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POTTO/Yamamoto

POTTO / 山本哲也

1974年兵庫県生まれ。1997年文化服装学院卒業。
2001年にPOTTOを設立。2002年に中古のぬいぐるみを解体して洋服に仕立てたコレクションを発表。以降毎シーズン、コレクションを発表している。
2004年より東京コレクションで発表。
2007年にショップをオープン。
コレクションは全て、自身の手で、一点ずつ製作する。
恵比寿のPOTTO SHOPで、そこで作ってそこで販売してそこで暮らす、というやり方で、2007年以降は制作、発表をしている。

2011年12月に拠点を岡山県に移す。
2012年8月、山POTTO SHOPをオープン。

POTTO
701−1334 岡山県岡山市北区高松原古才8 tel 086−239−8951

HP:http://www.potto-web.com/

vacantで展示中とか著作権

ショー無事に終りました。皆さんありがとうございました。ほんとうに感謝してます。
コレクション制作記が全くできなかったので、これから後日談と、次回のコレクション制作記に入りたいと思います。
告知を忘れていましたが、VACANTで展示と販売、受注しています。明日までです、、、
どうぞ見に来てください。僕も13時~20時まで終日います。

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そして、突然著作権について考えてみた。基本的に僕は、コピーレフトです。
自分が作ったものは、どんどん使ってもらって構わないし、そのほうが、世の中の為にもなるかもしれない
と思っています。そもそも、自分の作品が自分だけの物だとも思わない。それは、
過去の誰かの作品に影響を受けたリ、周りの誰かと話したり見たりした上に成り立っているものだし、その元の作品もその更に前の何かがあるから成り立つわけです。著作権と言うのは、その1つの作品で可能な限りお金儲けをしたい人や企業の発想だと思います。
土地は地球の物なのに、ここは俺の土地だ!的な。。。
そんなことより、自分の作ったものが多くの人の目に触れそのことによっていろんな感情が生まれ、会話が生まれ、議論が生まれ、また新しい作品が出来上がるほうがずっと楽しいし、有益な事ではないでしょうか?
もちろんそれだけではなく、ある程度保護されるべきかもしれないけど、そのときには、CC(クリエイティブコモンズ)もあるし。
みんなが同じ考えではないので、確かに慎重に考慮すべきかもとも思う。
でもそれもご近所付き合い的な感じで、これどうですかね??とかじゃダメなんでしょうか?
著作権というものが先に一部の得する人たちに決められてあって、それが法律だから守れ!みたいなのはちょっとどうかなと。。そして、ものつくりする人がみんな著作権を喜んで受け入れてるわけではないです。著作権は決してスタンダードな考えでもないし、ましてや著作権者じゃない人がどうこう言うのは間違ってるように思います。
そういうののカウンターとして、ストリートがあるはずだとストリートが好きな僕は思うんだけど、、今や一部ストリート(ブランド)までもがコピーライトで、世の中お金お金お金なんですね。

でもなんといっても、監視されて規制される世の中より、もっともっとおおらかな社会で生きていきたいと思うのは僕だけでしょうか?
長いけど読んでみてください。これ自体完全に イルコモンズのふた からの転載です。
それがどうした?

でもそのことで、知らなかった人が知ることができ、賛成でも反対でも何か感じ、考えればそのほうがずっと意味があると思う。
みんな助け合って生きていけるような世の中が良いな。

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▼やっぱり芸術に(C)はなくてもいいと思う(その理由)

「大学でよく講演をやっていた当時、わたしはこういった。「みなさん、芸術に手を染めなさい。どんなにまずくても、どんなにうまくても、それでみなさんの魂は成長します」と。みんなが芸術をやるのはそのためだ。有名になりたいからでも、金持ちになりたいからでもない。自分の魂を成長させるためだ。美術批評をいろいろ読んで不満を感じるのは、それがみんなから絵を描きたいという意欲を奪うことだ。ダンスの批評も、みんなから踊りたいという意欲を奪うことだ。それじゃ、いけない。だれもが絵を描くべきだ。やってみると、なかなか気分のいいものだしね。だが、批評家にいわせると、斬新でないとだめ。まるで芸術にも進歩が必要だ、といわんばかり。冗談じゃない、進歩をめざす必要はない。芸術は一種のいたずらだ、美術家はいたずら小僧だ。実際にはなにも起きてないが、彼らはみんなを感情的に反応させようとする。芸術をまなぶのは、自分のたましいを養なうためで、出世するとか、有面人になるとか、金持ちになるとかのためじゃない。あくまでも人生の過程だ。芸術は、食事や、セックスや、運動と同じで、成長に不可欠なものだ。それによって人間は自分が何者かを発見できる。以前のわたしはよく聴衆に議論をふっかけたものだが、いまはもうそんな機会もない。もしそんな機会があれば、こういうだろう。「今夜、ひとつ詩を書きなさい。それをできるだけいいものにしていく。四行、六行、それとも八行。できるだけいいものに。ただし、その詩のことはだれにも話さない。誰にも見せない。やがて、そして、これ以上にならないと満足したら、原稿をビリビリ引き裂いて、ほうぼうのゴミ箱へばらばらに捨てれば、自分の努力の完全な報酬を受け取ったことがわかります」。それが創造という行為であり、そこから大きな満足が得られるわけだ。」 カート・ヴォネガット「すべて成し遂げた後の憂鬱」

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ヴォネガットはそこでうっかり付け加えるのを忘れたようだが、もし、その詩をゴミ箱に捨てずに、誰かにちょっとだけみせて、その「いたずら」がうまくいったら、人はもっと大きなよろこびを得られるだろうし、気分がよくないわけがない。魂だって余計にふくらむはずだ。さらに、もし、自分の知らないところで、その「いたずら」に誰かが反応し、そこからもっとおもしろい「いたずら」を生まれたら、それ以上ほかに何を望むことがあるだろう。それでこそ、生まれてきたかいもあれば、生きてるかいもあったというものだ。ヴォネガットの叔父がおしえるように、そういう瞬間にいうべきことばはひとつしかない。「これが幸せでなかったら、他になにがある」。

これはもう古典的というよりも、ほとんど原始的といってもいいくらいの、おそろしく保守的な芸術(音楽、文学、映画、演劇、つまりは、文化全般)についての考え方かもしれないが、それで結構、それで十分、というか、「そう考えるほうがずっと気分がいい」というのがイルコモンズの考え方である。芸術の権威や業界にとっては迷惑きわまりない考えかもしれないが、それで結構、敵で結構。よろこんで敵になりたいとすら思う。かつて岡本太郎は「法隆寺は焼けても結構」と云ったが、それと同様、音楽業界はつぶれて結構、マーケットがなくなって結構。名声や金儲け目的の芸術や音楽がなくなって、かえってせいせいするし、資源の節約にもなる。業界がつぶれても音楽はつづくし、マーケットが消えても、人間のやむぬやまれぬ衝動が消えるわけではない。音や表現を求める気持ちが消えるわけではない。YouTubeひとつみても分かるように、世界は音楽と芸術にあふれている。商品化されない音楽や芸術の方がずっとおもしろいし、ずっとゆたかだ。ブラジル、バルカン、コンゴ、ジャマイカ、インド、メキシコ、アラブ、キューバ、葬式、路上、謝肉祭、幼稚園、婚礼、あらゆる土地と時間に音楽と表現があり、芸術がある。業界やマーケットの存続より、芸術が万人にとって、自由で、解放的であること、そして、それによって大勢の人間の気分よくなり、たましいがふくらむことのほうが、ずっとずっと大切だと思う。そう思うイルコモンズは、音楽業界の敵であり、美術マーケットと美術アカデミーの敵である、がゆえにイルコモンズなり。

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C)は世のはじまりからあったわけではない。

「コピーライトは、活字テクノロジーの出現以前には、事実上、知られていなかった。中世の学者たちは、自分が勉強している「書物」の本当の著者がだれであるかについて、無関心であった。しかも彼らは明らかに自分の著書であるものにさえ、まれにしか署名しなかった。彼らは社会的に認められない奉仕者の集団であった。ところが、活字の発明は匿名というものものを追放し、文学的な名声をうけるという考えと、知的努力を私的所有物とみなすという習慣をうみだした。台頭してきた消費指向の文化は、書物を剽窃と海賊版から守ろうとすることや、ホンモノのレベルをつくることに関心を示すようになった。こうして、文学ないしはアート作品を複製し、発行し、販売する、独占的な権利である著作権が生まれたのである。」(マーシャル・マクルーハン「メディアはマッサージである」1967年)

はじまりのあるものにはかならず終わりがある。

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