Interview

さとうかよ ~たいせつなものは目に見えない~ 1/3

「たいせつなものは目に見えない」。2012年3月、アートフェア東京2012にてさとうかよの新作が発表された。難病にかかり、長い闘病生活を経て回復への兆しが見え始めた頃、3月11日を迎えた。作者、さとうかよは展示へのコメントの最後にこう書き残している。「だから、私はきちんと生きよう。」

いくつもの山を超えた彼女は薄く半透明のか弱い姿だが、無理に引っ張ると痛くてなかなか剥けない、甘皮のようだった。そのうち変わりたくなれば、そこから離れて新たな皮膚に生まれ変わる。
人はみな会社員、教師、デザイナー等様々な言葉で自身を語る。彼女はアーティストとしていまを生きている。


―前回のインタビューで、夢で見たことや思いついたことを日記に書くとおっしゃっていましたが、それは絵日記のようなものなんですか

文字で書いています。私は日記を書く癖があって、昔から「日記を書きなさい」と言われていて。小さい頃から日記を書いていて幼少時代は絵日記でした。2歳くらいの時の日記見たら「かに、カニ、カニ」って色んなカニがそこには書かれていて不思議でした。
小学校に入る頃には普通の文字だけの日記にかわっていました。
小さいノートみたいものに今も日記は書いています。

―病気の時も日記は書かれていたんですか

病気の時は書いていなかったと思います。その代わりにブログに綴っていました。
でもそれをみんなが見て、心配してくれて病院にみんな来てくれすぎて親に止められました。展覧会より人が来すぎちゃって。1月で丁度バイヤーさんも来ていた時期で、全国各地からのお見舞いの人と、小中学校からのお友達と、高校の時のお友達と、予備校の時のお友達とみんなロビーに集まって“走馬灯”みたいでした。「死ぬの?私」みたいな。すっぴんにぱじゃまにめがねで「凄いラフ」みたいな。

―実際凄く重い病気だったんですよね

「頭を開いてみないとわからないから」って先生に言われました。「なにその賭け・・・」って。私より家族の方がショックだと思います。

―病院ではどんなこと考えていたんですか

まず、自分に限界はないとおもって動いていたので、限界がある事を受け入れるのに精一杯でした。あと、わたしが朦朧と救命救急から運ばれた先が脳外科なので周りの人が植物人間だったり夜中に奇声を発する人もいたりして凄く不安になりました。
「本当に腫瘍あるのかな?頭痛いけど。開いて、手術してもし植物人間になったら私毎日夜中に奇声発したりするのかな?」って不思議でした。嘘だと思いたかったし、理由が欲しかった。腫瘍があったのが言語野というところだったので手術をしたら「言葉が喋れなくなる」と言われていたので今のうちに喋っておかなきゃと思って、いっぱい喋りましたね。とにかく言葉が喋れなくなる可能性、それが一番恐怖でした。結局喋れたんですけど。
担当医は「あなたは強そうだからはっきり言うけど余命六カ月だよ」って。
本当に目を見て真っすぐいうのが凄く怖かったです。

―でも今はもう完全になおられたんですよね

痙攣してたおれたので、いまは痙攣止めという薬をのんでいて、もう少ししたらやめられそうです。2年間この薬を飲み続けたのですが、今は薬も1日1錠に減って、とても身体が軽いです。自己免疫力ですね。
もう、脳腫瘍にはなりたくないのですが、またなる可能性もけっこう高い確立であることを知って受け止めきれない時期もありました。もうあんな想いをするのはイヤなので。
腫瘍全部摘出したのに放射線治療までしたのにその後の方が辛くて。全部髪の毛が抜けおちて、地肌にかつら、それが凄くきつかった。不快感が半端無い。真夏で暑いし、熱気がこもるし、六個くらい買ったけどかつらってやっぱり嘘くさい。かつらを被って会社に行ってたけどとにかくそれが辛かった。今考えると考えられない。かつらを被って仕事する人は「何の為にこの人は仕事しているんだろう」と今は思ってしまう。「何を大事に生きているんだろう」って思っていましたよ。

―その頃はまだbedsidedramaのデザイナーもやられていましたよね

倒れる前のコレクションが自分が本当にやりたいコレクションだったんです。途中で倒れてしまったんですけど本当にやりたいコレクションだったのでデザインを止めてくれと言ったんですけどやっぱり組織なのでそれは出来なかった。それで私がいないままにコレクションは出来てしまった。わたしが居なくてもブランドが進むということの怖さと、自分がいらないんじゃないかという悲観的な気持ちにもなりました。そのころもカツラだったので、とても卑屈でした。
春夏をやれと言われたけど私の頭の中は秋冬で止まっている。その間の生活なんて(病院で)みんなのパジャマしか見ていないから何も想いつくはずなんてなくって。生きるか死ぬかの事しか考えていないのに何か新しいモノ作れと言われても何も考えられない。その時のコレクションがやりたかったからそのことしか考えられない。春夏やるのが凄く苦しかった。色んな柄を書いたんですけど全て没になって。けっこう毒はあるけど基本的にはハッピーな柄を描いていたつもりのブランドだったのですが、その当時の私は、もう生きる事と死ぬ事の狭間で苦しんでいたので、そういう絵しか出て来ないんです。提出するたび、「こんなの売れるわけない」って言われて。今思うと、大手術後の半年も経っていないときに、脳の圧力も上がっていておでこに骨のでっぱりもあるような状態で仕事をしていたので、もう自分で判断する力はなくなっていた時でした。徹夜で描いて、見せて、ダメで、どうしていいのか本当にわからなくなって毎日泣いて帰っていました。今はもう頭の中は前のように働くのですが、人は休まなくてはいけない時期ってあるのだなとおもいます。

その当時は何でこんなに苦しいのかわからなくなっていたんです。必死に理由を探しました。つきあっていた人が悪いのか、実家を出たことが悪いのか、stofにいることが悪いのか、なにが悪いのかわからなくなってしまった。しかもその時髪の毛が何もない状態。何が悪いのかわからない状態で兎に角、死にたかった。
脳外科で自分の状態を話すと、メンタルヘルス科という精神病院にも行かされて、「地位とは何か」「名誉とは何か」というような質問を真っ白い部屋でひたすらに質問されて。「わからない」という答えのない質問を繰り返されて。「なんで答えを言ってくれないんですか」って言ったら「ルールだから」って。答えのない辞書ひいているみたいで凄く嫌でした。「結婚とはなんですか」「机とはなんですか」「ベッドとはなんですか」ってずっとそういう質問の繰り返し。「眠る為の道具ですかねー」「物置く為の道具ですかねー」って。それを半日間淡々と繰り返しされて逆に頭おかしくなります。

そんな状態で、bedsidedramaの私が手がけた最後のコレクションは、パタンナーの高瀬さんとstofの谷田さんに支えられながら1シーズンやり終えましたが「お金をもらってこの場に居続けても私じゃないや」って思ったんです。私はやっぱり作品が作りたい。でもその時の体力じゃ両方は出来ない。限界が来ていたんだと思います。それで辞めることにしました。

―前回バイクにはねられた時は親不孝だと思って頑張ろうと思った、アートに目覚めたと仰っていましたがそれは今回も同じですか

とにかく生きることしか考えていませんでした。「どうやったら生きれるか」って。死んだら私以外の人がみんな悲しむと思うけど普通に笑うことが出来なくなっていた。会社に通う途中にお花に水あげて微笑んでいるおじさんをみて「私、ああいう風にいつになったらなれるんだろう」って心から思っていました。それでブログとか書かなくなったんです。普通に生活することが一切できなかった。自分にとっての普通って何なのか忘れてしまった。シャワー浴びても何しても無気力で。

―それから作品を作ろうと思ったのはいつだったんですか

そういう時も作品はずっと作り続けていました。ぼうぜんとずっとつくり続けていました。

―そんな状態でも作品作りだけは続けてきた理由って何ですか

作品を作っている時が一番無になれる時だったんです。何もかも忘れて。退院して家に戻れてからはすぐに作り始めました。髪の毛が抜けてることも忘れて、全部忘れて作ることが出来る。でもはっと我に返って鏡とかみると駄目になる。作っていれば心が落ち着くので。
それで馬と虎を作ったんです。

―トラ、ウマですね

そういう意味でトラウマを作ったわけではないんですけど結果凄く合ったと思います。「本当に“トラウマ”になっちゃった」って。でも作り続けていなければ多分倒れるって思ったんです。発表する場所もないし、それが何のためになるかもわからなかったけど「作らなきゃ」って。全然お金にもならないし、何もならないけど「これをつくらないと生きていけない」って。
でもそういう生活をして家にいるとすぐ朝が来て、すぐ夜が来て本当に鬱病みたいになってしまう。鬱病になる症状って脳の経過のようで、みんなそうなるそうです。だから環境を変えればって言われて。それで自分で生活をしてみようと思って家を出たんです。
そしたらご飯もつくらなければいけないし、誰も何もしてくれない。買い物にいかないと食料も手に入らない。自分をそういう場におかないと私は駄目になるって思ったんです。
そうやってちゃんとした生活を自分で何もかもするようになってうつ病が治っていったんです。実家を出たのとbedsidedramaをやめたのが良かったんだと思います。あと髪の毛が生えてきたのも凄く重要です!!

―でもそういうことをしていると作品作りは出来なそうですけど

そうですね。だから作品は実家で作っていました。でもうつ病がなくなって本当に良かった。あの時は生きるのに本当に必死でした。

毛穴がなくて本当に不安で、それで皮膚科にいって「毛穴がないんですけどちゃんと診てもらえますか?おじさんみたいになってるんですけど」って。そのころは「はげ」という言葉に過敏に反応して「はげてん」とか書いているところを怯えていて・・・・。
禿げてるというか後ろだけ生えてる日本人形見たいな状況になっちゃっていた。
一度坊主に剃ろうと思ったら父母二人とも泣いちゃって。親孝行とか考えている場合じゃなかった。「(後ろだけ生えていて中途半端なので)悲しいから切ってよ」って言ったらお母さんが切りながら泣いていて。悪いことしているんだなって。その時佐藤家が乱れていました。お姉ちゃんはわれ関せずで一眼レフで私の頭部を記録だからって冷静に撮影してくれていましたが。今考えると凄く面白い。もっと写真を取っておけばよかったと思う。なかなかあんなにはげることもないだろうし。小鳥みたいな感じでした。
はじめは産毛しか生えてこなくて仕事どころじゃなかった。

―bedsidedramaをやめてからはずっと作品作りだけをやられているんですか

というよりは生き方をずっと考えています。まだ、抜け出ていないかもしれないです。また鬱みたいな状態になるのがとても怖いから、そうならない為に私は作り続けて逃れようとしているのかもしれません。
あと、会社をやめてしまったのでお金が入ってこなくなって、今は貯金でたべているので減る一方なんですよ。なので、せめて家賃と食費を稼げるくらいは仕事をしなくてはとおもい、今はホームページを新しくすることと、売り込むための資料をつくっています。わたしができることなら、やるので仕事ください!
と思っています。切実です。

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