Interview

Kentaro Tamai / ASEEDONCLOUD 2/8

“セントマーチンに行った3年間は常に悩んでいたんです”

―インターナショナルスクールで普段から私服だったのでファッションに早くから興味を持ったということもあるんですか

あると思いますね。

―僕らは学生服だったので私服を着る時ってあまり無かったんですよね。だから買っても正直そんなに着る機会も無かったですし

でも学生服の時も小物とか中に着るもので個性出すじゃないですか。だから僕は制服の時でもそこで個性出していましたよ。

―僕もAir Maxブーム経験していますけどDC系には行かずに当時人気のあったヘルムートラングとかハイファッションに興味を持ちました

僕はあの時のDCブランドには凄いパワーを感じましたね。お店の見せ方もそうですしやっぱり海外にいると日本が恋しいし、日本が気になりますよね。日本のDCブランドの盛り上がりとか凄く羨ましくて憧れだけで買っていた部分もありますね。

―僕はそういうブランドを着ることはなかったですけど当時はストリートからハイファッションまで色んな雑誌は読んでいました

あの頃が一番ストリート雑誌が盛り上がっていた時だったと思います。今はストリート雑誌の境界線って無くなりましたね。昔は雑誌ごとの境界線ってありましたよね。勿論僕らがあまりそういう雑誌を読まなくなったというのも影響していると思うんですけど。どれみても大体一緒の人や一緒のブランドが載っているみたいな。ここら辺着る人はこの雑誌を読んでここら辺のテイストはあの雑誌を読んでって昔ははっきりしていましたよね。

―ありましたね。あいつはこういう服着てるんだからあの雑誌読んでるんだろうなみたいな。そういうので勝手に想像していましたね

雑誌もちゃんと何々系って書いてありましたしね。

―そういう境界線が無くなったのはウェブの力も大きいのかもしれないですね

そうかもしれないですね。僕はリアルにDCブランドに影響を受けていたのでファッション勉強する為に日本に帰って来て勉強しようと思っていましたね。でもたまたまファッションをやっている番組がロンドンのコレクションだったりパリコレクションをやっていて。丁度その時期セントマーチンの卒業生McQueenとかChalayanとか出てきて。僕は自分の着ていた服と見ているものが違ったのになんでそっちに興味を覚えたのかわからないですけどなんとなくロンドンにしようと思ったんですよね。

―日本というチョイスもあったんですよね

親が日本に帰るならファッションをやらせないというのもあってだったらロンドンに行こうとすんなり決まりました。僕そういうの決める時あまり悩まないんですよね。ふと思った通りに動くというか。

―服を作るというのは決めていたんですか

作ろうと思ったんですね多分。
そういいながらも自分の中でセントマーチンはお高いというか難しいかなという部分もあってファンデーションコースの前のオリエンテーションコースというのを3カ月通いましたね。

―インターナショナルスクールに通っていたので他の人に比べて英語は問題ないですよね

だと思っていたんですけどね。実際そんなことなかったんですよね。山縣とはファンデーションコースで出会ったんです。共通の知人がいて知り合いましたね。たまたま彼が作ったジュエリーのプロジェクトを見て「あー変な人がいるな」って思ってそれが山縣だったんです。

―山縣さんは当時から目立つ存在だったんですか

そんなはっちゃけていたわけではないんですけどファンデーションの途中から一緒のコースをとってその時から変なものを作っていましたね。ボディを無視した服というか。

―今と考え方も似ていたんですか

考え方は絶対に今とは違うと思いますね。根本にある思想は変わってないかもしれないですけど。あの頃から比べると2人とも成長したと思いますね。あの頃は社会とコミュニケーションというよりも自分の中の可愛いものを吐き出す感じだったので。今はちゃんと社会とコミュニケーションとろうとして作品を作っているじゃないですか。

―玉井さんはどう変わったんですか

僕は逆にもっとリアルになったのかもしれないですね。あの時は見ていたものがMcQueenとかGallianoでそれに憧れている人達がセントマーチンに入って来ている時代だったので「なんでもいいから爆発しちゃえ」とか「構築的で大きいもの作れ」とかっていう最後の流れがその時に来ていたんです。僕はその流れに乗っていたわけではないですけどインパクトがあるというかどこかはき違えている部分があって、衣装的なものでその時のファッションを勝手に捉えていて今考えていると間違っている方向性でファッションを捉えていたなと思いますね。

―最初からメンズウェアーをやりたいと思っていたのですか

何も考えていなかったですね。ただ山縣と会ってレディースの共感を持たせる部分というのが自分の中に無いというか、もっと僕は着るという部分、リアルな服として人のボディを通してという考えが根本にあったのでそれだったら僕はメンズウェアの方が自分に合っているんじゃないかと思ってメンズをやろうと思いました。

―自分の着たい洋服をデザインしたかったというわけではないんですね

そこもあると思いますけど必ずしもそこではなかったと思います。もっと凄く安易だったと思います。

―当時のセントマーチンの学生たちにとってMcQueen, Gallianoの影響は凄く大きかったんですか

ありましたね。丁度その終わりを迎えていたんですけどそんな中でGarethPughもいたので。彼は違う文脈、それから今を迎えているんですけど卒業ショーの時はそういう雰囲気でしたね。


―玉井さんはAlexander McQueenでインターンを経験していますね

それは1年生か2年生の時にMcQueenがパリコレの直前でインターンを探していてそこに僕や山縣だったりがいて縫製をしたんです。本当にパリコレに出る服を僕らが縫いましたからね。数える日数しかやっていないですけどパリコレ直前でバタバタした中でMcQueenのアトリエに行ってそこでパリコレに出る服を縫っているのはほとんど学生なんですよ。そんな中でも演出の見せ方で凄く格好良く見える、そこでショーって凄いなって思いましたね。

―実際の洋服は完璧な状態ではなかったと

プロダクトはちゃんとしていると思うんですけどショーピースとしては完璧じゃないと思います。完璧には見えますけど世界観で見せるのであって縫製技術とかで見せるという感じではないですね。

―セントマーチンのメンズウェアーのレベルは高かったんですか

どうだったんですかね。でも僕らの上の学年や同じ学年の人が後々化けてITSとかにも出ていたし賞を取ったりしていたのでそれなりに高かったと思います。

―ロンドンの街からの影響より周囲のデザイナー達から受けた影響の方が大きかったんでしょうか

それは間違いないと思います。多分その時はカルチャーから影響を受けるということができていなかったというか紐解くレベルが無かったんだと思います。なので客観的に周りが作っている物から読み説くことの方が多かったですね。山縣はBAの時おとなしかったですよ。ちゃんとボディに乗っかるようなものを作っていましたし。ファンデーションの時の方が面白かったんですよ。でまたパリ(Gallianoのインターン)に行ってからぶっ壊れたんですよね。だから僕は1年か2年の時に「ファンデーションの時の方が面白かったよ」って言ったのを覚えています。でその後に彼はITS3で受賞していますよね。

―玉井さんはそういったコンペティションに応募はされなかったんですか

卒業する年に出そうと思ったんですけど自分の作るものに没頭していて期限に間に合わなかったんですね。それよりも自分の中で(卒業制作を)しっかり作っていきたいと思っていたのでそっちの方に集中していましたね。

―最終学年の作品はどんなものを作っていたんですか

セントマーチンに行った3年間は常に悩んでいたんです。最終学年で物を作るとなった時に、頭で考えてデザインするのって自分のスタンス的に合わないなって思ったんです。頭で考えると固いものが出てくるというか表現として面白くないものが出てくるので単純に自分の好きなマーケットとかそういうものを見て普通に可愛いと思ったり、綺麗だと思ったり、良いと思ったものを寄せ集めてきてそこからインスピレーションを受けてものを作ろうと思ったんです。なのでそんなに奥深いコンセプトじゃないんですよね。「農民たちに送る服」って下手したら日本の学生が付けそうなタイトルというかタイトル自体は凄く安易だったんですけど頭が良くないので自分がいいと思うものを素直に出した方が良いものを出来ると思ったので。

―1,2年を終えて最終的にリアルクローズに近づいたということですか

最終的にそうですね。そう思います。どんどんどんどん無駄をそぎ落としていった感じですね。自分のスタンスに合わないんですよね。下手に頭で考えて大きくしたりコンセプトをすり合わせていくのが。その時まだそんな器じゃなかったというか。

続く

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