Interview

SHUN OKUBO 1/4

東京、そしてパリにてファッションデザインを学びBALENCIAGA、HAIDER ACKERMANN等様々なメゾンでの経験を経て2007年、自身のブランド「SHUN OKUBO & ASSOCIATES」を設立。「野生の思考」、「都市の女性の為のジュエリー」をコンセプトに創作活動を行っているデザイナー大久保俊氏に話を聞いた。

―簡単なプロフィールを教えてください


東京の大学で経営学を学び在学中にエスモードの夜間部に3年ほど通っていたんですけどそれを終えてパリに渡りステュディオベルソーに入り卒業した後にRobert Normandのデザイナーの下でアシスタントデザイナーをした後Balenciaga、Haider Ackermann等のメゾンで経験を積みました。その後帰国し、準備をして2007年の10月にパリで初コレクションを行いました。

―初コレクションはパリなんですね

Rendez-Vousに出展していました。ただジュエリーの輸出って日本から送ると関税などの問題で嫌がる方が多いんです。オーダーが入ってもキャンセルが出たり。ユーロ圏内に自分の製造場所があれば落ち着いてシッピング(発送)も出来るし、お金もそんなにかからないしお客さんの負担も少なくていいんですけど。パリに出展していたのは今は色々な方とお話する機会があるのですが帰って来た当時は全然誰と話していいのかもどこの展示会が良いのかもわからなかったんです。むしろパリの展示会の方が友達を知っていたり繋がりがあったのでパリに行きました。

―今は完全に日本をベースにやられているんですか

今のところは日本をベースにやってもう少し日本の販路が確保できて会社が安定したら海外にも行こうかなと思っています。

―エスモードでは何を学ばれていたんですか

最初の1,2年は洋服のパターンを勉強していました。

―ステュディオベルソーでも洋服ですか

洋服ですね。

―HaiderやBalenciagaでも洋服ですか

Balenciagaでは営業部にいました。日本の全クライアントの半分と人手が足りない地域のクライアントを担当しました。

Haider Accermanではアシスタントデザイナーですが彼はほとんど自分でデザインをやっていたので僕はそれのお手伝いとパターンを引いていました。

―最初はジュエリーではなくて洋服のブランドをやろうと思っていたのですか

そうですね。洋服のブランドをやろうと思い日本に帰って来てからは生地屋さんを回り、工場を回り色々調べていたら6月位になっていたんです。10月展示会なのに間に合わないどうしようかなと。見切り発車でも良かったんですけど色々考えてそれは良くないなと思ったんです。でも何もやらないのもどうかと思い色々話しているうちに知り合いの方に彫金をやっている方がおりジュエリーを作ってくれるということになったのでジュエリーのブランドとしてまず始めることになりました。

―それ以前はジュエリーの勉強はされていたんですか

してないですね。学校でアクセサリーを作る授業はあったので基礎はやっていました。ただジュエリーはいつも洋服と隣り合わせなので昔から興味もありましたし、触れてもいましたので好きなものだったんですね。だから自分の中では洋服と同じくらい興味のある分野ではありました。

―では洋服を先に始めたとしても後々やろうとは思っていたということですか

勿論です。今もそうなんですけど当時は抽象彫刻家のブランクーシ(写真左下)という変わった彫刻を作る人、イサムノグチの師匠だったりするんですけどこの人の作品に凄く傾倒していてジュエリーを作るというよりもこういう形を作りたいっていう思いが凄く強かったんです。だからファインジュエリーを作るという気は無くていかにしてそういうアート作品や彫刻作品を小さくしてジュエリーに落とし込むか、それが僕が最初にやりたかったことなんです。今までジュエリー何もやっていませんでしたと言うとみんなに驚かれるんですけど僕ははっきり言ってジュエリーを作ることよりも何か造形物を作りたい、プロダクツであったり、造形であったり、オブジェクトを作りたいそういう意思の方が強かったですね。

―ジュエリー以外にも他の製品も作りたいということですか

後々は作りたいですね。例えばコップとかプロダクツも凄く作りたいですし洋服もやりたい。ただ洋服もそうなんですけどやっぱりプロダクツとして見ちゃうんですよね。僕の中ではもっともっとフラットな関係性を持っています、グラスにしても、コップにしても、洋服にしても。僕の中では造形という一本のラインの上に全てのっているというか。だからといってモードの歴史なんて全て関係ないということは無いですしモードの勉強もしてきましたし、リスペクトもしていますし、モードをやる時はモードの文脈を考えてやっていきたいと思っています。

―以前洋服のデザインをしていた時はどのような洋服を作られていたんですか

僕が学生を卒業するころはかなりミニマリズムに傾倒していてHelmut LangかHaider AckermannかHussein Chalayanのところに行きたいと思っていました。僕の中ではですけど90年代の最後はHelmut Langがぶっちぎりだった気がするんですよ。ミニマルも究極なところまでいってしまってそれが凄く面白かったですね。Chalayanはそれをアート的アプローチでやっていてそれもまた面白かった。Haiderは不思議な人でしたね。荒々しいのに知的だって服を見た時に思っていました。実際本人に会っても本当にそういう感じのイメージだったんです。彼のアトリエに行くと民族服の本がたくさんあったりするんですけど、彼の凄いところというのはそれを(民族服)現代の女性の服に変換するのが凄くうまかったんですね。そこは知性を感じるところというか、不思議な感覚でしたね。あの人は凄く繊細で男っぽくてマッチョなところもあるんですけど、女性らしいエレガントもわかっているし、なおかつ野生の荒々しさもわかっている。そこをうまくモードにしている、そこがやっぱり凄かったですね。僕はそこからかなり学んだ気がします。今の僕のブランドのコンセプトも『野性の思考』というのが根本にあって、都会に生きている女の人の知性だとか、野生、本能という強さをいかにジュエリーに現わしたり、そういう人が身に着けていかにその人のアイデンティティをうまく引き出せるかというのが僕のジュエリーの課題ですね。だからそういう目的をいわゆるTiffanyとか今まであったファインジュリーではない新しいモチーフ。抽象彫刻ですとか、僕が今興味あるのはチープなマテリアルと高価なマテリアル、そういう組み合わせに惹かれているんです。今までのジュエリーはダイヤモンドや輝石、レアメタルというものを組み合わせて身分の差、お金持ちと大衆との差をつけるものでした。でもそういうファインジュエリーではなくてもうちょっとアートの美意識を持ってきてそれを変換する、そういうことに興味があります。

―Balenciagaでの経験は今に繋がる影響は受けましたか

部署が違う(デザインではない)というのがありましたのでそれほどの影響は受けていないですね。でもその時上司であったアクセル・ケラー(Axel Keller)という営業部長がいるんですけど彼はずっとマルジェラにいてマルジェラをあそこまでビジネスとして成長させたのはその人だと言われている人で営業の厳しさというのはその人から学びました。ニコラ(ゲスキエールBalenciagaデザイナー)には何度か会いましたけど特にクリエイションの話をしたわけではなくて。ニコラのクリエイションは僕の中でHelmut Langの次という感じなんですね。自分の立ち位置というのは常にしっかりしとかなければいけないと思っているんです。80年代は川久保さんや耀司さんが出てきてその前はKenzoさんとかいましたけどマルジェラが出てきてその後90年代はHelmut Langがいてミニマルが行きつくところまでいってその後はニコラゲスキエールのリミックスの時代という印象なんです。本当にあの人はセンスが良くて、マテリアルの組み合わせ方とかBalenciagaのアーカイブの持ってきかたとかその辺が凄くうまいですね。

―大学に行っている最中にエスモードに通っていたとのことですが専門学校ではなく大学を選んだのはなぜですか

大学は行かないとお金が出ないということになっていたのと勉強してみたいなと思ったのもあったので。でも入ってみたら意外と時間があったのでその時間でファッションを勉強しようと思いました。

―大学に行く前からファッションをやりたい気持ちはあったんですか

ありましたね。普通に原宿少年でした。Undercover着たりNowhereに行ったり。そういう環境にいたので服が好きだったんですよね。だから大学を卒業してからエスモードに入ってと思っていたんです。

(ベルソーを選んだのは)大学4年の時に荒川眞一郎さんにお会いして当時は何度か飲みにつれて行って頂いたんですけど「フランス行くかも」という話をしていて「どこがいいですか」と聞いたら荒川さん(ベルソー出身)に「ベルソーで良いじゃん」と言われて「ベルソー行きます」という感じでベルソーに入ったんですよ。

続く

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