Interview

小野智海 ~名前の無いブランド~ 2/2

私にとってファッションとは一つのメチエ=職業であり、誰かにとっての小さな幸せを作るメチエであり、それを喜びとする人々のメチエなのだと思います

→小野智海 ~名前の無いブランド~ 1/2

―ファッションをデザインすることの魅力とはなんですか

人が着ることが出来ること。

―現在ファッション界にはたくさんのデザイナーがいます。一方でマルジェラしかり、エディ・スリマンなど栄華を極めたデザイナーがファッションと距離をとるという現象もみられます。彼らがデザイナーを辞めた理由は彼らにしか分かりませんが、小野さんはこのことをどう見ていますか?またどういう理由が考えられると思いますか

どのような理由かは分かりません。

―小野さんの作品には言葉がよく出てきます。そしてただ記号として消化されるのではなくそこに付随した概念とデザインが融和し、思考を呼び起こさせる仕組みになっていると感じました。そうした姿勢はアートのコンテクストだと思いました。ファッションのアートへの昇華という話は近年良くされますが、この辺についていかがお考えですか

ファッションとアートに関して言えば、アートにはアートのファッションにはファッションの、それらに関わる物や人々それぞれに特有の空間によって作られる場があります。アートとファッションが関係を持ち、ときにその場を越境することは素晴らしいことだと思いますが、ファッションとはまず街の中に生きるものだと思います!

―ファッションにおける表象と言語の関係性をどのように考えていますか

言語との関係性を考える場合、ファッションや衣服について語られたもの、雑誌に書かれた言葉からウェッブ上の記述や個々のエノンセまで、それら言語による表象と実際の衣服とは一つのシステムとして分かちがたく結びついていると言えます。そして、それらは着る行為自体からも切り離すことは出来ないものです。と言うのは、言葉それ自体も身体的な経験の上にあり、それによって表象=イメージを形成しているからです。そういう意味では、服を着ることは言語による表象も含めて着るという行為だと言えます。また、ファッションに関する言葉に関して言えば、ファッションに関して語られる言葉や用語は時に、非常な速度で単純化がおこなわれ流通することで、ファッション特有の言葉の使用と消費が行われる場合が多々ありますが、歴史的な解釈も含めこれらを捉えなおすこと、はファッションに一つの変化を与えると思います。一方、言語と衣服について考える場合、衣服には身体の構造上の切れ目、や装飾上の切れ目、特に構造上のパターンによる分節化は一定の規則があり、これらを言語的な文法構造やレトリックと類比して考えることなど、物の水準と言語と絡めてファッションを捉えることも出来ると思います。

―今の東京のファッションをどうみていますか

東京のファッションは、それぞれの地域ごとに特徴がありながら、また一方では、様々なスタイルが混ざり合っている様に思います。あるスタイルなり地域的な特徴を持ったファッションが、細かな領域を形成しそれぞれその中でのモードがあり、ある種のマイクロスコピックなモードの集まりの様な印象があります。その様なマイクロスコピックなモードの集まりである東京のファッションはハイモードからストリートまでがよりフラットな関係にある様に感じます。極小化し水平化するモードの状況と言うものは非常に面白いと思います。

―アバンギャルドはすぐモードになる運命にあり、デザイナーは常に新しいことをしなければならない。ギャルソンが示していることはそういうことだと思います。しかし現在は「未来永劫新しいことへ挑戦する」というコンセプト自体がモードに収斂されているのではないかという思いがします。それについてどのように考えていますか

「未来永劫新しいことへ挑戦する」と言うコンセプト自体がモードのクリシェになってしまっていることは確かですが、モードが変化の上に成り立つ以上、常に「新しさ」を求めると言うアティテュード自体は、現在でも有効なものだと思います。
しかしまた、服を着ることはまず、日常や関係に変化を与えること、気分を変えることであり、そういう意味ではファッションにおける「新しさ」とは、一枚の服を着ることで自身や周りの世界との関係に小さな輝きを与えることだと思います。また、デザインする上での「新しさ」とは、感覚的なものに、自身で感じるある新鮮さに賭ける行為であり、それはある共感の可能性に賭けることだと思います。

―ファッションとはあなたにとってなんでしょうか

この質問に答えることは非常に難しいですが、、、それは、服を作り、またそれを提示する中で探求されるものです。そして、それはその都度に問い直されるものです。しかし、服を作ることは、ファッションとは何かを問うことによって作られるものではありません。
それは、あくまで感覚によって探求されるものです、、、、
かつてシャネルがインタヴューの中で、モード=ファッションに関して、こう答えたことがあります「モードそれは私だった」と。これは非常に興味深いのですが、これを違う形で解釈すれば「私」と言う言葉は、誰もが自身のことを「私」と呼ぶことが出来る様に、本来的に単数であると同時に多数なものです。このシャネルの言葉において、モードとはシャネル本人を指すと同時にそれを指してはいないということです。つまり、モード=ファッションとは、多くの人々によって作られていると言う意味において無数の「私」であり、同時に誰でもである「私」によって作られるものだということです。
服を着ることは、個人的な趣向や気分を表現することです。そしてそれは、自身を変革し肯定する手段であり、他者に対する感情や態度を表現する手段でもあります。そうした、個々人の表現がファッションなのだと思います。
あえて答えるなら、私にとってファッションとは一つのメチエ=職業であり、それは社会におけるメチエ=役割であり、多くの職人的メチエ=技巧によって支えられたものです。そしてそれは、誰かにとっての小さな幸せを作るメチエであり、それを喜びとする人々のメチエなのだと思います。

―今後の展望を教えてください

一つ一つ様々に試みながら進んでいきたいと思います。

Interview & Text:Masaki takida, Fumiya Yoshinouchi, Tomoka Shimogata

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