Interview

Yukiko Yuzawa / CONCENTO PARIS H.P.FRANCE 1/4

パリ、ミラノ、ロンドンなどヨーロッパブランドを網羅する「CONCENTO PARIS H.P.FRANCE」(コンセント パリ アッシュ・ペー・フランス)バイヤーの湯沢由貴子氏。パリ在住19年、モードの中心と隣り合わせの生活を送りながら、「21世紀を明るくたくましく生きる女性」を軸に経験を生かした独自の視点で、他にはない新鮮なアイデアを提案する。ショップでは卓越した直感を働かせ、コレクションラインから新進気鋭のデザイナーまで幅広く展開。

ショーや展示会に足しげく通い、情熱から得るバイイング術と一歩二歩先を読み取る洞察力。 鋭い探究心と洗練された感性を合わせ持つ彼女のファッション哲学を紐解いていく。

―まずはバックグラウンドから教えていただけますか?以前は百貨店でバイヤーをされていたそうですね。

はい、前職では西武百貨店の売り場からスタートしました。ショップマスターになった後、ライセンスのクリスチャンディオールに異動し、その頃からインポートの買い付けにいくようになりました。それが軌道に乗り、希望を出したら商品部婦人用品小物のバイヤーになったんです。当時はまだバイヤーの仕事といってもメーカーと掛け率の交渉くらいでしたが、売り場にいた時にバイイング的なこと、自分で仕入れた物を自分で売って、利益率とか、営業予測とか全部出していたのでそれが全ての自分のベースになっていると思います。

―その頃はどういうものが人気があったのですか?

私がインポートにいた時はミッソーニ、アルマーニ、ジャンフランコフェレという時代です。クリスチャンラクロワが彗星の如くあらわれ、ジャンポールゴルチェも出たばかりでショー会場の扉を開けたらお客さんがなだれこむみたいな、それくらい人気がありました。
その頃からパリは仕事で定期的に通い、自分の目でショーに出ている物がどうお店に置かれているのか確かめたいのでホリデイをとってもう一度行っていました。とにかくモードが大好きでした。

―元々なぜファッションを選ばれたのですか?

特に理由はなくただなんとなく百貨店に就職してしまったんです。でもいざ入ってみると売り場が凄く面白くて、とにかく自分が始めてやることばかりでしたので楽しかったのを覚えています。25歳になる頃にショップマスターになり、ただ売るだけではなく数字とかにも関わるようになり、差益率、差益高、在庫を縮小して回転率を上げて2倍以上にして表彰されたんです。それで社内の差益率向上弁論大会みたいのに出て優勝したりもしました。
その頃クリスチャンディオールで働いていましたので自分で休みを取ってパリに行ってみたんです。初めてパリのファッションウイークを見たら凄く感動して。また行きたいと思っていたら出張で行けるようになり、大きなブランドのショーのチケットも知人を通してもらったり、他のショーもカメラマンのところでこっそり見たり、有名無名にかかわらずいろんなブランドのショーを見ていました。

それにロンドンもその頃からよく行っていました。ワーカーズフォーフリーダム、ジョーケイスリーへイフォード、ベッツィージョンソン、ザンドラローズ。当時はロンドンは景気が良くない時代でしたがロンドンにはロンドンしかない面白さがある、買うことはないのですが何かを探し求めていっていました。

―でも憧れていたのはパリなんですね。住みたいと思っていたんですか?

憧れてはいないのですがファッションをやるならパリだなと思っていました。絶対に住みたくないとは思っていましたが。パリコレが終わってタクシーの行列に並んでいると方向を決めて相乗りするんですよ。こんな国には住めないと思ったんですけど住むことになってしまったんです。
でも住んだらやっぱり”ここ”だなって、自分が探していたところだって思いますね。それで19年になりました。

―今はCONCENTO PARIS H.P. FRANCEというお店を手掛けていますがそのお店を立ち上げる為にH.P. Franceに入ったのですか?

百貨店を退社した後、かねてからの夢だったパリに渡り日本の商社でバイヤーのコーディネーターとして働いていました。当時日本のバイヤーさんに自分が良いと思っているものを見せても「まずサンプルを取り寄せてもらえますか?その結果を見てからオーダーします」といった感じで即決しない方が多く、ものの良さがあまりわかっていないと感じていました。ルシアンペラフィネを一番最初にパリで見た時にも「この人絶対凄い」と思ったのにみんな理解してくれなかったんです。そんな人達が今のファッションを作っているんだって。それなら自分が良いと思ったらその場で買うという仕事をやりたいと思っていたんです。奇しくもそんな時、百貨店時代からお世話になっていた(H.P. Franceの)村松社長と偶然パリで再会し、会社に入らないかと誘ってもらったんです。

それでH.P. Franceに入り、大人のお店がないと社長に話したらいいねそれやろうと。最初のショップを大阪で初めましてその後に銀座に出店しました。

―なぜ最初の店が大阪だったのですか?

そこしか場所が空いておらず東京では出来なかったんです。それで(コマツビルにあった)銀座H.P. Franceのバイイングを手伝いつつ、少しずつ内容を変えていき最終的にはその場所でもCONCENTOをやらせていただきました。

最初の頃はイタリアのブランドが中心でした。やっぱり凄くとんがっていますが、最初は銀座だったので売れるところもというところでベルギーのブランドも入れたりしていました。

―大阪から東京に出店するタイミングでコンセプト等は変えたんですか?

「21世紀を明るくたくましく生きる女性」で大阪と変わりません。ブランドものも着ますが安い物も高い物もブランドに関係なく着こなす女性。明るくたくましい。強いだけではなく柔軟に人の意見も聞き入れる女性、そんな女性をイメージしています。

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