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TAKUYA KIKUTA

菊田琢也 / TAKUYA KIKUTA

1979年山形生まれ。縫製業を営む両親のもと、布に囲まれた環境のなかで育つ。
2003年筑波大学卒。在学時にファッション研究を志す。
その後、文化女子大学大学院博士後期課程を修了(被服環境学博士)。
現在、文化学園大学・女子美術大学他非常勤講師。専門は文化社会学(ファッション研究)。
近著に「装飾の排除から、過剰な装飾へ 「かわいい」から読み解くコムデギャルソン」(西谷真理子編『相対性コム デ ギャルソン論』フィルムアート社2012)、「やくしまるえつこの輪郭 素描される少女像」(『ユリイカ』第43巻第13号、青土社2011)など。

E-mail: tak.kikutaあっとgmail.com

系のなかの女の子たち

以下、リライトなしで綴ります。断定的な口調および舌足らずな箇所はご容赦ください。
  
授業の課題で出したレポートを読み進めている。それは、「○○系とメディア」というテーマで書いてもらったもの。幾つかのクリアすべき条件は指定したが、基本的に何を書いても自由。むしろ好きなように書いてくださいと伝えた。
メディア論の講義なので、ファッションの生成や伝達にメディアがどのように介在しているのかについて考察してもらうことが第一の目的ではある。だが、本音を言うと、他者から「○○系」と括られるファッション表現のなかで、彼女たちは一体何を感じながらおしゃれをしているのかという等身大の声が聴きたかったのだ。
  
返答はさまざま寄せられた。赤文字系、青文字系に始まり、セレブ系、セレカジ系、サロン系、裏原系、草食系、ガーリー系、ゆるふわ系、、、。
簡単にまとめれば、それらの枠に収まろうとする自分と、それらの枠に収まりたくない自分という2つの相反する意識がそこにはあった。
  
社会学の理論を引っぱり出せば、例えばゲオルグ・ジンメルはファッションの役割を「同一化」と「差異化」として説明している。
よく知られたファッション理論だろう。ようするに、「集団への帰属」と「自己表現」だ。
まぁ、ジンメルの理論は階級社会における流行の話であって若干ニュアンスは違うのだけれども。
  
今日、ファッションは自己表現としばしば言われる。
だが、そこには絶えず他者への帰属という作用があることを忘れてはならない。
自己投影とも言えるかもしれない。
同時に、制服や「○○系」、「○○風」などのように、何らかの枠に収まろうとするファッションのなかにも、絶えず細分化していく自己表現というものが存在する。気崩すとか、アレンジとか、ミックスとか、「盛る」とか。
大切なのは、それら2つを切り離さずにファッションという行為を、理解することなのだと思う。
ファッションとは、社会におけるアイデンティティ形成のはたらきを、とても親密な距離から担っていたりする大切な行為だ。
  
  
レポートの感想に話を戻す。
系のなかに生きる彼女たちは、しばしばメディアや他者から1つのジャンルに括られることを嫌う。
全員ではないが、そのことに対して深刻に違和感を抱えながらおしゃれしている子たちは確かにいる。
  
ある子は、「ゴスロリ」という表現に対する嫌悪を示した。
「下妻物語」の桃子も、メイドのコスプレも、ロリィタ風のアニコスも、甘ロリもクラロリもカジュロリも姫ロリもギャルロリも、すべてが「ゴスロリ」で括られて語られる。
自分の個性を模索し、自分のスタイルを求め、辿り着いた結果の彼女だけの表現は、他者から容易く一言で括られてしまう。
彼女たちにとってそれはコスプレでも奇異なファッションでもなく、気丈な振る舞いだったとしても。
  
ある子は、ヴィジュアル系のなかの差異をめぐる闘争について経験談を踏まえながら説明してくれた。
バンギャの子のそれと、アニメファンやアニコスの子のそれとは全く違う。
神宮橋に集うからといって、「本橋」と「逆橋」では所属する世界観は全く違う。
「虜」と「ラー」のファッションを、ヴィジュアル系で一括りにしてしまうことで排除されてしまうものにもう少し目を向けたい。
そうした眼差しなくして、彼女たちが夢中になったファッションの熱気を本当に理解することはできないのかもしれない。
  
一方、コスプレにはコスプレのルールがある。
彼女たちは決められた場所で、決められた制限のなかで、決められたルールにそって、「コスプレ」という行為を楽しむ。
それらは、特定の空間に即して解されるべきであって、コスプレ的なものをあれもこれもまとめてアキバ系としてしまうのはどうなのか。
そこにあるルールを鑑みずに、雑誌や新聞、ウェブ上に切り取られたスナップに対して、そのすべてに奇異な目を向けるのは失礼だ。
そもそも、アキバ系のファッションとは誰がそう定めたものなのか。
  
話を飛躍させれば、例えば○○人は〜とか、○○のお国柄は〜とか、○○年代のファッションは〜という表現は頻繁に使われる。もちろん、そうした言葉によるカテゴライズは時として必要で、重要で、そうした言葉のなかに居場所を求める人たちもいる。
だが、そうしたカテゴライズのなかで排除されるマイノリティの声を、もう少し慎重に紡いでいくべきではないのか。彼女たちの声には、枠に収まろうとする自分と、それらの枠に収まりたくない自分との間で揺れ動く葛藤が切実に語られていた。
  
僕もそうだが、研究者側の人間はあれこれ理屈をこねてファッションを語ろうとする。
だが、本音を言えば、ファッションとは自由に楽しむものであってほしいと思っている。
みんなファッションが大好きでファッションを研究している。僕はそう思っている。
そしてその快楽とは着て楽しむものであり、観て楽しむものであり、作って楽しむものであり、それは人それぞれであって、だからこそ僕たちはファッションの魅力にこうまでも夢中になっているのではないのかと思う。
問題なのは、その熱気を当事者たちから切り離さずに語ることなのだと思う。
それは、観る側もしかり、着る側もしかり、作る側もしかり、語る側もしかり。
  
いつまでも彼女たちの声に耳を傾けていようと思った。
長文失礼しました。

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