Interview

SHUN OKUBO 2/4

“フランスモードというのは本当にシビアな世界でその競争というのはみんな死ぬ想いで戦っているんですよね”

―ベルソーに入るまでには既に洋服をある程度作れるようになっていたんですか

そんなには作れないですね。趣味で作るくらいのことは出来ましたけどまだまだプロフェッショナルなレベルではなかったですね。

―ベルソーには何年間通ったんですか

3年間ですね。授業は2年間で終わるんですけどプライベートスクールでアパートの1フロアで行われていて生徒も少ないんです。最初は150人いるんですけど3カ月で90人くらいになって最終的には80人くらいになりました。

―それは先生たちに落とされるということですか

そうではないですね。落とされることは無いんですけどやめていくんですね。かなりスパルタ教育だったというか、課題も多く、また先生からの批評も大変厳しいことを言われたりするので、ついて行けなくなってしまうんです。メインはデザインの授業なんですけど一応縫ったりパターンの授業もあります。午前中は毎日デザインの授業で例えば月曜と木曜の午後がクチュールの縫い物の授業だったり、水曜の午後がアート史の授業だったり、木曜日がマーケティングの授業だったりしました。

―結構幅広いカリキュラムなんですね

そうですね。授業内容も凄いんですよ。靴のデザインやらされたり、アクセサリーのデザインやってこいというのもありますし。

―割と日本の学校に近い形態なのでしょうか

どうなんですかね。僕はそうは思わなかったですけど。日本の学校はもっと一つ一つの学科が厳しいですよね。パリは適当にやらせないというか縫い方が甘くてもデザインの学校なのでデザインが良かったら褒められたりするんですけど、日本の学校例えばエスモードとかってデザイン云々よりもちゃんと縫えているのかとかそういうところの方がうるさかったので全然違うなと感じました。

―フランス語は出来たんですか

全然出来なかったですね、最初の1年は。どうしようかと思ったくらいで。2年目になるとだんだんわかってきたんですけど。

―フランス語がわからなくて授業に支障はないんですか

最初の授業の時に校長のマリーが「外国人がいっぱいいるけど作品が全てを語るから心配するな」と言ってくれたのでそれを真に受けちゃったんですよね。

―パリ滞在中にコレクションを発表したり、ショーを行ったりしたことはありますか

エスモードの学生の時にクラブでショーはやったことはありますけどそれ以外はないですね。ベルソーでは卒業ショーがあると思っていたんですけどなぜか僕らの代だけ卒業ショーが無かったんです。

―パリには結局何年間いたのでしょうか

4年半くらいですね。

―パリで過ごした5年くらいはクリエイションにどのように影響していますか

(日本とは)全く環境が違いますよね、全てに置いて。モードという感覚がわかったのはパリに行ってからです。日本にいたら絶対にわかっていなかったと思うんですよね。

―モードの感覚というのはどういうことでしょうか

難しいですよね、モードって。簡単に言うと流行ってことですけどもっともっと洋服って歴史があったり、例えば階級社会のものであったり、そういう部分もわかったし、フランスに行くと身分の差が激しかったりするし、社会と人間の欲望だったりそういうものも絡んでいる。例えばアートとファッションって凄く関係があると思うんです。でも日本てそういうところ全然語られなかったりするんですよね。フランスモードというのは本当にシビアな世界でその競争というのはみんな死ぬ想いで戦っているんですよね。日本はそういうファッションの批評が無いので売り上げどうしようかという必死さはあるんですけどパリは強いクリエイションをしないと明日は無いっていうそういう社会なんですよね。ファッションショーをやった次の日はどんなに有名なデザイナーでも悪ければけちょんけちょんに言われるしそういう厳しさはやっぱりパリに行かなければわからなかったと思います。それもモードの一つだと思います。

―それは学校でもそうでしたか

学校でもそうでしたね。本当に厳しかったです。お前学校来なくていいとは言われないんですけど課題を持って行ってもぼろくそ言われるだけでそれが半年、一年続くとかそんなことはざらにあって。だからみんな勝手に辞めていってしまう。真面目にやっていれば成功する世界ではないということは本当に思いましたね。エスモードに行っていた時は真面目に縫い物が出来るのであれば就職して生きていけると思っていた。でも向こうでモードで生きていこうという人はアーティストとして生きていこうというかそれしか生きていく道が無いという感じなんですよね。だから必死さがちょっと違うんですよね。意識を追いかけることでしか生きていけない人というのがアートの世界だけじゃなくてファッションの世界にもいるんだってわかったのがパリに渡ってからですね。

―それは日本にだけいたら理解できなかったことだと思いますか

そうだったのかなと思います。日本にも勿論アーティストはいますし、いつかどこかでそういう人に会えたのかなとは思います。でもやっぱりパリは小さい街でそれがアートの中心だとかファッションの中心だからという理由からかそういう面白い人に会えたりするんですよ。学校に入って2,3カ月の時にいきなり(Hussein) Chalayanに会えたり。そういう経験が出来たり、真剣勝負を目の当たりにするとか、ショーの緊張感を目の当たりにするとかどれだけ必死でやっているかというのが本当に目の前でわかる。例えば裾をほんの数センチ短くするのにどれだけ悩むのかっていう。Rick Owensのショーを手伝ったことがあるんですけどショーの本当に5分前にRickがニットの袖を切り出すんですよ。モデルが並んでいるのに。着る瞬間ってみんなびっくりするじゃないですか。Rickがはさみ入れる瞬間はみんながシーンとなって。でもRickがこれでGoみたいなことを言ってまわりがそれで気合いが入るというかチームワークとか本気さは本当に違いましたね。そういうクリエイターに若い時に触れられたのは僕の財産だと思います。


―パリで自分が日本人ということを意識された時はありますか

僕が学校でデザインを持って行くとコンセプチュアルで日本的だと言われました。平面のパターンで作る洋服を持って行くと「日本的、Yohjiっぽい」って言われるんですよね。エスモードでは立体もやっていましたので自分ではそうは思っていなかったのですが海外の人からしたらそう見えるのかなと思いました。

―日本的というのは海外でやる上で不利な点だと思いますか

アドヴァンテージにしていかなければいけないですけどね。そこで終わっちゃ駄目ですよね。

―逆に日本人の良さで目立つ部分はありましたか

真面目でしたよね。日本人でモードを知らないという部分が逆に良かったのかなと思います。客観的に見れて。多分パリっ子でファッションを見たら「モードって何だろう」って前にモードの空気を吸っているからあまり疑問がわかなかったんではないんですかね。日本人として異邦人として行ったから凄くファッションシーンが客観的に、冷静に見れた。凄い熱狂の中に生れたらそこに取り込まれてましたけどもっと冷めた目線でその人達を見れたのかなって思います。建築にも興味あるし、パリで現代音楽も習ったんですけどそういうのにも興味があったんです。ファッションの街に行ったんですけどファッションだけに行かないでもうちょっと広い視野で見れたのでよかったですね。

―周りの人達から受ける影響はありましたか

クラスメイトで一人面白い子がいたんですけどその人とは良く話をしましたね。でも影響を受けたのは学生さんというより校長のマリー、あとは現代音楽家のドゥニ(Denis Dufour)とHaider, Balenciagaのアクセル(Axel)の4人ですね。

―僕も海外の学校に行っていたんですが校長と話す機会って一度も無かったんですよね。なぜ校長に影響を受けたんですか

元々彼女もデザイナーだったんですけど僕が生まれて初めて会った芸術家肌の人だったからですかね。むちゃくちゃなことを言うんですけどでもデッサン凄くうまくてセンスも良い。モードのお化けみたいな人でしたね。

―校長先生が自ら教壇にたっているということですか

そうですね。色の合わせ方とかデッサンの仕方とか、ファッションに関する色々なことを教えてくれました。

―ファッションとは何かを教えてくれた人ですか

そうですね。モードって何かというのは語らなかったですけど身を持って態度などで示してくれましたね。とても影響力のある人でした。

―パリにいる人達、来た人達はみんなモードを理解しているのでしょうか

そんなことはないですね。でも何かしら感じていると思います。僕達はものを作って還元するじゃないですか。でも影響を受けて何か作っている、物に還元出来ている人というのは少ないかもしれないですね。僕は幸い出来ていると思うんですけど。

続く

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