CHRISTIAN DADAは2010年、デザイナー森川マサノリにより設立されたブランド。
森川氏は「CHARLES ANASTASTASE」より独立後、友人と共に「LIVRAISON」を設立。09年に同ブランドを脱退し10年A/Wより「CHRISTIAN DADA 」をスタート。
2011年4月には初の単独ランウェイ形式となるショーをラフォーレ原宿ミュージアムにて発表。MTV VIDEO MUSIC AID JAPAN ではレディ・ガガの衣装を手がけ、同年10月にはウイメンズウェアの単独ショーをroomsLINKにて発表した。
ブランド設立から僅か2年、今や多方面から注目を集める存在となったデザイナー森川氏のクリエイションの源泉を探る。
―出身が香川県とのことですが高校までは香川で過ごしたんですか
高校までは香川県で過ごしました。専門学校は大阪の上田安子服飾専門学校に通い、そこではデザインの勉強をしました。創設者がクリスチャン・ディオールによるディオールのデザイナーアシスタントだった方でパターンに精通しているということが売りの学校なんです。
高校を卒業したら服飾の専門学校に行こうと思っていたのですが東京と大阪で迷っていて姉が大阪に住んでいたので人伝いに情報を聞いたところこの学校が良いということを聞いたんです。
―服を作れるようになりたかったから専門学校に通ったということですか
そうですね。僕も入学した時はデザイナーになりたいという気持ちが強かったわけではなかったので、服の基礎からしっかりと学べるところが良いのかなって。
大阪は家賃も東京に比べたら安かった。思い返してみてもパターンは強い学校だと思いますし、就職が強い学校とも聞いていました。それで学校には2年間通いました。卒業後一度東京に上京し6月?くらいからFAD3というブランドに企画として入り働いていました。その翌年の5月に渡英しています。
―結局上京を選んだのはなぜですか
学内で僕だけ就職活動をせず、他のみんなは就職先が決まっていた。卒業する前に大阪で色々仕事を探したりもしたのですが、将来のことを考えた時に大阪だけに固執せず一度東京に出て見てから考えても良いのかなって。だから家も決めずとりあえず上京し、友人のところにお世話になりながら就職を探すという毎日でした。それに大阪にいると大阪vs東京みたいな感覚がある。考え方が少し狭い部分があると感じていた。僕はそれがあまり好きではなかった。でもそれは東京に出たら理解出来るのかもしれない。だから一度出たかったというのもあります。
―専門学校での2年間は楽しかったですか
僕はどちらかといえば劣等生だったと思います。課題も常に遅れていましたし。みんなで学校外でショーをやったりとかはなんとなく楽しかった覚えがある、そんな程度の想い出です。
日本では課題での製作は”自由製作“とはいってもデザイン殺しというか、どうしても自由に出来ない部分がある。お題も決まっていたり「ここはこうだと服じゃない」とかそういう概念がとにかく嫌いでした。それってこっちはそう思って無くても制限がかかってしまう。それが例えば一線で活躍しているデザイナーに言われたのであれば「確かに」と思ったのかもしれませんが・・・・。
それで課題の作品を作るのにあまり熱が入らなかった。服自体を作るのは好きでしたけど。
―学生時代の作品はどんなものを作っていたんですか
今とは全く違うと思います。自分では着ないと思う素材を好んで使用していましたがそんなに派手とか造形的に面白いモノは作っていなかったと思います。
―原点的な質問をしますがファッションに興味を持ったきっかけってなんですか
ファッションに興味を持ったというよりは実家が刺繍屋なので早い段階でそういうことに携わることが多かったと思います。刺繍をする為にチャコペンでアウトラインを描いたり、それを僕と親で手伝ったりしていました。そういうことをやっているうちにそれが自分に向いているのかなと思いだしたんです。それが”デザイナーになる“ということではなかったんですけど。
服に携わることがしたいと思ったことがファッションとするなら小学校5、6年くらいです。祖父母と一緒に住み、祖父に育ててもらったような感じなので中学校も継続してそういうことを手伝ったりしていました。
着るという意味では中学校の時に体験した”DCブーム”の時だと思います。20471120はプレミア価で高くて買えない物が多かったのですがbeauty:beast(ビューティービースト)、Vivienne Westwood(ヴィヴィアン・ウエストウッド)、YUJI YAMADA(ユウジ・ヤマダ)、Masaki Matsushima(マサキ・マツシマ)も好きでした。着るということではその時期に目覚めていると思います。
―実家の刺繍屋について少し教えてもらえますか
香川ではそれなりに有名ではありました。今は祖父も他界したので言えますが、四国中の暴走族の特攻服の刺繍を祖父がしていたので、暴走族の人や警察が玄関に週2、3回は来るような感じでしたね。体操服のネームを打ったりもしていました。それと服飾資材も売っていて、刺繍もやっている、わかりやすくいうと新宿のオカダヤが凄く小さくなったみたいな、基本的にはそういう感じのお店です。
―中学校の頃からDCブランドを似たモノではなく実際に本物を着ていたのですか
着ていましたね。洋服は姉と共有していましたので。それにbeauty:beastは香川に直営店もありましたし、20471120もセレクトショップにありましたし。その頃から制服の裏にチェックの生地なんかを縫いつけたりもしていました。
―丁度その頃はNikeブームがあったと思いますがそこも経験しているんですか
そうですね。Nikeも履いたりしていました。ただ関東で話題になっていた「Air Max狩り」みたいのはほとんど無かったと思います。僕自身もAir Maxは高くて買えませんでした。
―着ることのファッションに目覚めた理由って異性を意識してのことですか
それよりは目立ちたかったという気持ちの方が強いです。中学生の時に髪の毛は既にモヒカンで。すぐに親に刈られたりもしましたけど。
―中学生でモヒカン・・・、
ただそこから僕は軽い登校拒否になってしまいました。というより学校側に拒否されました。中学校の卒業アルバムにもほぼ載ってないですし。ヤンキーだったわけではないんですけど。
僕は喋るのが苦手だったので結局見た目で目立ちたかったんだと思います。
―僕も同世代ですが僕自身は当時そういうファッションをする人を恥ずかしいと思っていました
確かに今見ると恥ずかしいかもしれないですね。でもその時はそれが良かった。着こなしも大人の人の着こなしと違い、中学生の着こなしって凄くダサいんです。未だに当時のことをネタにされますし、昔の写真とか見たくもありません。
それにそういう服を着ていたのは姉の影響もあります。デザイナーズの服は高いので僕はお年玉とかでしか買えなかったんですけど姉が持っていたので。
―お姉さんもお洒落だったということですか
お洒落かどうかはわからないですけどそういうブランドを好んで着ていました。ハードコアバンドをしていた彼氏の影響か美容師なんですけど髪も坊主に近かったし、赤髪でピアスもたくさんあいている感じの。
―専門学校時代はどんな格好をされていたのですか
その時には今とあまり変わらないと思います。古着をメインにブランド物を着たりして、色んな格好もしたのですが最終的には黒が多かったです。結局お金がなかったので変な古着ばっかり着ていましたが、そんな時代です。