です。誰が、どこで、どんなシチュエーションでそれを使うのか。目的がなければデザインはできません。学校だけでなく、コンテストにおいても、そんな基本が考えられていない。そんな状況でいいデザイナーを数多く育てるなんて無理ですよね。

小梶君のようにセンスがある人は、必要なもの/ことに自分で気づけるのでしょう。でもそれは教育の結果ではない。学校教育の結果として、こんな卒業制作が出てくるようにしたい。そんなことを考えています。

小梶君の話をしようと思ったのに、話がだいぶ逸れてしまいました。でも、彼はおそらく目立つのが好きなわけでもないので、このくらいでいいのかもしれません。

興味がある人は彼のルックブックをご覧ください。古くさい価値観にしばられたルックブックしか作れないプロのデザイナーにこそ見てほしいです。

http://s-kokaji.tumblr.com/

東コレ雑感

今回の東コレを見て(改めて)感じたことをつらつらと。

今回に限った話じゃないのですが、本当にこの形でコレクションを見せたいの?と思ってしまうブランドがとても多いです。
ヒカリエホール(少し前ならミッドタウンのホール)みたいな無機質な空間にとってつけたようなランウェイを作ってショーをする、そんな形式のことです。
モデルも昔ながらにスタイルの良い外国人モデルばかりを使っていて、昭和の百貨店のファッションショーを見ているような気分になります。
そんななか、sinaのショーは色々な意味で挑戦的だったな、と思います。みんながみんな、ああいう見せ方をする必要はないけど、もっと空間と演出をちゃんと考えてほしい。

ファッションって服だけじゃなかなか成立しません。その一因は情報量が少ないから(このあたりは『新潮』10月号でまとめているので興味があれば読んでみて下さい)。服というものは、写真とかモデルとか映像とか空間とか、いろんな要素を纏ってファッションになると思うんです。
どのデザイナーさんもモデルは自分たちで選びますよね。ルックブックを撮影するときの写真家もそうですよね。それと同じで、ショーをする空間もちゃんと選んだ方が絶対にいいはず。

今季のTheatre Productsのショーや2011年春夏のsiseのちとせ会館でのショーみたいに、服とぴったりあう空間でコレクションを見せると、印象が格段によくなりますよね。

今言ったようなことはデザイナー(ブランド)側だけの問題じゃありません。
JFWは、本気でデザイナーを支援したいのなら、コレクションを最大限によく見せるためのサポートをしてあげた方がいいと思います。便利だから、という理由で会場をひとつにまとめるのではなく、デザイナーがやりたい場所でやれるような環境を整えてあげるよう努力した方が、長い目で見たらメリットが大きいと思います。
LAMARCKとか、すごくいい服を作っている若手のブランドがあるのに、お仕着せの会場でやっていたらもったいないです。

あとはメディアの問題。

いまのコレクション雑誌はショーをやるブランドが前の方に掲載されるし、ウェブメディアの多くは、ショーを速報で取り上げています。なんでそんなにショーを特権化するのでしょうか。展示会形式で発表しているブランドにも面白いところはいっぱいあるのに。ショーも展示会もフラットに捉えて、その雑誌が「このコレクションよかった!」と思ったブランドを前の方に載せたらいいんじゃないでしょうか。その方が、熱が読者にも伝わるように思います。2013年秋冬のASEEDONCLOUDみたいに、ショーよりも数倍いい空間の作り方をしているところもあるんですし。

デザイナーはやれることなら好きな場所で発表したいんだろうな、と思います(多分だけど)。「ショーをやらなかったらメディアに取り上げられにくいから…」とか、「自分で場所を借りるのは交渉が大変だから…」とか、色んな理由があるんでしょう。
だったら、周りがそれをサポートしてあげられるような環境を作ってあげたらいいですよね。

「今まではこうだったから」とか「これが便利だから」とかではなく、「こうした方が楽しいはず!」ってことをみんながやっていけば、もっといい世界が作れると思うのです。

Etw.Vonneguet、リアルとヴァーチャルのあいだに

2009年に起ち上げられ、歌手Salyuへの衣装提供やJapan Fashion Weekへの参加など着実に足場を固めつつあるブランド、Etw.Vonneguet。原宿でゲリラショーとして行われた2010春夏のデビュー・コレクションに続いて、同年の秋冬コレクションは映像作品「CWOOKD」として発表された。以下、この映像を分析しながら、Etw.Vonneguetというブランドについて論じてみたい。

冒頭で映し出されるのは、コック帽を目深に被り、表情が隠された一組の男女の料理人がテーブルに向かい合って座り、食事をしているシーンである。だが、ナイフやフォークからワイングラス、皿に盛りつけられた料理まで、テーブルの上にあるのは紙に描かれた記号、言ってみればヴァーチャルなものでしかない。一方、その奥には白く塗られたワインボトルが対照的にリアルなモノとしてある。そこで淡々とヴァーチャルな食事を続ける二人。そこに毒々しいまでの赤いケーキが現れ、突然食物がリアルな存在として現前する。

一見、何を言わんとしているのか理解しがたいこの映像作品は、コレクションのイメージの提示としてだけでなく、Etw.Vonneguetというブランドの態度表明として理解することができるのではないだろうか。

リアルな道具でありながら、決して道具として使われることのない木槌と電動ドリル。木槌は一度だけ女性が男性に向かって振り下ろされようとするも、その行為が遂行される前に時間が戻されてしまう。一方、道具として使われているように見えるものの、あくまでヴァーチャルなものでしかないがゆえに空虚さが強調されるナイフとフォーク。さらに、毒々しいまでに赤いリアルなケーキは、ピンセットのようなもので形を崩され、男性の口に運ばれていくかのように見えるが、その行き着く先が明示されることはない。つまり、これらリアルなモノとヴァーチャルなモノはおしなべて宙吊りの状態に置かれているのだ。両者のこの拮抗した関係は、「『生と死』『整合と矛盾』といった対極にある要素を統合し、次の段階へとシフト(止揚)させることをコンセプトとしている」(註1)Etw.Vonneguetのスタンスそのものであろう。

Etw.Vonneguetはデジタルツールによって制作された衣服をiPhoneのアプリなどで発表すると同時に、リアルなファッションへのアプローチも行っている。CGによる衣服の提案だけでは、実際にその衣服が着られることはないが、アヴァターが一定の認知度を得ているヴァーチャルな世界のことを考えれば、そこには様々な可能性が秘められているだろう。その一方で、デビュー・コレクションで顔全体をマスクで覆ったパフォーマーたちにストリートを歩かせたように、Etw.Vonneguetは現実社会との関わりを捨てることもしない。このEtw.Vonneguetというブランド自体が、「CWOOKD」においてその行き着く先を探し求め、存在の様態を模索していたモノに表象されていると言えるのだ。

リアルとヴァーチャルの狭間で揺れ動くEtw.Vonneguetが行き着く先は、果たしてどのように止揚された世界なのだろうか。

(註1) ブランドのプロフィールより。


これは2010年に京都造形芸術大学空間演出デザイン学科の成実・水野ゼミが発行した『ファッション・クリティーク』(vol. 01)というZINEに寄稿したものをちょっとだけ修正したものです。

いつもいつも、自分が過去に書いたものを見るのは恥ずかしくてたまらないのですが(だから校正も苦手だし、掲載誌は直視できません)、今月号の『新潮』(あと3日後には次号が出てしまうのでお早めに!)に書いた話(写真を使ったファッション批評)の一例になるかなあ、と思って載せました。

お知らせ2つ

このところ告知ばかりですみません。。

以前このブログでも取り上げた横澤琴葉さんの展覧会をgallery 110で行います。

会期は8月31日〜9月8日です。

エスモードの卒展で見て、この人をちゃんと取り上げたい!と思ったのがきっかけで実現しました。

詳細はこちらで。

そして同日、gallery 110の隣に「コトバトフク」というセレクトショップがオープンします。

情報はこことかここで。

横澤展、コトバトフク共通のオープニングパーティを8月31日18時から開催いたしますので、よろしければお越しください。

「book self」展

gallery 110での展覧会のお知らせです。

今回は「book shelf」と題して、メンバーが各10冊ずつオススメのファッション本を持ち寄って展示を行うという企画です。

写真集から小説まで、王道からひねったものまで色んな本が並んでるので、ファッションを勉強し始めた学生でも、既にファッションの仕事をされている方でも楽しめる展示だと思います。

http://gallery110kyoto.blogspot.jp/

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8月17日(土)〜25日(日)
12時〜19時(予定)
「book shelf」展
「本棚は自己をうつす鏡である」。

友達の家を訪ねたとき、つい本棚に目が行ってしまうという人が結構いるのではないでしょうか。
小説やマンガ、哲学書や写真集など多種多様なジャンルのものが並ぶ本棚は、その持ち主の嗜好や思考をあらわすものとなります。

私たちgallery 110の運営メンバーはこれまで数多くの本に影響を受け、感銘を受けてきました。「book shelf」では、メンバーが各自の本棚から選んだお薦めのファッション本(各10冊)を展示します。

それぞれの本には出品者の推薦コメントを付けています。また、ものによっては付箋や書き込みなど、持ち主がその本を読んだ痕跡がわかるようなものあります。各メンバーがファッションをどのように捉えているのか、各人のファッション観の一端があらわれているはずです。

もちろん、本は手にとって読んでいただけます。椅子も用意しています。
デザインのインスピレーション源を探している方、色々な服を見るのが好きな方、ファッションを考えるのが好きな方など、ファッションに興味がある方であれば誰でも一日中楽しめる展示です。