Interview

nusumigui 山杢 勇馬 1/4

DIYな感覚で服を作り続けるファッションブランド『nusumigui』。ワークショップや参加型イベントを積極的に行い、ブランドを通してモノ作りの面白さを体感できる。

「みつぼしれすとらんのふれんちもいいけど、おかあさんのつくるあげたてのからあげをぬすみぐいするのもよくない? そんなことない?」

手を動かして偶然見つけてしまった奇妙なかたちや色、体の内側にこびりついた生活の証。服として纏ってみる。熱中して何かを追っかけてみたり、観察したり、想像を膨らませて、いたずら好きな子供のように興味を持ったことはとことん知りたい、振り向いて欲しい。ユニークな発想と表現が飛び出す、服を囲むドローイング等の豊富な仕掛けを生み出すnusumigui、山杢 勇馬氏の創ることの原点に迫った。

―まず過去の話からしていきましょう。元々はバイクレーサーを目指していたそうですね。

親がプロにはなれなかったのですがずっとやっていて僕も幼稚園からやっていました。中学生くらいには完全にバイクで生活するんだろうなと思っていました。
中学3年で関東六位になり、高校からアメリカ留学を考えて手配をしてもらっていたんです。日本ではあまり馴染みがありませんが向こうは中学生でも年間4億とか稼ぐ人もいるくらい人気のスポーツで毎回20万人も入るスタジアムが常に満員で契約金も1レース何千万とかも普通なんです。
結局9.11のテロもあり、チームの監督にも「なにがあるかわからないから高校だけはいっておけ」と日本の高校に行きました。高校2年生の時に関東一位になり3年生に全日本になれたんです。
その頃はHONDAがスポンサーで年間にバイク何台とか支給されて、ゴーグルもヘルメットもスポンサーがついていました。

―ヘルメット等にカスタムしたりしていたんですか?

ヘルメットは自分でデザインを書くと塗ってもらえるんです。後ろにミッキーの絵を描きたいといったら描いてくれる。それは自分で考えていました。今思うとそれが創作の原点かもしれないですね。

―バイク競技をやるにはお金もたくさんかかるんじゃないんですか?

群馬とか新潟まで行かないとコースがない。会場までの移動は車ですしお金は凄くかかります。学校も木曜から休んで金曜日にコースにいってテント張って。
チームに入れば車があるし、その中にトイレも、シャワーもある。宿泊施設もあったりする。でも小さい時は全部自腹ですし、ステップアップにつれてかかるお金も増えていく。周りにも親がお金を出せなくなってやめていった人も多いですし、親には凄くお金の負担をかけさせたと思います。

―結局バイクをやめたのは何がきっかけだったんですか?

けがをしてやめたんです。
ジャンプをして態勢を崩して膝が曲がって足が離れて着地してしまって膝の関節が3ミリ陥没で即手術。最初はもう歩けないと言われ絶望でした。半月板もほぼ全損でこのままずっと車いす生活を続けるかと思うとほんとに暗い気持ちになった。1年以上のリハビリを経て運良く結果的には治ったんですけど。

―でも競技は続けられないと。

テストで乗ったんですけど全然駄目でした。タイムはすぐに良いものが出たんですけど全体的にバランスが良くなかったんです。バイクに乗るまで2年もかかってしまって。今までそんなにブランクが空いたことがなかったので全部が衰えていたんです。
結果的に周りの期待から、プレッシャーから僕は逃げてしまった。競技をするにはサスペンション(バイクのバネ)でも200万とかかかるんです。そういったお金のプレッシャーもありました。自分にはそれに応える自信がなくなっていったんです。
けがのせいで長時間走れない。少しでも痛みだすと精神的には大丈夫だと思っていても何か駄目になる。コンマの世界だからそれだけで狂ってしまう。色々話して期待には添えないとやめてしまいました。

―その後はどうされていたんですか?

実家に戻り親の会社で働いていました。タイル貼ったりの内装の仕事です。
けがしたのは高3、バイクを諦めたのは19くらいだと思います。それから親の会社で20歳くらいまで1年程働いていました。

―ファッションに興味を持ち始めたのはそれからなんですか?

バイクには派手というか色々デコレーションをしていました。本当はバイクのチームジャージはHONDAなので赤を着ないといけない、でも僕は黄色やピンクとか関係ない色を着ていました。私服はださかったんですけど試合ではトータルコーディネートをしていました。ヘルメットはこの色でジャージはこの色みたいな。それで監督に怒られていて。そういう意味では自己表現をしていたのかもしれません。

バイクをやっていたころはNEW ERAのキャップとかStussy, SUPREMEとかのストリートブランドが好きでした。レース会場もスポンサーがDC SHOESだったりしたので他の人達もNEW ERA被ってDickiesにスニーカーみたいなそんな格好の人が多かったです。

実家は千葉なんですがスニーカーが凄く好きで上野に買いに行っていましたね。NikeのAir ForceとDUNKそれにAir Jordan。父がNikeのスニーカーを集めていて、靴をもらったりもしていたのですがその影響はあると思います。
親はそういう収集癖があって僕にも収集癖があるんです。僕の場合はどうでもないがらくたとかを集めるのが好きで。みんなからすればごみみたいなようなものがたくさんアトリエに転がっています。

洋服は古着を買っていました。最初はスニーカーと同じ上野で買っていて、だんだん興味を持ち始めて原宿だよねってことで原宿に行くようになりました。でも原宿に行ったものの全然お店のことがわからないので普通にWEGOやハンジロー等で買っていました。

その頃には毎日のように原宿に行くようになっていったんです。実家から電車で40分くらいで来れるので週5くらいで原宿にいました。最初はまだ親のところで働いていたんですけど徐々に減っていって最終的には仕事も辞めて。
でも何するわけでもなくただ原宿に来てウェンディーズとギャップ前でたまっていただけですね。たまっていると服飾の学校に行ってる人の友達がだんだん増えてきた。デニムをぼろぼろにしたりそのレベルなんですけどその時からリメイクはしていたんです。そうしたら知り合った友達に学生がやっているファッションショーのイベントに誘われたんです。最初は手伝いのつもりで行ったら制作の人が1人ばっくれて「山杢で良くない?」ってなって急遽僕もデザイナーとして参加することになったんです。僕は母が好きでやっていたので元々編み物が出来たんです。その時は冬物でマフラーを何個もくっつけて服にしたんです。それで作ったのが一番最初の作品かもしれないですね。ショーをやってみて味をしめたというか。服を作るのも楽しかったですし、ファッションショー自体にもの凄くどきどきしたんです。緊張と達成感。それですぐ自分でショーチームを作って自分のチームとしてファッションショーをやったんです。
”エスメラルダ”というチーム名、ジョジョ(の奇妙な冒険)のキャラクターから付けました。それをやっていたら他のチームの人から引き抜きがあったんです。”スパイス”というチームなのですがその当時学生の中で伝説のチームだったんです。そこから引き抜かれていざいってみたら今はセントマーチンズに行っている人だったり、アーティストの遠藤一郎さんと一緒に未来へ号に乗っている人だったり凄く個性的な人がいたんです。

そのチームでは一回ショーをやりました。日本の学生のショーってリアルクローズでもないし、装苑賞みたいなそんなのりだったのですが”和”をテーマに畳を引き、襖を作り1ルック毎に開いて出てくるみたいなショーをやりました。そのイベントがその時で6年やっていたんですけどその中でも一番良いと言われるくらい評価はされていました。でも今思うとちょっと恥ずかしいですけど。
チームの子に「ゆうさんは絶対にここのがっこうに言った方がいい」と言われたんです。二人ともここのがっこう行っていて。

でも僕は山縣さんも玉井さんも知らない、勿論writtenafterwardsというブランドなんか知るわけもない。当時は面接があったのですが「入る動機は?」って聞かれ「服作るのって格好いい」って応えたと思います。なにやってるのって言われて服作っていますというのが自分的に凄く格好良いと思っていて。文化とかバンタン等の専門学校に行くことも考えたんですけどお金を払えない。自分は長男なので親は会社を継いで欲しい、自分はそれを投げ出してしまったのでサポートも受けれない。自分でどうにかするしかないと思った時にいいじゃんと思ったのがここのがっこうだったんです。

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