MA deshabilleのデザイナー村田明子氏はアントワープ王立芸術アカデミーファッション科を卒業。アカデミー在学中にVivienne Westowoodでインターンを務め、帰国後MA deshabilleをスタートさせる。
現在はスタイリスト、コンサルタント、ヴィンテージディーラー、コレクター、占い師、また近年では平川武治氏、森永邦彦氏(ANREALAGE)も参加したDOMMUNEでのトークイベントや2012年3月2日に創刊されたファッションの批評誌『fashionista』では「RAF SIMONSの英雄的節操に関する云々」を寄稿。ますます活動の場を広げている。
―ファッションに興味を持ったのはいつからですか。きっかけを教えてください
自分の母親が本当にセンスが悪い人で授業参観とかに来られるのも凄い嫌でした。子供はそういうのを気にしますよね。そこから自分なりにちゃんとしようと思ったのが始まりです。
中学校3年生くらいから高一くらいまで、当時流行っていたアムラーだったり、ルーズソックスを履いたりしていましたし、アクターズスクールにも憧れていました。
高校はスカートの長さだったり規則が凄く多かった。そんな時にバンタンに通っている学生を見たのですが髪の毛が蛍光な人がいたりする。ファッションの専門学校であれば校則に縛られず自由に出来る、それでファッションの学校に行きたいと思うようになりました。
ですが原宿に遊びに行ってキャットストリートとかで奇抜な格好をしてフリマをしている人とかの中にはいってみると、彼らが話している内容は誰がやりにげされたとか、格好が個性的なだけであって、中身にオリジナリティを感じられなかった。(勿論、面白い人もいたとはおもいます!)それで、憧れていた専門学校に行っても意味がない、行っても面白くないと思ったのです。それまでは高校で赤点を取らないように卒業してバンタンや文化に行けたらって思っていたのですが、興味が無くなってしまった。
「自分はどうしたいんだろう?」って、すごく悩んでいた時に大矢ともやという、今でも、とても尊敬している友人にたまたま道で出会った。彼はセントマーチンズに行くっていう話をしていて、それで海外留学という道があるという事に気がついて高校を辞めたんです。
―海外に行く前提で高校を辞めたんですね
そうです。親は凄くショックだったみたいで、それが原因で胃潰瘍になってしまいました。
私自身は尾崎豊並み(笑)に大人なんか汚いって思っていた17歳、反抗期でした。
学校を辞めた時に色んな人に白い目で見られていた。
自分は「高校に通う時間無駄だな。。」と、正当な理由で辞めたのになんで彼女達の価値観によって哀れな眼で見るんだろうって。
そんな時に当時原宿でサロンのような、お店をやっていた平川武治さんに出会ったのです。
彼の文章を読んだことはあったのですが、お店をされていることなどは知らないままに、たまたま入ったお店が平川さんの店でした。
大人。。と云う人達に対して失望していたので、子供みたいな大人がいて感動したのを覚えています。格好良かったし、憧れていました。ファッションの本質を何も知らない私に色々教えてくれました。
―当時はどんなファッションが好きだったんですか
マックイーンやガリアーノ、Yohji Yamamotoも好きでしたし、凄いと思っていましたが当時は買う余裕がありませんでした。
通っていたVolumeという美容院のスタッフにごうさんという格好良い方がいて、その人は7:3分けで30’sの恰好をしていたんです。
彼に「ごうさんのお好きな時代の女性はどういう格好していたんですか?」と聞いたらシャネルやスキャパレリの名前が出て来たのです。
そこから、伝記を読んだり、その時代のファッションにとても興味を持ちました。
絶対大きくなったらシャネルスーツを買おうと思っていました。
ただその頃はまだファッションに対して、なにかしらの直感を感じるのみで、背後のリンクの形成のされ方や、自分が好きなものに対しての理由などは全くわかっていませんでした。
おばあちゃんの服やお母さんの服を古着と混ぜて着ていました。イトーヨーカドーやしまむらで買うのも好きでした。そういう安いものを自分なりのスタイリングでどう良く見せるかという格好をしていました。今考えるとひどい服でしたがその時の自分なりに頑張っていたと思います。
―結果的に留学先がなぜアントワープだったんですか
はじめはロンドンにも語学を学びに行きましたし、恥ずかしながら、メディアで注目されていたセントマーチンズしか学校を知りませんでした。平川さんが、「セントマーチンズよりアントワープの方が学費が安いし、今だったらアントワープの方が良い」ということを助言下さり、アントワープに行ってみようと思いました。
―ロンドンにはどのくらいの期間住んだのですか
英語の勉強をする為、3カ月ロンドンに住み、3カ月ブライトンに住みました。
綺麗な帽子があったり、5ポンドでフェラガモの靴があったり、ブライトンにも素晴らしいヴィンテージショップがたくさんあり初めて本物の服に触れたと思います。当時はインターネットがなかったので、本当にそのものが実際に通ったルートに行かないと本質的な情報が得られなかったし、ヴィンテージ、、と云う単語に付加価値がすごくついていて、日本にあるヴィンテージストアでも値段が張りましたし、実際に試着をさせてもらうのにも、ある意味でもったいぶられた時代でした。
20’s、30’s。それもラッキーなくらいに買いやすい値段で売っていたので実際にワードローブの質を上げることが出来始めました。
―ブライトンは少ないかもしれませんがロンドンにいたらデザイナーズを見ることが出来る場所がたくさんあるのに結果的にヴィンテージに興味が向いていったのはなぜでしょう
ともやが自分の服をPineal Eye(今は閉店, London, SOHOにあったセレクトショップ)に卸していたのでそこには良く行っていました。当時話題だったNokiやVava Duduがあってそういうのって格好良いって思っていました。
ですが、どこかのタイミングでそういうものが好きではなくなっていきました。
きっと、”コンセプト”とか、”ショーイング”が、物凄く取り沙汰されていすぎて、、友人とよく話していたのだけれども、「コンセプトを洋服に落とし込むことって、本当に一握りしかいない才能のある人だけがやっていいことで、子供の描いた絵のような技量で”コンセプト”に手を出した洋服はとても目障りだ」って思っていたのですね(笑)
アカデミーに入学する時点ではマルジェラとか、、、アントワープのテイストも嫌いでした。今は好きですけど。
その頃はクリシェというか表面的に良いと言われているデザイナー達が嫌いだった。アントワープ一派がやっていることが嫌いだったんです。だけどアントワープに入ったら自分のやりたいことが出来る、探せるのかなという希望は何故か直感していた部分がありました。
―デザインを勉強したくてアントワープに行ったのですか
正直やりたいことがわかりませんでした。
入ったら何かが始まるのかなって。
ファッションが好きでここに入ってファッションの事をやったら何か自分の中から出てくるんじゃないかって。
試験は8人の教授達を相手に面接、など、だったのですがアントワープ勢がパリで全盛の時で、好きなデザイナーをトム・フォードやイブ・サンローランとか答えたら笑われるような時代でした。私はあえて言ったらドリス・ヴァン・ノッテンかと思いそう答えたと思います。
入学前にも、卒業コレクションを見に行ったのですが凄くつまらなかった。
袖が3つついていたり単に奇抜なものばかりでした。その中でアンジェロ・フィグスの作品だけは好きでした。彼の作品にはクリストバル・バレンシアガみたいなシェープがある。アンジェロの作品を見たからこの学校やっぱり信じられるかも、、と思いました。アンジェロをあの時に観れていなかったら、アントワープにしなかったような気もします。
―入ってからはファッションに触れて行ったんですか
もうその時には凄くファッションが好きでしたが入ってからはとにかく課題に追われて大変でした。丁度その頃Bernhard Willhelmが凄くもてはやされていた頃でしたがPeter Pilottoの家に遊びに行ったりするとBernhardがいたり、Christian Wijnantsがいたり、デザイナーとの距離がとても近かった事は素晴らしい経験だったと思います。