“良くも悪くも非社会人でしたからね。自分達が日本の教育を受けていたらやれてなかったかもしれないですね”
―セントマーチンズのスタイルは自分に合っていたと思いますか
どうなんですかね。他の教育を受けていないので合っていたかどうかはわからないですけど。でも間違いなく色んな影響を受けましたし、色々考えましたし、色々潰されました。叩かれて相当悩んだので今から考えると良かったと思います。合っていたか合っていなかったかはわからないですけど凄い良い経験だったと思います。
―セントマーチンズを卒業してすぐにMargaret Howellに入社したわけですがなぜそのブランドだったのでしょうか
一番の理由はMargaretのWigmore Streetにある店ですね。そこはMargaretの服だけじゃなくて彼女が選んだインテリアだったりプロダクト的なものがあったり本があったり、ライフスタイル提案の中に彼女の服が目立たなく置いてある。その感覚というのが自分のやりたい方向性のヒントに感じて「この人の下で勉強したいなー」って思ったんですよね。だからインタビューを受けに行きました。最終面接はMargaretだったんですけどぼろくそ言われたのを覚えています。その時の卒業コレクションのポートフォリオを持って行ったんですけど「私あなたの作品好きじゃない」って言われましたからね。「私の感覚とはちょっと違う」って。
―ではなぜ採用されたのでしょうか
その前のメンズのデザイナーさん、メンズのMDさんにインタビューしてもらった時に凄い評価をしてもらったんですよ。Margaretに通ずるものがあるというか、彼らなりに僕の長所を受け入れてくれてたんです。それもあってメンズのアシスタントに入れてもらえました。
―Margaret Howell UKで働いてみて影響は受けましたか
1年半くらい働いたんですけど相当影響受けましたね。今の考え方とはまた違うんですけどその当時服の表現者として彼女自身のライフスタイルから売るものから何から何まで一貫しているというか、嘘偽りない形で出ていたんですよ。無理してないじゃないですか。服もそうだし自分が良いと思って着たいと思って服を作る。凄くプロダクト的な考えで単品単品で彼女はデザインしていると思うんですけど、自分がセントマーチンズで見てきたファッションとは違ったファッションの取り組みというか、そういう意味では凄い影響受けましたし多分「尊敬するデザイナーは?」と聞かれたら本当にリアルに見てきた彼女しかいないですね。
―セントマーチンのデザイナー達ってもっとコンセプチュアルというか、変化を求めるデザイナーが多いですよね。でも彼女の場合は毎シーズンコレクションを行っていますけどどちらかといえば一貫性があって普遍性のあるデザインをしていますよね
そうですね。でも僕はセントマの教育を受けてきましたし、Margaretで働いていたからといって僕が生みだす洋服がMargaretかと言われたら違いますけどでも凄い僕は良い経験だったなと思います。元々ファッションが好きなのでショー自体は凄く好きですし今でもど定番として見続けたいと思うんですけど自分が出すならMargaret的なものの方が自然だなと感じていましたね。
―その後Margaret Howell Japanでも働いていますがそれはなぜですか
それはビザの都合ですね。実際ワークパーミットが取れなくて突然日本に行くことになって、日本でビザを待ってる形でしたね。UKから来たアシスタントデザイナーだけど皆さんより年下で「日本の社会も知らないでこいつに何やらせるんだ」という感じで浮いていた存在だったと思うんですよね。でもその中で日本の生地屋さんだったり、生地屋さんとの付き合い方などを少し勉強させてもらって。でもそういう浮ついたポジションというのもあってビザの発給も自分の考えていた期限より遅れていたんですよ。それで日本支社の方から「このまま日本にいるか、新しく他のことをやるか」という話があったのでそれなら「すぐ辞めよう」と思ったんです。
その前々から山縣と「ブランドを立ち上げよう」となんとなく夢の話みたいな感じで彼が卒業する時に「やらない?」みたいな話はしていました。でも僕はその時Margaretで色々勉強している最中だったので「いや、まだないんじゃない」とは言っていましたけど、でも自分に無いものをもっていましたし、ある意味彼の作るものは好きだったので「一緒にやったら面白いだろうな」とは思っていましたね。ビザが取れない現状を突き付けられた時に「だったら20代だし、1歩目始めてみようかな」と思ってMargaret Japanの人から「どうする」って言われた日に山縣に話に言って「一緒にやろう」って言いましたね。で次の日には「辞めます」ってMargaret Howellに言っていましたね。
―2人でブランドをやろうと思って一番最初にデザインしたものはなんですか
ブランド名が決まってからですけど一番最初にやったのは名刺作りですね。その時に2人で表現する世界観というものがまだ無かったし自分達のファーストコレクションはまだまだその後だったので初めて会う人に「2人の世界観はこういうものです」と見せれるものが唯一名刺だったので名刺作りから始めました。
―2人とも日本での経験が無いいわば無知のデザイナーでしたが不安はなかったんですか
不安よりも楽しかったですね。「何するんだろう」みたいな。社会の厳しさも何も知らない分「面白いことが出来るんじゃない」という期待の方が大きかったですね。
―ブランドを始めた時に明確な目標はあったんですか
自分たちなりにビジネスプランというかこういう風に表現して、こういう風に広げていきたいねという考えは『非社会人』としてありました。
―玉井さんはセントマーチンズ、Margaret Howellとずっとメンズウェアーをやられていましたがwrittenafterwardsはレディースだけでした。メンズをやろうという考えは無かったんですか
正直メンズやりたかったんですけどね。でも山縣が「ファッションやるならレディースでしょ」という考えがあったので。でも凄いフェミニンな服を作るというよりも彼の表現した世界の中でユニセックス的な表現が出来たらなとは思っていましたね。
―そこからファーストコレクションまでに要した時間はどのくらいですか
僕がMargaretを辞めて2人で活動し始めてからコレクションまでは8ヶ月くらいあったと思います。
―その間は何をされていたのですか
ブランドコンセプトを作ったり、その時の山縣の個人活動の手伝いをしたりelaelaopa!と本を作ったりしていました。それに山縣がArnhem Mode Biennaleに出展する為のニットの家などを作っていました。僕は補佐役的な役割で携わっていました。
―実際writtenafterwardsのブランドが動き始めたのはいつだったのですか
21_21ですね。作り始めた延長で展示の機会があって。僕が山縣と「やろう」と言った同じくらいの時に坂部三樹朗君とか堀内太郎君とか、新人で何かインパクト与える為に個人ではなくグループで表現しようということでその時はざっくりですけど色んなところに話を聞きに行ってましたね。
―直接ファッション協議会の議長に話をしに行かれたそうですね
そうですね。その時のCFD(東京ファッションデザイナー協議会)の議長の岡田さんに話に行ったり、その繫がりでJFWの太田さんに会いに行ったり、Roomsの佐藤さんに会いに行ったり、そこからの流れで経済産業省の方に会いに行きましたね。
―新人の話には聞く耳持たずということにならなかったのですか
そういう気持ちも多少なりともあったと思います。何も僕らに実績があったわけではないですし21_21自体も何か走り出さないまま走り出していつの間にか本番になった感じだったので。
―自分達自らそういう偉い人達に話をしに行くというのは海外っぽいというか日本を経験していないからこそ出来たのかもしれないですね。勿論社会を経験した人はその展示会の時にもいましたがファッション業界に限って言えばみなさん完全なる新人でしたからね
良くも悪くも非社会人でしたからね。何も知らないからこそ出来たというか。自分達が日本の教育を受けていたらやれてなかったかもしれないですね。
―その時は誰が中心に動いていたんですか
メインは坂部君と山縣が中心になって動いていました。
続く