Interview

spoken words project 飛田正浩 〜ファッションの純度を高めるという事〜 1/6

デザイナーは飛田正浩氏。1968年、埼玉県生まれ。多摩美術大学卒業。染織デザイン科在学中から様々な表現活動を<spoken words project>として行う。卒業を機に<spoken words project>をファッションブランドに改め、1998年東京コレクションに初参加。手作業を活かした染めやプリントを施した服作りに定評があり、現在、アーティストのライブ衣装や舞台美術、テキスタイルデザインなども手がけ、ファッションの領域を超えて活動中。
今回は飛田氏の思想的な背景もに触れながら、ファッションの世界のことやクリエーションのこと等様々伺った。

—本日はアトリエにご招待して頂きありがとうございます。今はお忙しい時期だと思いますが。

確かに忙しくはあって、この時期は10時から終電まで毎日アトリエで作業をしていますね。基本的に織り以外のプリントや染色はここで作っていて。工場で作ってもらうのもあるけど、結局ここで工程のフィニッシュをします。頼みたい加工をしてくれる工場にそれを頼むけど、納期に間に合う間に合わないもあったりするので、だったら内でやったほうがいいなということになり、大半はここでやります。うちでやらなければならないことが多いのです。今は。

—全てお1人で?

今スタッフは2人だけです。そこにインターンとアルバイト計4人で作っています。

—ご出身は埼玉と聞きました。

深谷ってところで群馬に近い場所です。ネギの特産地で有名です。

―高校は深谷の高校に通ったのですか?

埼玉栄東っていって、 あの時代に家から1時間かけて通学していましたね。今は共学なんですけど、僕がいた時は男子校でね。校則がクレイジーなぐらい厳しいのに、ヤンキーとかいて面白い学生生活でしたよ。

—幼い頃からファッションに興味を持っていたのですか?

うちの母親が文化出身で、小さい頃は母が縫った服を着てた。でもそれが嫌でね。違った意味で興味があった。その服が好きか?嫌いか?を考えさせられていた。

—どういったところが嫌だったのですか?

単純に人と同じアディダスが着たかったですね。でも今思うとそこにルーツがあるのかも。中学校のとき野球部で丸坊主なのに、実家から2時間かけて原宿に行っていましたしね。

―中学生の時からですか。

はい。小学校の卒業文集ではもう、デザイナーになるって書いていました。でも小中で野球していて、スカウトが見に来るぐらい優秀で周りは野球で進学するのって言われていたのだけど、でも中学生でも自分に対してシビアだから、自分でわかってしまうんですよね。野球の才能はそこまで無いなって。だから「スポーツで進学はしない」って内心思っていましたよ。其の頃から変な服着たり、制服を変化させていたかな。

—その頃から自分で創作していたのですね。

そんなにおおげさなものではないですが。
でも親父がとても厳しい人で、大宮で服買って帰ってくると、其の場で見せて、親父的によくないと、ハサミでその場で切られていた。今考えるとむちゃくちゃなんですけど、でも自然とハサミいれられたりって事には反発はなかったですかね。

—ハサミをいれられるぐらい奇抜だったのですか?

うーん。親父の不良の括りが広くてね。人と違う格好してる人は人の道をはずれるって考えだったですから。でも母はおもしろがっていましたけれどね。

—高校で野球はなさらなかったのですか?

それがね、いろいろ悩んでいた時に交通事故にあって。家族は野球がやれなくなった事で、すごく落ち込んでいると思ったみたいで、野球については周りも触れなくなるし、それまで寄ってきていた人達がクモの子散らすようにいなくなった。でも高校に進学してバスケット始めたんですが。

—それも激しい競技じゃないですか。

そうですね。笑
でも中学の頃からan・an、POPEYEを深谷の本屋で買い漁って読んでいました。当時のan・anとかPOPEYEってもっとファッションしてたからね。振り返ってみると、ませていた学生時代だったと思います。

—ご自身で事故は挫折として認識されていますか?

若干そうかな・・・。やっぱり今まであったものが無くなったから寂しいですよね。挫折感というよりは寂しかった。でもそれまでのように、進学は学力とスポーツを天秤にかけなくてよくなってすっきりしたというのもあって。

—そこからデザイナーに向けて進み出すのですか?

はい。そうです。
本当は高校進学もデザイン科がある高校に進みたかったけど、父親に反対されて。そこで母に言ったら、「大学進学のときに入りたかったら、もう一回(親父に)言ってみれば?」と言われたので進学は普通科にしました。

—当時は服とか今に繫がる創作はしていました?

たまに出てくるんですよね。絵も描いてあるし詩みたいのも書いてあるノートが。もう目も当てられないやつで。笑

—そして多摩美に行かれるんですよね。何故多摩美を選ばれたのですか?

高校三年間遊び倒して、それでもファッションやりたいって言ったら、進路指導の先生に「専門はどう?」って進められて。専門は2年間って認識があったから、それじゃ時間が足りなく無いか?って思ったから専門は無いなって。其のときもやっぱり父親に反対されていたけど、それでもやりたいって言ったら、「東京芸術大学に入るならいいよ」って。それなら芸大入ろうって、予備校に通い始めるんですよね。それで当然そこから勉強しなくなるんで、自然と美大しか選択肢がなくなったという感じで。

—ではどうして多摩美を選ばれたんですか?

最終的にはそこしか行くところが無かったのです。
これは今の自分に多大な影響をもたらしているのだけれど、僕芸大のために4浪しているんですよ。世間的には4浪?!ってなるけれど、美術予備校だと数人居ました。でも4浪目の時にも芸大落ちて、多摩美のテキスタイルに受かっていて、それまでも受け続けていたのだけど初めて受かって。ならいこうと。予備校時代は授業中に予定を潰してでも面白そうな展覧会や美術館いったり、予備校の先生が現役の美大生だから、その先生達に連れて行ってもらったりしてました。本当に自由で、映画一日見てたり、展覧会梯子したりして。その4年間が一番勉強していたと思います、いろいろなことを。其のときの4年間が自分のベースを作っていると思いますね。

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