Interview

S.NAKABA ~Wearable sculpture~ 1/4

中場信次氏はファッション、ヘアー、シューズ、グラフィック、などの製作やデザインを経験した後、1974年から本格的にジュエリーの世界に入り多様な作品を発表。身体につけることの出来る彫刻(Wearable sculpture)という考えのもとジュエリーを製作、宝石や貝に躍動感あふれる彫刻をほどこしたカメオと、アルミや鉄などで作るファッション性の高いジュエリーの二つを柱とする。カナダのモントリオール美術館などに作品が所蔵されている。東京ではミキリハッシンで取り扱われているブランドだ。 作品に使う素材には宝石や貴金属そして、アルミ缶やペットボトルのような身近でありふれた素材など希少性や価格の高低に関わらず全て平等に扱うことで素材に秘めた可能性と美しさを引き出し、ジュエリーとしての新たな命を与え、又、ジュエリー最古の技法の一つであるGlyptic(宝石彫刻術)の研究に勤しみ、日々新しい作品を作り続けている。今回はアトリエの見学と合わせファッション性と芸術性を備えたクリエーションの秘密に迫るべく様々な話を聞いた。

―そもそもどうしてジュエリーの世界に進もうと思われたのですか?

幼少期からモノを作ることが好きで、一円玉を金槌で叩いて延ばしたり、クリスマスに貰ったおもちゃをお正月にはバラバラに分解したりしていました。実家が洋裁店を営んでいたということもあり、当時から女性の美や豊かさのためになる仕事をしたいと思いつつ、色々なことを経験し、結果的にはジュエリーアーティストとして活動するようになりました。

―その当時は服を作ることもあったのですか?

中学・高校生の頃にはどうやったらかっこ良いシャツやズボンを作れるか等、色々研究してみたりしていましたね。実際にシャツを作ってそれを着て街を歩く。そのときの気分といったら、本当に何とも言えませんでしたね。最近でも面白い形のズボンを自分で作ったりしましたよ。ただなぜ洋服を作ることを仕事に選ばなかったのかと言えば、伸びたり、縮んだりという布の性質がしっくりこなかった。それよりは金属や鉱物に興味関心がありました。 あと、母が山本寛斎さんの服を作っていたこともあって。67〜8年頃だったかな、これからロンドンに進出するというような時期で、とにかくとんでもない服を作るわけですよ。特にショーの作品なので尚更です。僕も手伝うこともあって、完成された服を原宿のアトリエまで運ぶということがあったのですが、そこが体育会系と言うか応援団のような世界で。それまでファッションの世界に進もうと思っていたのですが、ショー前の忙しさ慌しさを見て、僕はもっとじっくり物作りができる分野に進もうと。あの影響は大きかったかもしれません。

―靴の勉強もされていますよね?

やっぱりおしゃれで一番重要なものって靴だよねという思いがあって。(笑) 着ている服が冴えなくても靴だけでも素敵なものを履いていればこの人凄いかもとか思ってしまうものでしょ。それで高校卒業して周りの友人たちは大学に入りましたけど、僕は彼らが大学に通う4年間で色々興味のある仕事を試してみようと。それで美容学校に入ったり、靴の修業をしたり、カスタムカーショップで働いたり色々なことを経験しました。

―ヘアデザインの学校に入った理由は何だったのですか?

そのころの70年代というのはちょうどヘアデザインの分野が脚光を浴び始めた時代で。ある意味ミーハーなところが僕にはあったので、これかっこいいなとかモテそうだなとかそういった感覚で選びました。(笑) デザインやファッションの分野に進みたいと思っていましたから、じゃまずは美容学校に入ってみようと。それで中野にあった美容学校に進学しました。今もそうですけど、あの頃の中野ブロードウェイもモデルガンのお店などがあってすごくおもしろかったですね。

―今は村上隆さんのカイカイキキがプロデュースするギャラリーもありますしね。

あらそうなの。知りませんでしたね。僕自身前々から中野は必ずくると思っていたので。 まあそれで美容学校に通い始めるのですけれど、もう最初からこれ違うなと。でもなかなか辞められなくてという日々でしたね。

―どういったところを違うと感じたのですか?

単純に言うと高校より楽して遊びたいという思いがあって。今はどうかわかりませんが、当時の美容学校は1年間みっちり学校に通って残り1年間はインターンシップ,その後、国家試験というカリキュラムでした。ある種徒弟制度のような感じで。昔から色々なモノを作ってきましたから、自分のことをけっこう器用だと思っていたんですけれど、カーラーやパーマのロッドを巻くといった美容師に必要なスキルを身に付けることは半端じゃできないなと。それで一応インターンシップを下北沢と青山で経験してから、次は靴の勉強を始めました。厚木基地の近くにあったチャーリーシューズという知る人ぞ知る店で。米軍の基地ですからアメリカ的な靴の作り方の基本からですね。ただそこで一種の挫折のようなものを又、経験してしまうのですが。

―挫折ですか。

ええ。靴作り、特にモカシンのステッチなどやり直しがきかず、加えて高い技術力が必要でしょう。まさに職人の世界であまりに大変だなと。またスキルを習得するには5年10年のスパンで親方の下で修行しなければいけない。又、駆け出しの者にも給料は出してやらないと食べていけない、という関係性はお互いにとっていいものなのかという疑問も湧いてきて、革という素材は好きなのでそれは勉強になりましたが。

―今も革の素材は使ったりしていますか?

今は殆ど使ってはいないですね。又いつか革の作品も作ってみたいですね。

―カスタムカーショップの会社にその後勤めると言うことですが。

元々乗り物は好きで、古くなった車を改造して蘇らすという仕事はワクワクしましたね。死んでいたエンジンが熱と煙を吐き出しながら生き返るわけですからね。喜びはありました。私は主にエアブラシを使ったカスタムペイントをしていました。まさにヒッピーの時代で。社長も面白い方で“太平洋の運び屋”なんて言っていました。でも本当におもしろいものを集めてきていて、その中にヒッピーが作ったアンティークの紋章の付いた銀のスプーンを丸めてできた指輪があって。本来の用途とは別の用途に使ったおもしろさ。加えてアンティークの雰囲気。宝石店に有るジュエリーとは違うのだけれどすごく新鮮で素敵だなと思いました。それでその後ジュエリー制作を1から勉強してみようと思い、新宿にある彫金学校に行ってという感じです。学校へは週に2回オープンカーで通っていました。(笑)

―すごい学生ですね。(笑) 車種は何だったのでしょうか?

イギリスのオースチンヒーレースプライトに乗っていました。それで相模原から新宿まで通っていました。学校は自由に進む事を認めてくれて、半年で1年分のカリキュラムを終えることができました。次のコースに行きますかと言われたのですが、僕は石を彫って作るジュエリーをやっていきたいということが明確になっていて。その技術やカリキュラムはまだ学校にはなかったので独学でやっていこうと。それで自動車も売って、そのお金で色々な工具を買いました。それで家の2階を仕事場というかアトリエにして始まったのがS.NAKABAです。

―その当時も1からジュエリーを作っていたのですか?

始めた頃は新宿住友ビルの中に有るジュエリーショップから裸石だけ預かってきてデザインして銀の指輪に仕上げて買い取ってもらっていました。またそのお店の関連の宝飾店でプラチナなども扱わせてもらって、本当に色々勉強させていただきました。 その後、妻と出会って。妻は宝石店に勤めていました。それで単純に言うと僕は作るけれど売るっていう方法は持っていなかったので2人が組めばと。(笑) 僕に欠けていたものを持っていましたから。実を言うと妻は僕の母のお客様で、既に母と妻は面識があって。その時はまだ互いの事は知らなかったのですが。 色々と喋ってしまいましたが、要は僕1人ではどうしようもなかったということが言いたかったことです。結婚を環境と言うのは語弊があるかもしれませんが、物作りというのは環境があまりにも重要で、逆風が吹いている中環境が整っていないと乗り越えていくというのは大変です。やはり組み合わせがとても大切なんですね。僕1人では良い結果は出なかったのではと思います。

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