Interview

ハトラ 1/3

ハトラはデザイナーの長見圭祐氏を中心に2010年より、「部屋」を主題に居心地のよい服を提案しているユニセックスウェアレーベル。フードウェアを中心に、服と体の間にある個人的なスペースをデザインし、部屋のここちよさと安心感をそのままストリートに持ち込んでもらえるようなブランドを指向している。

→ハトラ 2011-2012 A/W Colelction

―ファッションデザインはどこで学ばれていたんですか

エスモード東京の留学コースに1年間通いエスモードのパリ校に留学しました。パリでは当初2年間の予定が2年目を修了した後に学校から「マスターコースに行ってみないか」と言ってもらえたのでマスターまでやったので結果的にパリでは3年間学校で学びました。

―日本と比べてどう感じましたか

服作りについて、レベルは低かったと思います。エスモードは日本校の方が全然完成度は高い、パリ校にいるってだけで日本にいる人に比べてどんどん遅れが出る、コンプレックスの固まりでしたよ。(留学したことは)後悔はしてないですけど絶対に日本にいる人たちには負けたくないと思っていました。逆に他国の学校の動向やコンペの情報は入って来やすかったので、やる気を維持するにはそれで充分でした。

―パリにいることで吸収出来るものもたくさんあると思いますしね

実際そこでの経験値が一番重要ですからね。勿論何も学べなかった訳ではないですけど。3、4年生の時に日本人の先生に教えてもらったんですけどその先生はフランク•ソルビエの立ち上げからモデリストとして携わっていた人でその先生からは授業の内外で本当に色々なことを教わりました。

―なぜデザイナーを目指したのでしょうか

服は好きでしたけど当時はデザイナーになるであろう片鱗なども感じられないだろうし、何を持ってやりたいと思ったのか、やれると思ったのか、どこに自信があったのかもわかりません。結果として自分はデザイナーに結構むいていたとは思うんですけど。

―ハトラは他のデザイナーさん達に比べてツイッターでファッション以外の情報、私生活やくだらないことをつぶやく機会が多いと思うのですがツイッターは意識してやられているのでしょうか

自然であることを意識しているといったら変ですが、そう心掛けています。

―ハトラをはじめブランドを知ってもらうツールとしてツイッターをメインに使っているデザイナーも最近は凄く増えてきている気がします。

最近ひとの自意識が目につくようになってしまって、自分の変化なのかもしれませんが、折角フラットな良い場所なのに、残念におもうことがあります。

―長見さんがパリで働いていたのはMartine Sitbon, Anne Valerie Hashといういわゆるコレクションブランドですよね。そこでの経験でそういうことを思ったのでしょうか

その2つのブランドは特別に好きなブランドだったというわけではなく学校の紹介や知人の縁があって研修させてもらいました。他にも在学中に、数ブランドで研修しましたけど。確かにそこにいたからこそ得られた視点というのはあるはずです。まがりなりにもファッションの内側にいた経験が自信というか、外に向けて話が出来る理由にはなっています。向こうに留学しただけでメゾンも外枠しか見ていない、ショーに見に行ったことがあるというだけではこうゆうふうに考えなかったかもしれません。

―両ブランドではどんなことをやっていたんですか

縫製とパターンがほとんどですがデザインもやらせてもらったりしていました。

―パリにいた期間はコレクションは見に行かれてたんですか

かなり見ていましたね。本当はいけないんですけどプレス用のシャトルバスに乗って会場を回ってということを4年パリにいたうちのメンズを合わせると10シーズンくらい(2年半)は続けていました。結果6割くらいは入ることが出来た気がします。回ることによって入る為のテクニックなんかも育まれていきました。

―ショーは好きで見ていたんですか

その頃は大好きでしたね。時代が街ごと動いているというのが生で感じられました。ショーは学校を休んで行っていました。

―実際にみたショーの中で印象に残っているショーはありますか

ジョン•ガリアーノの娼婦をテーマ?にしたショーを見ることが出来たのですが場の雰囲気に感動しました。ガリアーノのショーはやっぱりどこのショーよりも見に来ている人の熱量が全然違う。
それにマルタン•マルジェラの20周年記念のショーも凄く印象に残っています。

―東京に戻ってからもファッションショーは見られているんですか

戻ってからは見てないですね。4年のうちの2年半くらいといいましたけど日本に帰る頃にはその熱が冷めていてキャットウォーク自体興味が無くなってしまったんです。それは真面目な顔してモデルが歩いているのが滑稽に見えてしまうタイミングがあって、そう感じたのはいきなりではなくずっとショーを見続けていたからだと思うんですけど。

―そう感じたのは時代性の問題もあるんでしょうか

それもあるかもしれないですね。ほんとなんとなくなんですけど。
真面目なモデルと、時代が見出すべき女性像とのギャップが目につくようになったんだと思います。ジョン•ガリアーノほどのエンターテインメントを創る人や僕はBurberry Prosumがずっと好きなんですけどそのくらいの強度や規模感があると話は違う。研修先ではそういった強度のようなものは感じられなかったけど、あれだけコンスタントにデザインを出し続ける力があった、そういうのは凄く勉強になったというか、こうやってファッションって回っているんだって。

―ただ自分はそういうものには憧れないと

というよりは挫折したという表現の方が近いかもしれません。僕はエスモードパリ3年生の時にDINARD(国際モードフェスティバル)で賞を貰ったんです。国際的にはそんなに有名なものではないんですけどフランス国内の学生や若手を対象にしたものではコンペとしてHYERES(国際モードフェスティバル)の次に大きいコンペだったと思います。ただ僕もITS, HYERES(世界規模のコンペ)を例外なく学生の頃に出していたんですけどファイナリストにも残ることが出来なかった。
その時はやろうとしていたことは今とは全然違っていたんです。独立してデザイナーになろうとは思っていなかったんですけど、ショーのデザイナーにも憧れはありましたし、漠然とコンペで実績を残せば道が開くだろうと思っていました。だからそのコンペのルールというかコンペにおけるコレクションみたいなものを目指してやっていたんです。

―自分が作りたいものを作るというよりはコンペに勝つ為のデザインをしていたということですか

ある意味そうだと思います。
結局DINARDでは形を残せたけどITSもHYERESも行けなくてアントワープやセントマ卒のデザイナーみたいな流れには全然のれなかった。多分その頃はそういうことでしかその先の道程が見えていなかったと思うんですよね。

―アントワープの人やセントマの人と比べて具体的にどんな部分が違ったと思いますか

アントワープの人やセントマの人って考えているかどうかは別として見られることを意識するように教育されたんだなって思います。見せるテクニックというより、見られ方が本当にうまいと思います。
僕は言ってみれば庭の中で育てられたようなもので、外で見られるという意識でできていなかったと思うんですよ。

―留学した当初はデザイナーを目指していたのではないんですか

パタンナーかデザイナーだろうなとは思っていました。今となってはなぜエスモードかというのはわからないですがどちらかと言えばただ留学をしたいという気持ちが強かったんだと思います。

―作っていたものってどんどん変わっていったんですか

学生の間はずっと変わらないし(帰国後一番最初の取り扱いとなった)Sisterで扱ってもらったものまでは変わってないですね。学生の頃に作っていたものって作っている物が自分の分身みたいな感覚が全然なかったんです。
でも自信のブランドを始めて、会う人から作り手の性質を、作った服を通して見られることを実感するようになってきてから服作りが変わってきましたね。

―帰国後すぐにショップでの取り扱いが決まったと思いますが、帰国前にブランドを始めることは決めていたんですか

何も先のことが決まってなく、どうしようという気持ちで帰国しました。とりあえず先に帰国していた人たちに会って苦手な人脈作りはしようと思いました。それがどう繋がるか、人の下で働くことになるかは全然わからなかったですけど。
自分でブランドをやろうと思ったのは2010年の夏くらいです。

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