Interview

Smith & Hardy / 福薗 英貴 1/2

2011秋冬シーズンより福薗 英貴氏による注目のブランドSmith & Hardyが本格始動する。
福薗氏はアントワープ王立芸術アカデミー初の日本人卒業生で元WHEREABOUTSデザイナー、現TAKEO KIKUCHIのデザインディレクターも務めている。
今回は新ブランド「Smith & Hardy」のことを中心に、アントワープ時代の話等様々な話を聞いている。
→Smith & Hardy 2011-2012 A/W Collection

―アントワープ時代はずっとレディースをやられていましたよね。帰国してからはメンズをやられていますがなぜメンズウェアーだったのですか

アカデミーではレディースをずっとやっていましたが別にレディースでもメンズでも良かったんです。日本に帰国してからメンズを選んだのは、それまではずっとレディースをやっていてメンズをやったことがなかった、だからメンズをやってみようと思ったんです。

―卒業コレクションは雑誌でも「日本人デザイナー3人が初めてアントワープを卒業する」みたいな見出しで特集されていて話題になったのを覚えています。“Relax”をテーマにレディースでホワイト一色のコレクションでしたよね

考えると恐ろしいですね。
あの学校の作品作りって時間がかかるものだったんですね。みんながすごい時間をかけて作品を作っている中、僕の最後のコレクションは一体作るのに十分程しか時間をかけなかったんです。

―無駄を極端に排除したみたいなことを書かれていましたね

はさみとかいっさい使ってないものもあります。これでいいのかと思いながら、見せたら先生にOKって。

―それまではもっと時間をかけて服作りをされていたんですか

そうですね。それまでは時間をかけてやっていました。ただ4年生になったからそういうのはもうこりごりだと思って、敢えてそれまでと違う手法でコレクションをつくりました。

―そもそもなぜ海外に行こうと思ったのでしょうか

僕は洋服の学校に入ることを親に反対されていたんです。やっと洋服の学校に入ることができたので洋服やるなら、日本じゃない方がいいだろうって。

―パリに最初に留学していますがなぜアントワープに行こうと思ったんですか。当時は情報もあまりなかったし日本人も福薗さん達(同時に日本人3人が卒業)が初めてですよね

アジア人はそれまでも何人かいたことがあるけど、日本人は入学したのも僕らが初めてだったと聞いています。
アントワープに行く前にパリの学校CREAPOLE(モード学園の提携校)に行っていたのですが、半分が日本人で。それで全然海外で勉強している気がしなくて、日本人のいないところで勉強したいと思ってアントワープの当時の学長(Linda Loppa)に会いにいったんです。

―リンダ・ロッパといえば当時から物凄く有名でしたよね。そんな簡単に会えるものなんですか

パリで彼女に何回か会ったことがあって、「入りたいんだけど」って一度話したことがあった、だから直接アポを取って会いにいけば入れるかなって。そうしたら「2週間後にテストがあるから来なさい」って言われて詳しい内容も特に伝えられず、、、。
マルジェラが卒業しているのは知っていたけどその情報しかなかった。どういう学校かは知りませんでした。

―リンダを知ってからアントワープを知ったってことですか

そうではなく自分はマルジェラのファンだったのでアントワープのことは知っていました。ただそれしか知らなかったんです。
リンダはあの頃雑誌にたくさん出ていたので勿論知っていました。

―それで入学テストを受けたんですね

試験の内容は面接とデッサンと水彩画でした。デッサンがあることは言われていたのですが、自分はデッサンなんてしたことなかったから、何描けばいいんだろうと思いながら描いて、午後は水彩画の試験でした。絵の具を持っていなかったので、試験の途中に買いに行ってそれから描いて・・・。
面接は英語でしたが英語といっても、高校の時までの知識しかない。聞かれた質問が全くわからなくて、何聞かれても黙っていたんです。そしたら、周りがすごい気を使い始めて小学生みたいな英語の質問をしてきたのでなんとか答えられたんですけど。
結局合格したんですけどその基準は全然わからなかったですね。

―入学試験でも結構落とされてるって聞きますけどね。絵が描けるかどうかはあまり関係ないみたいですけど

確かに絵が描けるかは全く関係ないですね。
僕の隣にいたスペイン人の子は石工デッサンなのに、線一本で丸書いてちょんみたいなそんな感じだった。「この人これで大丈夫なのかな」って思ってたら、その人は受かっていた。

―ただアントワープは入学してからが本当に大変だと聞きます。学年が上がることに淘汰されて卒業生が4人という年もありますよね。やっぱり大変だったんですか

僕らの時は卒業出来たのは入学した人の6分の1くらいでやっぱり大変でしたね。日本から行ってるから、途中で落ちて、帰るわけにもいかない。そういう変なプレッシャーもありました。
地元の子たちは手伝ってもらえる子がいていいんですけど、日本人3人は自分でやるしかない。最初は言葉も大変だったし問題が山積みでしたね。

―現在は英語が出来れば入学できますがその頃はフラマン語も必須だったんじゃないんですか

それまでは駄目だったんですけど僕たちのせいで基準が変わったんです。フラマン語が出来ない3人が入ったから、英語がOKになって、日本人が入りやすくなったんだと思います。
フラマン語は強制的に学校に通わされて習わされたのですが忙しすぎて行けなくて結局全然覚えられませんでした。
社会学、経済学などのファッション科以外での講義は全部オランダ語でそれも理解できない。それなのにテストまである。

―授業を理解出来ないのにテストはどうしていたんですか

テストは出来ないんですけどレポートを書いたら、一応おまけしてくれるんです。僕ら日本人3人は、本当に甘やかされていた。だから僕ら3人の中ではもう講義はどうでも良いってなっていて。でも、レポートは出せと言われて。3人で一緒に出したレポートが4、5枚のレポート。そしたら、本当に火が出るくらい先生たちに怒られて・・・。
ウォルターや女性の先生たちに頻繁に怒られていました。あんなに怒られたのは小学生以来でしたね。

―優等生ではなかったんですね

そうですね。僕以外の二人の日本人は優等生だったと思うんですけど僕はふらふらしていました。
寝る暇あったら、飲んで。外に遊びに行ってました。僕は学校以外の知り合いが多くて、いつもいろんな人に遊びに連れて行ってもらっていたから。でも、遊びに行くと、必ず次の日に先生たちがそのことを知っているんですよ、狭い町だから。

―課題はちゃんとやっていたんですか

課題は一度も遅れたことはないですね。日本人ですから、真面目にやっていました。

―服作りに関してはアントワープに入る前に他の学校で教育を受けていたというのも大きかったんでしょうね

そうですね。日本人以外の生徒はあの学校で初めて服作りをやるという人が多かったんですけど、僕はモードにいた時もやっていたし、パリにいたときもやっていたので基本的な知識があったので作ることに関してはある程度問題なく出来ていました。

―でも、その4年間が大変だったからこそ今に生きている部分は多いんじゃないんですか

大きかったとは思いますね。忍耐を覚えたという感じですね。
デザインに関しても大きいとは思いますが、それは人それぞれだからどこで勉強しても一緒かなって気はします。

―在学中インターンはされていたんですか

インターンはしていませんがANGELO FIGUSのパリコレの手伝いを岡部さんと一緒にして二人でサンプルを縫っていました。

―ANGELO FIGUSといえば伝説的なデザイナーですが数年でブランドを休止していますね

あの学校を卒業してすぐにデザイナーになったひとはリアルクローズをつくることに迷ってしまうのではないでしょうか。作りたくないというか加減がわからないというか。それにビジネス的なことをまったく勉強しないで「デザインとは」みたいな哲学的な部分の授業も多いので難しいのだと思います。
僕らの学年でも、上の学年でもそうですけど、一度辞めたら、洋服のことをやってない人がほとんどだと思います。
卒業の時はブランドからオファーが来るんですけどその時だけ。卒業後のケアも無いので。

―ブランドをやっている方も多いと思いますが同級生やアントワープ卒の方のことは気にかけたりしますか

雑誌を見ていて目に入るくらいですね。特に気にかけて見たりはしません。

―服を作るのは好きですか

洋服のことは大好きですね。考えることも作ることも好きだし。洋服に関することは全般的に好きですね。

―帰国してからはずっとメンズをやられていますがレディースをやりたい気持ちもあるんですか

あります。ただブランクが長いので作れないかもしれないですね。

―でも、メンズのことも日本に帰国するまではまったくわからなかったわけですよね

そうですね。アントワープで4年間も勉強したのにまた1から勉強してって感じでしたね。ただテーラードは好きだったのでその部分は今に繋がる部分もあると思います。

―アントワープの最後の年のインタビューでも、好きなガーメント、テーラードJK、好きなデザイナーはマルタンマルジェラと答えていますね

書きましたね。

―マルタンマルジェラを好きな理由はなんだったんですか

地元の熊本の洋服屋さんで見て、店員さんも着ていたのですが、「なんじゃこりゃ」みたいな衝撃的な感覚でしたね。なにか凄い、なのにあまり奇抜じゃない。奇抜での「なんじゃこりゃ」じゃなくて、僅かな差というか、気がつかなかったところを気づかせるみたいな。そんな感覚でしたね。

―それはレディースだったんですかメンズだったんですか

レディースなんですけどユニセックスとしてマルジェラがやってた時だったので僕が見たのもレディースを男性が着ていました。「なんか凄いな」って思いましたね。

―マルジェラの洋服は買われたりしていたんですか

マルジェラに関してはコレクターでした。ただ卒業と同時に似合う人に全部あげちゃいました。
昔はマルジェラの服って、古着屋さんに行ったら、日本でもジャケットで2、3千円とかで買えたんです。まだ全然有名になる前の時だったから凄く安かったんですよね。パリの古着屋でも凄く安かったので、着れないレディースの服を集めていました。

―メンズではなくレディースを集めていたんですね

そうですね。かろうじて着れるかなみたいなものもあったんですけど。なんか面白いなって思って集めてました。最終的には200着くらい持っていました。
でも卒業と同時に似合う友人達にあげちゃいました。何でかわかりませんが。

―マルタン・マルジェラ本人には会ったことはあるんですか

一度だけですが会いました。マルジェラのショーの手伝いに行ったときに会ったのですが、パチョーリの香水の匂いが凄く強くてそれが印象的でした。

―ショーの手伝いってどんなことをされたんですか

ライトを持った記憶があります。180㎝くらいの男子を探しているという話が学校に来て、ちょうどメンズを発表する時(マルタンマルジェラ10)だったので、先生たちも「モデルやらされるんじゃない」って。行ってみたら結局全員ライト持ちだったんですけど。

―会話は出来たんですか

会話はできないですね。本当にシャイな人って感じでした。
凄く大きくてキャスケット被ってて、髭が凄かったそういう印象です。それにショーの準備までして、本番の時はいない。
でも存在感は凄かった。凄いと思って見ているから余計そう感じたのかもしれないですけど。

―どのコレクションが特に好きだったんですか

パリのもう使われなくなる地下鉄でやったコレクション。それに外でトルソーの服や半分の服とか、毛皮の帽子みたいなウィッグとか。その頃のショーは素敵だなと思って見ていました。

―場所選びもクリエイションの一つになっていますよね

そうですね。それに白と黒の時も印象に残っています。白と黒で会場が別々で、どちらか片方しか見れないっていう。

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