Interview

村田 明子 / MA déshabillé 3/7

マルジェラの服は”人から生まれているもの”Ing“の状態と言うか、現在進行形だけど一秒だけ止まっている状態、彼の服は人の素性からはじまっている

→村田 明子 / MA déshabillé 1/7

→村田 明子 / MA déshabillé 2/7

―好きなアントワープ系デザイナーっているんですか

勿論好きなデザイナーはいます。
アントワープに行って生活をしているとマルジェラってなんでああなったのかなとか、ドリスってなんでああなのかな、とか色んなことがわかるのです。
ああ、こういう女性像から始まったんだー、とか、当時のミューズの人とお会い出来たりするから。

―マルジェラをはじめとするアントワープ系デザイナー達の素晴らしさってなんですか

たくさんあると思うのですがマルジェラの服は”人から生まれているもの“、それに上品だと思います。”Ing“の状態と言うか、現在進行形だけど一秒だけ止まっている状態、それがマルジェラだと思います。ボタンが外れてこうなっているみたいのを形式化したのがマルジェラ。彼の服は人の素性からはじまっている。
それにベルギーの服は昔の貴族の服の要素が残っている。昔のそういった階級の人達はジャケットを自分では着ません。後ろから羽織ってもらうのです。そういう羽織らせてもらう服のフィーリングがベルギーの服には残っている。
ユニクロとかは明らかに、自分で着るものですよね。(笑)
後ろから優しく肩にかけてもらうような感覚や豊かさがルーツとしてあるのです。アントワープシックスの時代はお金を持っている人しかファッションに興味を持つ事自体があまりなかったと思うのです。だからそういう意味でデザイナー達は育ちが良い気がします。マルジェラの服もあれだけアバンギャルドでありながら凄くありがたみがあるし、その他のアントワープのデザイナー達にしてもそうだと思います。

―アントワープに行ってそういうデザイナー達がアントワープから生まれる理由はわかりましたか

何もないからというのも一つの理由だと思います。生地屋さんにしてもヴェリタスというイトーヨーカドーの生地コーナーくらいのものしかない。そこで買うか、アントワープのデザイナー達のストックセールで生地を買うくらいしかないのです。そうすると歴史を辿らなければいけなくなる。フリマに行って古着を解体したり、そういう意味で時間軸を通らないといけない。本も今は充実していますが昔は古本屋に行ってリサーチするしかなかった。そういう歴史から学ぶことは凄く多いんです。
ヨーロッパの割りには階級社会に対してアバウトな面もある。
同じテーブルに大金持ちと乞食が並んでいたりしますから。年齢もばらばらだし職業もばらばら、そういう人達がバーにたむろって、結局お金を持っている人が全部払うみたいな。そういうのが成り立っている街。それをやってもらったから自分も育った時にそうしたい。誰かが払ってくれれば良い、そんな街。
学校に枠をしぼって言うと、、「先生にタクシーで拉致される夢」だったり、ほんとに悪夢を良く見るようになる。人それぞれの感性なのにそれに点数つけて全校生徒の前で発表とかってどうなのってずっと思っていた。1年生から3年生は毎年年度末に点数をみんなの前で発表される。それによって人間関係も1夜にして変わったりもする。本当に苛酷でした。
そういうことを続けていく中で処世術を覚えるというのもあると思います。どうやって気に入られてどういうイメージで自分を見せることが出来るのか、とか道徳的にどうでもいい事をとても真剣に考えるようになるんです。

―アントワープのデザイナーって日本のデザイナーの影響を受けている印象が強いのですが、なぜそこに辿りつくのだと思いますか

ギャルソン、Yohjiの影響も強いと思いますが多分それ以前にゴルチェの影響が強いと思います。リンダもゴルチェを扱ったセレクトショップをやっていましたし、ヴェルサーチの影響もあったと思うし、その次にゴルチェ、その次にきたのがギャルソン、yohji。そもそもはマルジェラもゴルチェの影響が強い。ゴルチェはモードを地上に下ろした人。サンローランもプレタをやっていたけどそれはいわゆるクチュールの世界。ゴルチェはプレタの世界でミックスコーディネート的なことを初めてやったデザイナーです。そのゴルチェの影響をベルギーのデザイナー達も受けていたのですが同じことをやっていてもパリでは受けない。そこで新しい戦法としてとりいれたのがギャルソン、yohjiの手法だと思うんです。
勿論、日本とベルギーは共通する部分が多いと思うんです。灰色の日常というか。パリはパーティーでドレスアップしてみたいな部分があるけどベルギーはそれより日常を大事にみたいなそんな感覚。もっと精神性に重点を置くし、ゴシックの影響も強いと思うんです。マグリットやアンソールとかもそう。

―アカデミー在学中にはヴィヴィアン・ウエストウッドでも働いていたそうですね

3年生の夏休みにインターンとして働かせてもらいました。
ヴィヴィアンは大好きなデザイナーなんです。エレガントだし本人を前にすると自然に涙が出る、そんな大きいオーラが凄く好きでした。
短い間でしたが、インターンを出来て本当に良かったと思います。
布の切り方や、ピンの打ち方はそこで教わりました。

―村田さんの卒業コレクション“LESSON TO BECOME A LADY”は先生方にどのように評価されたんですか

ウォルターには「ファッションじゃない」って言われましたが、リンダは褒めてくれていたと思います。先生の意見が真っ二つにわかれたコレクションだったと思います。

―老人をモデルに使ったのも印象的でしたがあのコレクションで何を表現しようとしたんですか

アントワープの学生は自己主張の強い作品を作る人が多く、そういう”デザイン”に対して辟易としていました。
デザイナーの思惑のみでのむやみに膨らんだ袖とか、服にそういうデザイナーの”自己表現”を入れるのは気持ち悪いと思っていました。
今では、学生のうちには、自己表現の方法を色々思い切り試す事は必要だと思っていますけども、その時はそういうことに対して嫌悪感があった。ストイックに女性をより美しくみせる為のエレガントな洋服を着る人の要望で作りたいと思いました。

―なぜモデルが老人だったんですか

「ディオールの50Sやサンローランを本気で作ります」的なことがしたかった。
そういうお勉強がしたかったのです。
でもそれだけだと、今という時代性が欠けてしまうので、リアルタイムで50sとか当時のファッションを味わっているご老人達に「あなたが一番ハッピーだった想い出の中で着用されていた洋服を
今のあなたに似合うように私に作らせてください」って一人一人の御婦人のお家にいってアルバムをみせて頂いたり、ワードローブをみせて頂いたり、誰に憧れていたのかとかそういうのをインタヴューさせて頂きました。

―それを聞くと今のブランドのコンセプトに繋がっている気がしますね

そうですね。やって良かったです。1年という期間で仕上げなくてはいけないこともあり、到底完成度を誇れる物にはなりませんでしたが。
モデルが老人なのでいきなり怪我して救急車で運ばれただとか、病気になっただとか、、メンタルの面でも色々気を使わなければいけない。
「あのおばさんの方が綺麗に見える」とかの争いが始まったり、、と、本当に大変でした。
生きてきた中で培ってきた美の秘訣やトラウマ、15人、15種類のエイジングを若くはない身体も含めてみせて頂きました。
晴れの日の為に綺麗にしてダイエットしてサイズがあわなくなり逆にまた服作り直さなきゃいけないこともありました。ショーのバックステージに旦那さんが泣きながら来て「綺麗だったよ!」って言っていたのとかを観て、凄く大変でしたが本当にやって良かったと思います。

―2006年に卒業。その後MAを立ち上げるまでの4年間は何をされていたんですか。やりたいことはなかったんですか

何も考えていませんでした。私の卒業ショーでリンダがモデルで出てくれたり彼女には凄く好かれていました。彼女自体は黒しか着ないのにショーではピンクのコルセットが入った服を着てくれて出てくれたり。
それで、卒業後すぐに、彼女がアントワープのモード美術館(MOMU)でのスタイリングの仕事をくれたのです。MOMUのアーカイブを使って今期のプラダをRE styling すると云う、種明かし的なことをやって欲しいとのことでした。
美術館では服が傷むから普通はミックスしてはいけないのですがその時はドリスやラフ、昔のロココの服等をミックスしてやらせてもらいました。
オープニングの時にドリスが褒めに来てくれたのが嬉しかったです。

―当時のアントワープの学長リンダ・ロッパというとファッション界において伝説的な人物ですが彼女はエレガンスをわかっている人だと感じましたか

卒コレの際のリサーチで100人くらいの御婦人の個人のファッションヒストリーのインタヴューをとったことでわかったのですが、私がファッションを始めた時は既にギャルソンやYohjiがあった。だから逆に私はサンローランやシャネルが好き。でもリンダがファッションを始めた時には既にシャネル等があった時代で、彼女はそれがつまらなく感じていた。彼女にとってのファッションの目覚めはそこだからこそアバンギャルドなものに憧れるのだと思います。反対の現象が起きるというか。
だからリンダは最初は「明子なんなの!私はサンローランとか好きじゃないんだけど」みたいな感じだったのですが、、段々に自分のエイジングのことも気になり始めたのか、、私のやっていること、やろうとしていることをわかってくれて。
最終的には凄く好かれたんです。

―MOMUではどのくらい働いていたんですか

単発で仕事をやらせてもらっただけです。その仕事をやってしまったからこそ逆にスタイリングの仕事というものがわからなくなってしまいました。雑誌と美術館ではスタイリングの意味が本質的に異なるんです。美術館では6か月の期間を老若男女含めて理解してもらわないといけなかったし、3次元を隙なく作り込まなくてはいけない。逆に雑誌は2次元なので、すごくごまかしが効くし、
ある程度、モデルとフォトグラファーさえよければ、スタイリングって、スポンサーについてもらっているブランドの服を適当に組み合わせるだけ、、というか、、まあ、スポンサーが絡んでいなかったとしても、、ごまかせ過ぎて、リアリティーとかけ離れてしまうことに臆病になっていたのだと思います。
歴史と付き合う事が好きだったせいもあって、今でてる物にとことん感心がなかったし、時代を切り取る、、という重要性もあまりわかっていなかったのだと思います。
だから、スタイリストもどうでもいいかなーとか思いながら、アントワープにも少し飽きてしまって、パリに住みはじめたときに、ヴィオネ(VIONNET)のデザイナーがココサラキ(Sophia Kokosalaki)からマーク・オディベ(Marc AUDIBET)に代わるという話を聞いたんです。
パリにも洋服のことを凄く教えてくれた恩人のフランソワーズという方がいるのですがそのフランソワーズが私の卒コレの写真を見た時に「マークを紹介するから」って言ってくれて、初めてマークのことを知ることになったのですが、その半年経った後くらいにそのニュースを聞いて、マークがヴィオネをやるのであればそこのインターンからでも、働いてみたいと思っていました。

―それはなぜですか

彼のことを凄く尊敬していましたので。
マークは頬にキスするときにも、まるでシルクシフォンを触るかのようにする。本質的に女性に対してのリスペクトの強い人だし、インテリです。
ストレッチ素材を世の中に広めた貢献者は彼なのです。ヴィオネの文脈からのバイアス使いをストレッチファブリックに消化させたり、プラダのいまのプラダらしさを築き上げた陰の功労者も彼。彼は自分のブランドをやると売りの意味で成功しないのですが他のブランドで働くと凄い人。エルメス、フェラガモ、トラサルディ、グレ、のデザイナーなんかもやったりしていました。アライアさんが以前「ヴィオネをやれるのは世界に2人しかいない。僕かマークか」そう言っていたそうですが、それ位に彼は評価されている。今となっては、感覚的には鈍っているかもしれませんが彼が全盛の時にやっていたのはYohjiが登場する以前からYohjiを含んでいたし、布さばきが凄かった。結局マークはヴィオネのデザイナーになったんですけどすぐにやめてしまったので私は働けなかったのです。色んなことが白紙になりましたし、ファッションとの関わり方もわからなくなってしまっていました。

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