Interview

ANREALAGEの”LOW”と”A NEW HOPE”を業界関係者はどう捉えたか vol.2

「A NEW HOPE」と「LOW」を掲げたANREALAGEのコレクションに関しての業界関係者からの意見、第2回目はスタイリストの山口壮大氏、ジュエリーデザイナーの大久保氏、writtenafterwardsの山縣氏に寄稿していただいた。(こちらからは文字数や何を書くかなどの制限は一切設けていない)

→ANREALAGEの”LOW”と”A NEW HOPE”を業界関係者はどう捉えたか
→ANREALAGE 2011-12 A/W Collection

————————————————————————————————————————————

beauty:beastが、97年にデジタル迷彩で。
UNDERCOVERが、2005年にアーツ&クラフトで。
keisuke kandaが、2008年にアナログコンピューターで。

既に見覚えのある手法を用いた、
あたらしくないコレクションでした。

低解像度ならではの、せっかくの遠近感を利用した見せ方は演出不足。
あとで画像で見た方が、個人的には面白く感じました。
8ビットの電子音と組み合わされたピアノの生演奏は、
本来の即興の面白みも、予定調和の印象にかき消され、
加茂克也による(アイ・ウェアはともかく)
ヘアー&メイクにはコンセプトも美意識も、感じる事が出来ませんでした。

その一方で被服としてのデザインは、

以前から見られたウェルダー加工は、
今回のコレクションではとても強い親和性を感じ、
プリントのモザイクはともかく、
パッチワークやヒールでの落とし込みは面白かったと思います。

レディスはエイジレスにはほど遠く、着こなすにも難しそうですが、
メンズのパターンは袖丈、身幅、着丈のバランスが相変わらず素晴らしく、着る相手にとって、とても優しい(易しい)作りだと好感が持てました。(シンプルな白シャツとストレッチデニムは秀逸)

時代と、ANREALAGEが掲げるターゲット、コレクションのテーマを見事にリンクさせた、ストリートで生きる服だと感じました。

「あたらしいなんてふるいんだよ」
あるデザイナーは言いました。

見せかけの新しさを目指すより、
単純に「今」着たい服が見たいのは、消費者としての僕の意見。

そして森永さんに言ってもらいたい。

「それでも新しさを目指します」って。

山口 壮大 / ファッションディレクター/stylist

————————————————————————————————————————————

今回のANREALAGEのショウのあった夜に、一度その感想をブログに書いているので、まずはそちらを読んで頂けるとありがたい(http://changefashion.net/blog/shunokubo/2011/04/17134233.html)。ショウから1ヶ月以上経った今それを読み返してみても、自分の中でその感想は変わっていない。

今回のショウは賛否両論、というか、現時点で振り返ってみると、結果的にその期待の大きさからか厳しい意見が多く見られたように思う。
ブログにも書いたようにその低解像度で描かれたテキスタイルを使用した服のシルエット(かたち)が単調だったこと、また指摘が多かったのは過去の東コレブランドにも既に今回のグラフィックに似たデジタル迷彩柄が存在しているということ、そしてショウのフィナーレで登場した着ぐるみのような造形物の無意味さ、このあたりが低い評価の理由であろう。
評価出来る点としてはカッティングの技術や縫製などテクニカルな部分に関してであったと思う。
つまり、ショウのコンセプトである「LOW」とサブテーマである「かたち」そして実際のショウの内容があまりにも単純すぎたのだ。
「かたち」という概念を物質化・可視化するために「LOW」(低解像度化)という手法が使われた。「For most of us, design is invisible. Until it fails. (ほとんどの人にとって、デザインとは目に見えないものである。 それが崩壊するまでは。)」、
これはブルース・マウの著書『MASSIVE CHANGE』からの引用であるが、ANREALAGEは衣服というデザインを低解像度化(崩壊させる)することによって、それを可視化させた。そのようなデザイナーの意図を考えたとき、今回のショウは「かたち」を礼賛するための作業として十分な強度があったのかどうか甚だ疑問である。なぜなら、もっと他の方法もあっただろうし(例えば服の構造を破壊し、再構成するという行為は、既に現代ではもう珍しくない手法である)、だとすると「LOW」というやり方を採用する意味も薄らいでくる。

とはいえ、今回使われた8ビットの音楽にしても、デジタル柄にしても、それが既出のものだったとしても、今日のように初音ミクがCDのセールスランキングや人気カラオケ曲のランキングの上位に入り、探査機の”はやぶさ”が擬人化され愛されている時代、そのような社会的なトレンドを取り出してみせたこと、そしてそれらを楽観的に、ポジティブに肯定してみせたこと、その態度表明は称賛に値するのではないか。
また、これもブログで書いたが、”分かりやすすぎるもの”を作ると違うものにいってしまう、というのは創作においては本当によくある。深読み過ぎると言われるかもしれないが、今回のような分かりやすい表現方法によって、機械に対する愛情であったり、機械に魂は宿るのか、脳科学における心脳問題..etc など様々なことが浮かび上がってくる。それを考えると、既出の表現方法だったとしても、今この時代のトレンドを抽出することによって、今回のショウは意味のあるプレゼンテーションだったのではないだろうか。
全体的なショウの評価は低いものだったとしても、少なくとも、社会に対してのこのようなポジティブなデザイナーの態度表明は評価すべきだと思う。

大久保 俊 / SHUN OKUBO

————————————————————————————————————————————

アンリアル•エージ

デザインの時間軸(歴史)を失った日本のファッションの表層

 デザインには歴史があります。壮大な過去があり、多くのデザイナーの功績と現象があり成り立っているのが現在であって未来へと続きます。

 デザイン的観点でいえば、アンリアレージは、夢を見た90年代を情熱的に表現し続けるデザイナーだと思います。その情熱のまま00年代すっ飛ばし、10年代となっても、それをひたすら職人的に情熱を忘れぬまま作り続けているデザイナー、言い換えれば90年代デザイン職人。

 これが僕のいつもショーを見終わって思う正直な感想です。そしてその後のメディアの反応にいつも戸惑ってしまいます。その戸惑いの最も大きな原因は世界のデザインの文脈とのギャップです。僕は正直アンリアレージの批評を読んで納得した事がほとんどありません。それと同時に日本はファッションは世界のデザインの文脈から遠くはなれてしまったという虚しさを感じてしまいます。

 なぜ僕がこのように思うのか、Anrealageをひもとく上で、90年代から現代までのモード史におけるデザインの流れと、日本のファッションの流れを踏まえた上で、2軸でお話しできればと思います。
 一つが、90年代に体験したアンリアルなモードへのあこがれと、もう一つが、リアルに体験したストリートファッションへのあこがれ、そしてロストジェネレーション世代のロストイントランスレーションです。

世界のファッションデザイン史と日本人デザイナー

 世界のファッションデザイン史と日本のファッションは元々ズレがあり、日本のファッションが世界史へと登場したのが、プレタ創成期のイブサンローラン、ソニアリキエルらとともにパリで活躍したKENZOであり、それから80、90年代に御三家のギャルソン、イッセイ、ヨウジらによって世界へとプレゼンされ、確固たる地位となり、受け入れられる。Kenzoは「east meets west」、isseyは「a piece of clothes」80sのギャルソン、yohjiは「broken and black」。

 80sまでは西欧を中心とする世界的なモードの世界、モードの殿堂パリが西欧のメインカルチャーがあり(80sを象徴するメインカルチャーの新鋭としてテューレーミュグレー、モンタナなどがいた)、サブカルチャーとしてのズレを起爆剤として必要としておりそのデザイナーとして、アジアで最も経済発展を遂げたfar east 日本生まれ、日本育ちのデザイナーがその役割を担う。それは西洋の価値観だけではない、多面的なパリのグローバルアイデンティティの象徴が必要とされた。80年代バブルの女性の社会進出、キャリアウーマン。竹の子とビビアンをインスピレーション源として、パリへと挑んだギャルソンヨージらによって、女性の体は謎に包まれる。特に女性アイコンとなるフェミニスト、川久保玲氏そのものが、未知なるインタレクチュアルブラックホール。
そしてサブカル、破壊主義者、魔女であるはずの彼女がいつしかモードの中心、いつしかモードの母像へ変化してくるのが90s。象徴的事例として95年、川久保玲氏がFace magazineによる世界で最も影響力のあるデザイナーに選ばれる。
その後多くの川久保チルドレンが生まれる。

マルタンマルジェラとコムデギャルソン。

 90年代となって、コムデギャルソンが向かったパッションは、服そのものの概念を問うものだった。それは多いにマルタンマルジェラの影響を受けると同時に、時代の空気をうまく読み取った。テーラードジャケットウェディングドレス、こぶドレス、解体と再構築、交換と再定義。その手法を持ってコムデギャルソンはファッションの世界を越え、クリエーティブな世界の中心となった。世界のだれもが川久保玲氏を尊敬している。これは奇跡の偉業。

 ではその川久保玲に影響を与えたマルタンとは?
 88年にグランジファッションという代名詞でズリーベットとほぼ同時期にデビューを果たし、グランジムーブメントはあとに続くジェフリーBスモール、マークルビアン、ジュンヤワタナベ、マークジェーコブスの初期作品等へとひろがりを見せた。しかしマルタンは、グランジファッションではくくれない概念を持っておりそれがマルタン流、衣服の概念の再定義。ファッション史にようやく、この手のコンセプチュアルデザインがメインカルチャーへと躍り出る。 
ファッションが、人間とりわけ体との関係性と、社会的制約や社会常識や商業的価値観の上で成り立っているが故に、デザイン史にこのような概念デザインの登場が遅くなってしまう。本質的な概念を模索するデザインプロセス、コンセプチュアルデザインのほか、アントワープ出身であるマグリット、シュールレアリズムの価値観をルーツに持つ。グランジルックという当時の現代的ニュアンスを持ちながら、時に皮肉っぽく、クールでインテリジェンスなクリエーションを披露していくマルジェラは、知性を象徴するメゾンとなり、エルメスのデザイナー抜擢で確固たる地位を築き、一躍90年代を牽引する代表的なデザイナーへとなっていく。その当時、マルジェラのシンボル、背中の4本糸が、モードの知性の刻印のように見えた。

 マルジェラのクリエーションの基本軸は、西欧の最もベーシックな衣服形態、ファッションシステムの再定義。靴下がセーターとなり、買い物袋が服となり、ぺったんこなテーラードジャケット、まんまるな服、大きすぎる服。人形の衣装の拡大、トルソーが服となり、カビが柄になる。とりわけ93年に行なわれたプレゼンテーションでは新しいデザインがいっさい出てこないというモードの抱える暗黙のジレンマを見事に、華麗に打ち破る。彼のストイックなクリエーションによる、ブランド構築はファッションのみならず多方面へと影響を与え、アーティスティックな写真家を起用し、積極的にコラボレート、パープルマガジンとの連携がメディアとして大きなビジュアルインパクトを持った。
それらの単純明快且つ、ストイックな活動姿勢がその後のファッションデザインの教科書的な位置づけになったのは言うまでもない。間違いなく100年後も語り継がれるであろうファッションデザイナーバイブル。

 マルジェラに代表される90年代のファッションデザインの大きな特徴の一つが、“服が〜になる”もしくは“〜が服になるという思考選考型のコンセプチュアルデザイン。もちろんそれ以前にはなかったわけではなく、古くはスキャパレリから始まるが、90年代が服そのものを記号化して様々なデザインが提案され、そのデザインを理解し纏うことが“知性”の証であり、20世紀ファッションデザイン史における最後のファッションステートメントとしての機能を持ち得た時代。

 ここでもう一度解りやすく、90年代によく見られたデザインの例をいくつかあげてみよう。

服が動く。フセインチャラヤン等
服が家具になる フセインチャラヤン等 
服が絵になる クリストファーネメス等
服が体となる。コムデギャルソン等
男性服が女性服に コムデギャルソン等
裸に見える服 ウォルター等
ホームレスがラグジュアリーへ ジョンガリアーノ
歴史衣装、民族衣装が西欧服へ ジョンガリアーノ
東洋服が西洋服へ。ケンゾー、イッセイ等
西洋服(3D)が東洋服(2D)へ。マルタンマルジェラ等
服が大きい。マルタンマルジェラ等
人形服の拡大。マルタンマルジェラ等
服が丸い。 マルタンマルジェラ等
トルソーが服となる マルタンマルジェラ等

 元あるイメージを他のイメージへと転換する作業がデザインの最初のプロセスとして存在する。もちろんファッションデザインとはこれだけではない。コンセプトを入り口として、ディティール、素材、フォルム、カット、カラーリング、スタイリングなど様々な要素が入ってくる。90年代にクール且つ批評家の批評の対象の多くがコンセプトであり、そこの部分が評価基準の重要なポイントとなった。

 様々なデザイナーのクリエーションの饗宴によって、衣服における言語化しうるコンセプチュアルデザインの多くはやり尽くされる。また90年代以降のファッションデザインは服そのもののデザインとステートメントが結びつきにくくなっていきファッションデザインにおける社会性と精神性が欠落していく。

 00年代以降のファッションデザインは、先進国と言われる民主化された環境において、ファッションにおけるタブーとステートメントを失い、90sの反動とでもいうのか、思考するデザインではなく、単純に女性をエレガントに、きれいに、かわいく、かっこよく見せることのできる、直感的、衝動的、感覚的なものが求めらる。また環境問題からECO指向、ヘルスケア、ボディケアへと意識が写り、体への意識がネオボディコンチャス、リアリティー指向、クラシック指向、ナチュラル指向を生み出し、衣服上のデザインにおける実験精神は薄れていく。衣服のデザインがいわゆるトレンドデザインでしか機能しなくなり、さらにファストファッションがプレタを飲み込む。90年代に大きな影響力を持っていたデザイナーは力を失っていき、システムに利口に乗ることが出来る器用なデザイナーが台頭してくる。パリではマーク、カール、フィービー、ステラ、ドリス、ハイダー、エルバス、ニコラ・ゲスキエール、ミラノではプラダ、ドルガバ、グッチ、マルニ等の大御所から、マリオス以降のロンドンボディコン勢、アジアン2世アメリカンデザイナーのリアルクローズまで。
 日本では、モードとは別の独自の文脈としてストリート全盛の成熟期を迎える。APE、美容師、スタイリスト、Tune、fruits、などのストリートスナップ。カタログ通販雑誌にギャル、TGCとユニクロ。その頃いわゆるモードと言われるトウコレは、あまりにも輝かしい90sの呪縛、CDGコンプレックスから逃れられないでいた。

※90年代は、ミニマムファッション、ラグジュアリーファッションデザイン等の他の文脈もあるのですが、ここでは割愛させてもらい、よりアンリアレージと関係性の強いものを取り上げました。

90s日本ストリートファッション

 ここからもう一つの軸、90年代以降の日本のストリートファッションをお話しします。

 階級もなく、宗教もなく、歴史も短く、性差も薄い元々社会主義的な性格を持つ日本において、大衆的なファッションが大量に消費される。その末端としてのストリートファッション文化が花開く。

 米国発のhip-hopカルチャーとスチューシー、西欧のパンクとアニエスなどのフレンチカジュアルとラグジュアリー、グランジをファッションDJとしてエディット、ミックスしたのがストリートのカリスマと呼ばれた藤原ヒロシ氏。ファッションに限らず、音楽、インテリア、思想、スポーツ、食べ物、後輩の高橋盾氏のUnder coverと長尾智明氏のApe等何でもかんでも編集してしまう才能。彼を中心とする90年代ウラハラカルチャーはファッション界を軽々と超え、世界へとプレゼンできるレベルにまで押上げ、日本独自の若いジェネレーションの新しい価値観を生む。藤原ヒロシ氏をアイコンとする日本のストリートカルチャーの中心地、ウラハラの価値観とは、オリジナルかどうかではなく、基本エディットとリミックス。数年前の藤原氏へのセルフサービス誌でのインタビューでファッションデザインにおいてあなたがした事は?という質問があり、タグを袖につけた事を上げていたが、インタビュアーにセディショナリーズからですよねとあっさりいわれていたのが印象的であり、その事例が象徴的でもある彼らのマインド。なにげにクリエーションに対する情熱や敬意、フィロソフィーはあまり感じられず、現代のライフスタイルの中で、機能的でイケてるかどうかに重きを置く姿勢。その自然体のノリが徐々に東京オリジナルへと形づけられていく。

 90年代初期、若者から最も支持をうけた部分として、アサヤンの連載ページlast orgyやメンノンのアリトルノーレッジなどで行なわれた渡来品や新しいものの紹介。ストリートにおいて日本に外国の多くのカルチャーをほぼ時差なく紹介していったところが大きいだろう。いわば日本のストリートはまだ外国からのものを紹介されただけで、熱狂してしまう海外コンプレックス丸出しの時代。Undercoverのデザイナー高橋盾氏が学生時代活動していたコピーバンド「東京セックスピストルズ」をみればその当時の価値観を客観的に感じることが出来る。

 そのような時代を経て、海外依存ではなく、自分たちで作って、仲間内で着る自給自足コミュニティ、東京発のストリートブランドが誕生した。
まずニゴーとジョニオの共同で立ち上げたお店、nowwhereを中心に、ブランドはgood enough、ape, neighborhoodなど。

 その中でも、森永くんが大きく影響を受けたであろうアンダーカバーはドメスティックモードの流れを組むポジションとして活動しカルト的人気を得る。シルクスクリーン刷りのt—シャツ作りからスタート。藤原氏の元で超越した時代を読み取る力を学び、時代を読み取る空気に抜群にたけていた。その当時のトウコレの他のブランドと比べればそれは一目飄然だ。
しかしデザインに対して深く思考していなかったのか、文化時代に学ばなかったのだろう、毎回どこかのデザイナーの陰(特にマルジェラ)がちらついた。時代観とバランス力は並外れた才能があるが、最先端のちょっと後、アレンジだった。そこにストリートのフレーバーを混ぜるのがアンダーカバー流。ストリートで大成功をおさめた後パリへ。A-マガジンを出版するなど世界的に認知される。

 00年代、90年代の流れである日本ではラグジュアリーの対極とされるストリートファッションが独自の文脈を作りながら、大きな影響力を持った。過剰な海外コンプレックスも徐々小さくなり、日本人である事に自信持つ事や肯定が出来る世代や価値観が徐々に生まれパリコレに傾倒する人種も減っていった。一方でトウコレなどのモードの文脈ではギャルソン、ヨウジが未だに世界的成功例として語られ、CDGコンプレックスをひきづっていた。
 ロストジェネレーションと言われる世代以降、等身大の自分を肯定する事で、現実を生きる、時にバーチャル世界へと逃避できるコミュニティーを構築、内向的自己肯定の価値観が生まれ、ガラパゴス化という言葉が日本を象徴するフレーズとなり、結果、世界基準と大きくかけ離れた独自の道を歩み始める事となる。 
 また古くは花嫁修業学校、洋裁学校の歴史を持つ文化を中心とした基本的に専門、就職学校である教育システムの中で、デザイナーを育てる環境、ファッションデザイン教育があまり発達しなかったのだが、就職率を第一優先としている専門学校の就職希望、御三家内定を模範解答としての教育基盤がデザイン教育のさらに世界との距離を作ってしまう。
 90年代に活躍したトウコレ勢、ビューティビースト、20471120,シンイチロウ アラカワ等は、トウコレ内で日本独自のモードの価値観作るべくジャパニーズポップデザインに兆戦するが00年代なるくらいには失速、それを横目にアンダーカバー、ナンバーナイン等のパリ進出が、日本のメディア、ジャーナリストに更なるコピーへの許容感を生み、カタログ雑誌の氾濫によってデザインに対する批評性を失った。唯一APEの世界へのプレゼンテーションは、日本ストリートとしてラグジュアリーとコラボするなどのアクロバットな動きを見せるが、ストリートカルチャーの要素を吸収したユニクロの躍進とITの買収によってそれも幻想となってしまう。
 そのような流れがデザイン史におけるロストジェネレーション世代を生むことになる。特にモードにおける日本のデザインは世界へと大きく逆行し、世界的影響力を失っていく。というより、元に戻ったのかもしれない。いやもしくは90年代が特別過ぎたのかもしれない。異端であるはずのギャルソン、ヨウジなどが世界の真ん中に位置し、日本では間違いなくファッションがカルチャーの中心だった。がゆえに森永君や僕を含む90年代コンプレックス世代が30代デザイナーに多いのだろう。

そしてアンリアレージ

 90年代からのデザイン史と日本のファッションの流れを組みとれば、森永君のクリエーションに対する価値観とバックボーンがおのずと見えて来る。

 アンリアレージの初期の作品は、アンダーカバーのパリデビュー時(かさぶた、グルグル、but beautiful)を想起させられる。2006aw A-Zのシャツ(T-シャツだけではなく)しかし同じアイディアをO-yaさんが既にコレクションの数年以上前にやっていた。
 2009ssからの流れ 丸、三角、四角の服、でこぼこ服、シルウェット服、変形縦、横に伸びる 服が巨大化、空気の服。これらのデザインは90sのコンセプチュアルデザインスタンダードであり、デザインの教科書でもあるマルジェラの十八番。前回の空気の服でもあり僕の記憶だけでもイッセイ、ウォルターが10年以上前にやっていた。そして数年前にもアントワープ時代の瀬尾秀樹氏が3年時に作ったダッコちゃん人形、そして4年時のスイミングインザガーメントへと発展するのだが、瀬尾さんの場合、90sスタンダードを踏まえた上での、00sパーソナルデザイン。ウォルターの影響は絶大だが、空気の服というデザインコンセプトから、日本的な要素としてのダッコちゃん、4年時であればアラスカ旅行での経験や日本のヒーローもの特撮アニメなどの怪獣がフォルムに生かされ、日本時代に培ったグラフィック的手法と相まってのオリジナリティ。2004年にアントワープにて発表されたその作品は、しっかりと世界の時間軸の上で成り立っている。簡単に言えば、誰もが出来る発想としての“服を〜に変形する”という最もベーシックないわゆる90s的なコンセプチュアルデザインでおわったものではなく、デザインが個人に属したものだからだ。空気の服はただの空気の服ではなくなり、瀬尾秀樹氏の人生ありきで生まれた“特殊な造形の空気の服”となる。

 アンリアレージの場合、ベーシックとなった古着ストリートスタイルを膨らませるというベーシックなアイディアであり、袖が膨らむことによって、中世ヨーロッパファッションを想起させるがそれも日本人の手で行なわれる事に歴史をなぞっただけの薄さを感じ、アイデンティティを感じられず違和感を覚え、最後のピースはただジャケットが空気の服となったフォルムの提案もストーリーもない。ただあったのは、花とパッチワークと何か驚かせようと思う強い意志。

 そして今回のドットコレクション。服作りとしての完成度は間違いなく着実にあがっている事はすばらしいと思う。しかし、アイディアとしてのドットを美的感覚としてデザイン界に登場してから既に何年経ったのだろうか?インベーダーゲームが70年代後半、マリオが80年中期それを見た若者が大きくなり、新しいメモラブルなビジュアルスタンダードとして、ドットがグラフィックとして表現され始めたのが90年代中期あたりから。

 服の新しい裁断方法を用いたパッチワーク等の技術を使った点が新しいという見方もあるかもしれないが、僕的にはこれはデザインをやる上では常識的に押さえておいたという部分、チョイスでしかなく、デザイナーの内側からでてきたクリエーション、デザインという部分はやはり弱い。そしてメーク、アクセサリー、演出すべてひねりのないドット、ファミコン世代の音楽。回り回ってあえてやるのが、デザイナーの仕事でもあり、提案にもなるのだが、あえて感も感じれない。入り口の表現方法としてはKeisuke Kandaのマリオやドラクエをキルティングによってそのまま服に落とし込んだ表現のほうが、パーソナルな表現であり、ひねりが利いている。

 そして特にアンダーカバーの類似点を数多く感じてしまう。

・モードとストリートとの距離感
・メンズからの支持。
・古着、ストリートファッションをベースとしたコレクション展開。
・ 川久保を尊敬し、マルジェラから影響によるコンセプトデザイン。

 それらを軸として主に90sのアンダーカバーが行なった、ドレープ、エクスチェンジ、トロンプツイユ、双子コレクション(00s)、かさぶた、ぐるぐる、but beautiful のコンセプチュアル東京ポップデザインとアンリアレージ流コンセプトデザイン。アンダーカバーのパリ初期からBut beautifulまでのやり過ぎ感とパッチワークに代表されるやり過ぎ感等。

 結局のところ、アンリアレージが挑戦しようとしている服の概念は既に歴史上に多く存在し、ただ90sにマルタンなどが作った教科書をなぞっている、もしくはアレンジ(アンダーカバー)のアレンジを加えるのみにとどまってしまっている、はやり90年代デザイン職人であり、デザインとしての現代性と革新性は残念ながら薄い。

アンリアレージの魅力とは?

 アンリアレージの魅力とは、90年代のファッションデザイン、ファッションデザインの歴史を知らない世代にとっては、解りやすいコンセプチュアルデザインは、サプライズであり新たな自由を得た高揚感が味わえるだろう。それはビビアンウエストウッドのパンクが伝説化して、何十年も若者のあこがれのブランドとなり続けているような感覚であり、それを衣服で表現している。若者が現実とぶつかった時や常識が堅苦しくなった時、普通じゃない変わった表情の服を発見して着たときの感触。若者にとってパンクは常に新しく新鮮だが、歴史上何十年も前から存在しているものだ。パンクの焼き回しは、既にパンクではなく、一つの様式美でしかなく、アンリアレージのコンセプチュアルデザインも新しいものではなく、ひとつの様式なのだが、表面的に感じ取れる態度が共感を呼んでいるんだろう。また、ビジネス面を含む常識的な行動と見解と一見反抗している態度(ズレ?)のバランスも魅力的だ。とりわけ反抗期の若者からの支持は高い。ミニ四駆やプラモデル製作に熱中して、改良して楽しむような服作り。そこまでやるかのバカっぽい?微笑ましくなる気迫、意気込みと常識的行動。
 また10年代となり、デザイン史がネオコンセプチュアルデザインへと新たな方向性に舵を取るだろうと思われる時、コンセプチュアルデザインではあるためにそれと混合されて語られる事もあるだろう。
 デザイン以外の魅力も忘れてはならない。Keisuke Kandaの神田さんとの東京タワーでのゲリラ合同ショー、いわゆるトウコレには参加しない姿勢、古着、アンダーカバー以降のストリートを軸とするカジュアルモード。
 そして個人的に森永君に感じている、そして90年代に感じ得なかった現代性とオリジナリティーは、日本的表現の自然な現れであり、例えば2008awのような日本の文化的背景から来る詩的なアプローチ。あのひな祭りをテーマにしたプレゼンテーションや(日本のバラエティー番組も彷彿とさせる)、日本人形、や12一重からインスパイアされたルックは日本人でしか作り得ないだろう。(対外的評価は低そうだが、、w)たまにかいま見られる近代日本文学的アプローチなどは多いに可能性があるのではと思う。
 また重要な観点として、ビジネスとして決してファンやお店を裏切らないベーシック定番アイテム。そして価格帯のバランス。デザイナーが必要とする計画性と重要なバランス感覚を持っている。うまくいけば数年後から10年後くらいには準備が整い、アンダーカバーのようにパリコレデビューへと躍進していくブランドとなるだろうと思う。
 
 しかしひとつ気になることがある。それはアンダーカバーとアンリアレージの違い。アンダーカバーは時代と寄り添ってきた。言い換えれば先端から数年ほど遅いところで。アンリアレージはそれが15年以上も遅いものだ。マークジェーコブスが2年ほど前90年代CDGリミックスを堂々とやってみせたが,アンリアレージは一週遅れ、もしくはそれ以上遅れている。今後もしそのデザイン手法の時代観のなさが改善されなかったとしたら、それをパリへとたどりついた時、世界がどう受け入れるのか。現状のままいけば正直かなり厳しいだろうと思う。しっかり世界のデザイン史を汲み取る必要性があるだろう。
 または、外れるならとことんアンリアルに大胆にはずれてもいいと思う。バランスだけのうまいデザイナーにはなってほしくないと個人的には思う。外れすぎたところがピュアで面白い反応を呼ぶ可能性もあるだろうし、逆に時代がファストにぐるぐる何十週も回ったとき、逆に世界が目が回ってパニックになって何周目解んなくなって、ドーピングで退場者が出て時代にマイペースなアンリアルエージな森永君が一等賞でゴールする可能性もある!かもしれない。

 今回大げさなまでに90年代からのファッションの出来事をひもといてみました。歴史とファッションは切り離せません。批評にはデザインのバックボーンを把握する事が大切です。僕は決してアンリエレージを否定したいのではないですし批評家でもありませんが、納得できる批評がない事に憤りを感じているのです。僕が書く決心をしたのもその理由からです。アンリアレージの正当な批評がない事が、日本の表層的なファッションを象徴しているのは否めません。様々な角度からのアテンションがあり、アテンションを持ったブランドだからこそ、言及しなければならないのではと思うのです。このままアンリアレージがパリに行ったとしても、現状20世紀型の遅れた時間軸を失ったファッションブランド、”アンリアルエージ“として、評価されてしまうのではと思います。期待があればあるほど、21世紀に生きるデザイナーとして、世界史との正当な批評が必要ですし、日本の文脈で語るのであれば、まずは日本の歴史、価値観、美意識とは何なのかを分析、解読しつつ、22世紀をも見越した日本独自の文脈作りをデザイナーと批評家が共に、ある種共犯となって作り上げていかなければならないのではないかと思うのです。

 なにはともあれ、ファッションを通して何かをやってやろうという強い意志がある限り、僕は森永君を応援します。

山縣良和

One Response to “ANREALAGEの”LOW”と”A NEW HOPE”を業界関係者はどう捉えたか vol.2”

  1. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    皆様のANREALAGE評大変興味深く拝読し、とりわけ山縣さんのご意見は僕が普段考えていることと重なるところも多く、大変刺激になりました。

    ただ、ひとつだけ。
    「アンリアレージの正当な批評がない事が、日本の表層的なファッションを象徴しているのは否めません」とのことですが、山縣さんとしてはANREALAGE以外のデザイナーに対しての正当な批評はあるとお考えでしょうか。

    といいますのも、(少なくとも)日本ではファッションの批評なんてものはまだまだ無きに等しいと僕は思っています。
    もしかしたら、平川さんがいるじゃないかと仰るかもしれませんが、批評はひとつのシステムですし、批評家が一人いればよいというわけでもありません。

    たとえば、1950年代や60年代に「日本にはまともなファッションデザイナーがいない!」と憤っても仕方ありませんよね?
    ファッションのビジネスのあり方も整備されていないし、プレイヤーもまだまだ少なかったのですから。

    現在のファッション批評も同じような状況だと思うのです。
    プレイヤー=批評家もほとんどいなければ批評を受容する土壌もない(つまりシステムとして成立していない)。

    今回コメントを書いているのは、山縣さんのご意見にけちをつけるとかそういうつもりではなく、憤らずにもう少し様子を見てはもらえませんか、というお願いです。

    changefashionでこのようなコレクション評が継続して掲載されているのも第一歩ですし、僕も友人と批評誌の類を作ろうとしています。

    そこでの目的は
    議論の場を作ること。
    批評の基礎となる歴史や理論を整備・構築すること。
    プレイヤーを増やすこと。

    10年後か20年後かはわかりませんが、今よりは状況が改善されるように微力ながら努力していくつもりです。

    今僕が申し上げたことなど山縣さんは全てご承知のことだと思いますが、このページの読者の方々への補足めいたコメントとして勝手ながら書かせていただきました。