Interview

spoken words project 飛田正浩 〜ファッションの純度を高めるという事〜 3/6

気がついたら親父もめちゃくちゃ応援してくれていて、父ちゃんに借金して十数万じゃ済まないショーをやり始める。演出もちゃんとプロの人にお願いして、モデルも一流の方、ヘアメイクも一流で。取り扱ってくれる店舗は1つだけしかないのに。笑かなり無茶な事をしていましたね

→spoken words project 飛田正浩 〜ファッションの純度を高めるという事〜 1/6
→spoken words project 飛田正浩 〜ファッションの純度を高めるという事〜 2/6

—卒業後の話に戻しますが、それからどのように活動を展開されてきたのですか?

予備校の先生しながら手作りでただ服作っていました。それである時その服を見た美容師の方が「作品撮りしないか」と言ってくれて。モデルやカメラマンが集まってきて、それでやってみたら、今度は4方向に広がって、そこからさらに広がっていきました。駆け出しだったそのモデルの友達が事務所の社長に僕の事を話してくれて、じゃあうちの若手だったら使って良いよって。そしたら美容師の方もどこまでできるかわからないけど、出来る限りイベントを手伝うよと言ってくれて。じゃあショーやろうよ、って。

—そこまで来るのに何年かかりましたか?

2、3年目かな。骨董通りに今は無いのだけど、ブルーというクラブがあって、今じゃ考えられないけれど入場料とって初めてショーをそこでやりました。DJとかVJも自分たちでやりました。そこからまた繋がりができてきて。でも其のときは自分の服を売ろうと思ってなかったし、どうしたら売れるのかも知らなかったし、知ろうとしていなかった。非常に糞生意気だったという事もあったので。『どこでかえるの?』って聞かれたら、『買えないよ。売らないよ。』みたいな。個人作品の延長線上だったですよね。

―ではどこから今のような展開にシフトしたのですか?

3、4回は良くも悪くも、お金のやりとりなしでショーをしていたんです。でもあれもしたいこれもしたいってことが増えて、それをやるにはお金が必要で・・・。売ってほしいって人にも始めは、一点ものですからということで、売らないことをよしとしていたのだけれど、やはり欲しいと言ってくれる人には売りたいなって思い始めて。
そういえばお金がかかるショーを始めた時に、東京コレクションデビューとメディアに書かれたことがありましたね。当時東京コレクションの時期なんて知らなくて、ちょうどこの頃やろうかなって恵比寿のカフェでやったら、面白いブランドあるって装苑が書いてくれて、そしたら取材してくれるところが増えて。でもその時期でもどこにも売ってないって状況が続いていました。それからいろいろな問い合わせをいただいて、ちゃんとアパレルとしてやろうかなって思い始めたんですよね。それで卒展から4年ぐらいかなぁ。700人とかショーに来ていただけるようになっていたので、気がついたら親父もめちゃくちゃ応援してくれていて、父ちゃんに借金して十数万じゃ済まないショーをやり始める。演出もちゃんとプロの人にお願いして、モデルも一流の方、ヘアメイクも一流で。取り扱ってくれる店舗は1つだけしかないのに。笑
かなり無茶な事をしていましたね。

—JFW(一般社団法人日本ファッション・ウィーク推進機構)からの援助もなしでそこまでの規模はすごいですね。

今と違って昔は、個人で面白い服を作って発表すると、4、5ヶ月後に記事ができて雑誌に載る。一人でやっていると、営業やエージェントがいないからうまく商売につながらなかったし、自分で営業して作っていたから、お金かけてこれだけの人がくるショーやるのに、手足が足らずいざ展示会になったら誰も来ないって状況が続いていました。じゃショー辞めようかってなるんですよね。

生地も工場に頼んでいて、自分で作業するっての封印していたんですよ。いわゆる一般のアパレルのやり方に無理やり当てはめていた。自分で大量生産する自信が無くて。なにしろ一点物人間ですから。なら、ショー辞めて、自分で布作るかって。本来の自分の作り方に立ち帰ろうと。自分で染めてひとつひとつ違うプリントでいろいろな技法を使って、ひとつの型のワンピースを30着ぐらい作った。そしたらあるエージェントが来てくれてそこから広がり始めたんです。当時は大手のセレクトショップさんもセレクトに積極的で、手作業で同じ物作れないっていったら、それで良いよって。
花があって、黄色であればいいよって言ってもらえました。一点ものの感じを大事にしているとエージェントが説明してくれて。其のときは非常にアパレルのふところの深さを感じた。

—其のときは東京コレクションには出さなかったのですか?

やらないかって言われていたけれど、登録にお金払わなきゃいけないということで迷ってるうちにいつも締め切りに。手前味噌な話ですが、やってやるぞって感じでショーやっていたし、完成度の高い良いショーが出来ていたと思っていたから必要ないかと。その頃の悩みはどんなに説明しても自分のやっている事が伝わらない。自分でプリントしているという事が信じてもらえなかった。「工場に出しているんでしょ?」と良く聞かれました。実際にはつなぎを着て1コ1コ自分でやっているのに。東京コレクションには、この服は当てはまらないのでは?とも考えていた。
いざ売れだしたら平川武治さんに「既製品作っているのか」って怒られてしまったりしましたが。笑

—当時の映像や資料は残ってないのですか?

残ってないです・・・。資料をちゃんととっておけばよかったですね。完成度が高いから、自分でも見たいんですよね。友達のクラムボンのドラムのダイちゃんに即興でドラム叩いてもらったり。とすごく気持ちの入ったショーを行っていた。

—ショーはそれっきりですか?

エージェントがついてからカフェサイズに戻り再開します。「いままでああいう風にプレゼンしていたのだから、なんかやりなさいよ」と言われて細々と続けるんですよ。

—販売方法がちゃんとできてから、小さいショーをはじめたんですか。

そう。地に足がついたんじゃないかなと。

—ここで少し話を変えますが、ショーで発表していたコレクションラインではなく、もう1つのラインである、セカンドラインについて教えてください。

毎回毎回新しい布が1回のコレクションで終わってしまうのはもったいないなと思って。それぞれのコレクションでとっておきたいテキスタイルをストックして着やすくデザインにしなおして、安い価格設定として立ち上げていて、パーマネントラインという名前のセカンドラインを作っています。パーマネントが楽かっていうとそうでも無いですが、でも広く多くのお客さんに楽しんでもらっているのはパーマネントラインかなとは思っています。

Comments are closed.