Interview

坂部 三樹郎 × 蘆田 裕史 “ファッションとファッション批評” 1/5

MIKIO SAKABEの坂部 三樹郎氏と蘆田 裕史氏による対談 が5月下旬に行われた。
蘆田は現在熊本市現代美術館で開催中の「ファッション―時代を着る」展を共催している京都服飾文化研究財団(KCI)に勤務、また坂部は同展覧会の出品作家である。
 蘆田は自身のブログにて「批評という行為はある作品の評価を言語化すること。批評を書くことはデザイナーが生き残る道を作っていくことにもつながる」と綴っている。今対談ではファッション批評の話題を中心に坂部と蘆田、批評される側とする側、双方の目線で話が展開されている。
ファッションに批評は必要なのだろうか。ファッションにおける批評の可能性とは・・・・

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蘆田 裕史(以下A):今回のMIKIO SAKABEのコレクションに関してChangefashionの企画で様々な方からコメントをもらっていましたが坂部さん的にはファッションの批評に関してどう考えていますか

坂部 三樹郎(以下M):今回の企画が素晴らしいと思ったのはいろんな意見が聞ける場がやっと出来たということ。例えば雑誌とかに取り上げてもらって、たくさんページをもらったとしても、僕自身何も面白くない、ただ褒められてるだけというのは良くありますよね。それに良くないブランドは取り上げないっていう判断をするメディアが多い。それが凄く日本のファッションシステムの中心になっていると思っている。今回の企画は実際僕は自分の事だったから、傷つく事もあった。ただその反面、こういう企画が一番ない、必要だと感じていたから本当に面白いと感じる部分もあって、様々な人の批評を見る事が出来て素直に良かったと思う。自分の感想として的を凄く射ていたと感じたのは短いけど、(堀内)太郎が書いていたもの。ファッションの人からの共通してる意見はカルチャーというものとファッションがうまく混ざってないってことを感じてるんだと思います。
やっとその場が出来たっていうのは本当に良い事だと思うし、change fashionの場合、webでしかもコメント欄がついているから、例えば僕がそこに何か書いたとして、それに対して、「お前そんなこと言ってるけど、こうじゃないの?」って言うコメントもありえますよね。

A:坂部さんがコレクションを発表して、肯定的、否定的な意見があって、さらにそのコレクションを批評する人たちに対しても賛同するとか、「それはやっぱり違うんじゃない?」とかそういうことが続けばいいですよね。

M:勿論あれに対する自分の意見をブログに書くことも出来る。ただ文章の最大の欠点はキャッチボールに凄く時間がかかること。それに今回みたいにいろんな人の意見があれば、それに対して一つ一つコメントしていったら、時間がかかってしまう。

A:そこはデザイナーとして坂部さんは来シーズンのコレクションで坂部さんなりの回答を出すという形で良いと思います。
勿論僕の見方が正しいとは全く思っていませんが最近の坂部さんのショーを見て思うのは、日本のファッションの歴史をきっちり作っていかないといけないということ。特に90年代から2000年代初めというのは色々面白いデザイナーがいたり、面白い事やってた人もいたのにそれがすっぽり抜けてしまっていると感じるんです。例えば今の若い子がトライヴェンティやビューティービーストの時代を見ることによって、完全には無理でもある程度は文脈を共有したいなって思うんですね。音楽であれば自分で調べて聞いて、一世代前、二世代前のことを知ってる若い子はたくさんいますよね。それがファッションとなると過去の知識を持っている人は凄く少ないと感じるんです。なぜそうなるかというとそういった歴史を知る事のできる本がないからだと思うんです。雑誌は図書館で書庫に入ってるバックナンバーを見に行かないと、見る事も出来ない。ただそれが本であれば興味を持った人が見れる。それに日本の最近のファッションの歴史みたいな本であればアクセスしやすいと思うんです。例えばアンリアレイジ等のコンセプトメインでやっているブランドを見る時は、Shinichiro Arakawaのような文脈を知っておいた方が良いと思うんです。でもそういう歴史が全て抜け落ちてしまってるように感じてしまう。その時代を通って来た人たちが今の雑誌でそういうことを言ったり、少し前にはこういう事があったと言えば、知識として入るかもしれない、でもまるで過去のこと等どうでも良いかのように、触れもしない人が多い。それが続くとまた次の世代でも同じような事になる可能性が大きいです。例えばMIKIO SAKABEが消えるとは言わないですが、万が一ブランドが小さくなっていったり、ブランドを閉じざるを得ないことも可能性として0ではないですよね。例えそうなったとしても坂部さんが今やってることを歴史として残していくべきです。ただ今のままだとそれがまた忘れられる可能性も出てきてしまう。常に進歩しなくてはいけないというわけではないのですが、それでは同じことの繰り返しになる気がする。昔にはこういうデザイナーがいてこういうことをやっていた、そういうことを踏まえることで、「こういうやり方もできるのか」とか、デザイナー自身も考える事が出来ると思うんです。

M:多分今いるジャーナリスト達から見れば、そういうことは大事な事ではないって言う判断から書いていないんだと思います。90年代に流行ったビューティービーストや20471120とかって面白かったけど、それよりもさらにみんなが注目していたのが多々あった時代だから、そういう意味で順位的な問題があったのではないかと思います。

A:それらのブランドだけでなく他のブランドでも良いのですが他のブランドのことも取り上げられていないですよね?

M:難しいのは人それぞれの感性だから、その時代のその人たちに興味を持たないと評価を書けない、だから僕はその時代にはそういうことに興味をもって書きたいと思った人が極めて少なかったんじゃないかと思っている。

A:でもそうであればその時代に興味を持って、書きたいと思う人が書きたいと思う事を書けば良いと思います。

M:多分そうやってきたのかと思います。その上で興味を持たれなかったブランドが歴史から抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。

A:今2000年前後あたりのファッションの事を考えた時に、トライヴェンティやビューティービースト以外のものでどんなブランドやデザイナーの名前が出て来得るかと考えるとなかなか出てこないですよね。そういうブランドがちゃんとどういう文脈で引き継がれているのかというのは大事だと思うんです。

M:いろいろな人と話して思うのは、そういうことは絶対に必要、ただそれと同時に時代の批評をするというのは凄く難しいこと。今の時点での批評は出来るけど、その時代のことを今の感覚で見ることは出来ない。

A:それを歴史としてやれば良いと思っています。そういうことは本当は僕みたいな人がやらないといけない事であり、今後やっていきたいと思っています。雑誌は時代の一つの参考になると思います。そういうのを拾っていって、どのように見られていたかというのを記述することは出来ますよね。例えば今でも、美術史で何世紀も前の事を調べて、どういう風に受け止められていたかを調べる事は出来る。それが90年代、2000年代であれば雑誌もあるし、いろんな表現がある。だからその時代のことちゃんと残すことを今やりたいと思っている。こんなことを言っても仕方がないかもしれないのですが、上の世代の人が雑誌でその場限りの事を書くのではなくきっちりと歴史を残すようなことをしてきて欲しかった。

M:今の若い子たちが昔の事を知らないで今のブランドのことを良いって判断することに対しては否定的なんですか、それとも肯定的なんですか?

知らないことは悪い事ではない、ただ知りたいと思った時にアクセス出来るものがあるべきだと思います。例えば今あるブランドが面白いといってそこに興味を持つところまで入ってくる。それで昔のものを見ていたら、こんな似たようなことをやってた人もいたのかってなる。そこでアクセス出来るものがあれば別に僕が何か言わなくても、坂部さんはこういうとこから、こういう流れで来ているのかなって理解出来ますよね。だから今を見てそれが良いと思うのは全然悪い事じゃない。そうではなくてその先に繋がる何かを残しておかないとという感じですね。何でも知るのは無理だし、僕が知らない事もある、寧ろ知らない事だらけです。

M:そこは結構大事なところで、批評家としては知識は絶対にあったほうがいいし、あればあるほどいいと思うんですよね。

A:そのことに関してはtwitterでも発言したのですが、僕は批評家とジャーナリストは別のものだと思っているんです。あくまでも僕の考えですけど、ジャーナリストはブランドに対する知識や歴史、そういったものを出来るだけ知識としていっぱい持っているべきで、それをある程度文脈化したり、分析することが出来る。批評家というのは知識量は別のところで、例えば哲学的な理論などを色々勉強して、坂部さんの服をジャーナリストとは別の視点で解釈していくとかそういうものだと思うんです。

M:でも、そうなると似たようなことがあった時に知らないっていうのが起こってしまう。それを評価してしまうというのも事実として起こり得る。

A:それは確かにあり得ると思います。例えば、椹木 野衣さんが『新潮』という文芸誌でカオスラウンジを新しくないという文章を書いていたのですが、でもそれは椹木さんは美術の文脈を知っていても、アニメやそれ以外のいわゆるサブカル的なものを知らず、それがどういう風に組み込まれているか分からなかったから、新しくないと結論づけたのではないかと思うんです。同じような事は僕が何かを評価するにあたって起こり得る、なのでまず僕が一番大事だと思うのは議論の場そのもの。例えば、「蘆田って言うのがこういうこと言ってるけど、何もわかってないじゃん、何も知らないじゃん」そう言ってくれる人、それを言える場も必要だし、そういう人も必要だと思うんです。

M:でもその間違いが少ない方が良いと思っているのかどうか、僕は知識がないと正しい評価は出来ないと思っている。

A:“正しい評価”という表現には違和感があります。

M:知識がないから、誰かが過去にやったことをコピーして、コピーしたブランドが評価された。これは正しい評価かどうか。オリジナルよりコピーされた方が評価され、本人も確実に過去のことを知ってやっている。でも、見る側の人がそれを絶賛した。それは正しい評価とは言えないと思うんです。

A:それはそうですね。

M:それは知識の問題ではないでしょうか?

A:勿論批評家も勉強していくべきだと思う。ただ一人の人がなんでもかんでもやるというのは出来ないと思います。
僕はジャーナリストの人が様々な知識を持って、「こういう風に見るべきだよ」とか、「ちょっとこれはコピーじゃないの?」って、指摘をするような人であるべきだと思うんです。

M:僕は批評家の人の方がむしろ込み入った知識を持っていなきゃいけないと思っている。批評するには絶対的な知識が必要で間違いまで肯定してしまうと批評家自体の存在が否定される気がする。批評家というのは感性と知識を両方とも持つ専門家というイメージ。そうなると知識も関係してくると思う。

A:坂部さんが言うのは良く理解出来るのですが、単純にジャーナリストや批評家の数が増えれば、そこはある程度クリアできる問題だと思います。批評家の数が増えれば批評家同士でも、「あの人わかってないよね」って意見が出てくる。そういうのが増えていけば、歴史を作る事になる。たとえば平川さんはファッションの批評をやっているけど、それ以降でファッションの批評をやってると言える人はいないですよね。。

M:それを仕事としてやってる人は正直思い浮かばない、批評は出来たとしても。批評という仕事の場自体が存在しないので。

A:だからこそ、その発言をしていくのが大事なんだと思います。それが仕事かどうかではなく発言をしている人がいるかどうか。その数がいっぱいいれば、僕はそんなに問題じゃないなって思っているんです。ただファッションの場合、あまりにも絶対数が少ない。だから今でも平川さんの発言ばかりが注目されていますよね。

M:批評というものをしっかりやろうとするといろいろな仕事をやりづらくなる。クリエーションだけの話で、デザイナーはやってないですよね?批評されて、ビジネスが落ちるということはやっぱり会社としては許されない話。それと批評を純粋に別に考えてっていうブランドだけではないと思う。そうなってくると、仕事として批評家というものが成り立つのは難しい。

A:「批評されて」というのは、批判的な、否定的なコメントを出されてってことだと思いますが、長い目で見たら、それが否定的なコメントだったとしても僕はそのことがマイナスに働くとは思っていません。

M:僕自身もそっち派なのですが、現実的な今の世界で、批評するってことをどう肯定的に仕事としてやっていけるかというのは凄く難しいと思う。批評をする人が平川さん以降いなかったとは僕は思っていない、ただ平川さん以降更に批評家が出にくい社会になっただけだと思う。批評をした人は多分いっぱいいるんですよ。ただ、出来ない世の中を変えられなかった。

A:なので、それはちょっとずつ変えていけば良いと思っています。

M:そこは凄く難しいですよね。どういうシステムであれば批評しても受けれてもらえるのか。その為にはそういうシステムをまず作らなければいけない。

A:本当にそうだと思います。以前ブログにも書いたのですが僕は批評って一つのシステムだと思っている。発言の場があり、それを受け入れる人たちもちゃんといて、可能であれば仕事としても成り立ってという一つのシステム。そこを少しずつ自分たちで作っていけたらって思っています。
坂部さんが「評価しないところは載せない」っていうような事を言っていたのですが僕は初めはそれでもしょうがないかなって思っているんですよね。というのはそのやり方でも歴史は作っていけると思うんです。10年後振り返った時に、「こういう人がこういう人を評価していたんだ」というのは一つに残りますよね。勿論「こういう人が評価されていなかった」というのがあれば、もっと良いのかもしれないですが。

3 Responses to “坂部 三樹郎 × 蘆田 裕史 “ファッションとファッション批評” 1/5”

  1. syk より:

    はじめまして。現在服飾専門学校へ
    通っています。
    はっきりいってくだらない。
    と思ってしまいました。批評する側の方は理想とする
    ものがあるがつくれないからそれをさせようとつくる側に意識づけるのですか?
    確かに作る側は自分ばかりの世界にいては只の自己満足で
    終わってしまい、指摘を受けることで受け入れるにしろ
    聞くにとどめるにしも何かしら変化はあると思います。
    そこで批判をする人は何が楽しいのでしょうか。思い描くものに反するするものは批判、又はスルー。
    一体何がしたい存在なのでしょうか。
    思い描くものをあらわしがたいための仕事なら
    独裁者と同じではないですか?
    実際批評は流行をよくも悪くもうむとおもいます。
    彼らの存在意義はあるのでしょうか。

  2. ハチ より:

    >sykさん
    批評家というのはただ「バッシングをする人」というのでは無いです。新陳代謝、前進するために崩す行為というのはとても重要だと思います。建設的な”対話”であると思います。
    それにもちろん批評対象がとても素晴らしいものであった場合、絶賛しその素晴らしいと思う理由も細かく読み解いて説明したりするものです。
    ただ批評対象について良くないと思う場合、なぜそれが良くないと思うのかをまた細かく読み解いて説明をするものです。
    どちらにしろ理由が細かくはっきり見えてくるので、読んだ人がその対象についてより理解を深めることができると思います。

    批評行為というのはこのような直接的な文章だけではありません。
    例えば原発事故の際に芸能人のデーブスペクターが様々な皮肉混じりのジョークをツイッターでたくさん呟いていたと思いますが、あの文章には確実に批評的目線で色々な意味が込められています。
    あれを読んで色々と考えさせられた人は多いのではないでしょうか。

    もちろん批評行為というのは服作りにおいても含まれている場合も多分にあります。
    マルジェラやギャルソンの初期の服などは分かりやすい例だと思います。
    “メッセージ”のようなものがその行為に在る場合、批評的な要素というのは多かれ少なかれ存在しますし、それがあるからこそ”メッセージ”としての強度があるんです。

  3. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    >sykさま

    はじめまして。
    上の対談をしていた蘆田と申します。

    ハチさんが仰って下さったように、批評は批判ではありません。
    そのあたりのことはchangefashion内の水野大二郎君や僕のブログをお読み下されば幸いです。

    その上で「くだらない」と言われてしまうのであれば、まだまだ批評の意義を明確にできていないということだと思いますので、今後、少しずつ理解していただけるように努力して参ります。