まずは個人的な思い出から。
高校一年生の頃、文化祭でフォークダンスを踊った。
僕の通っていた高校は、近隣する3つの県立高校と合同で文化祭を毎年開催していた。
その合同行事の1つがフォークダンスだった。
その時使われた曲がなんとオアシスの「Digsy’s Dinner」。
ジャッジャッジャッジャッというギターリフが刻まれた瞬間、どうしていいか分からないくらいそわそわして胸が高鳴った。
「何て素晴らしい人生だろう。もし、君が僕をお茶に誘ってくれるならね」
それがオアシスを最初に聴いた瞬間だった。
はたして誰が選曲をしたのかは知らないが、その人には今でも感謝している。
オアシスの1stアルバム『Definitely Maybe』(1994)には、イギリス労働階級出身の若者が抱く希望と退屈な日常が描写されています。
「今夜俺はロックンロールスター」と歌うリアム・ギャラガーと、「ああ確かにお前らは火曜のボードウォークで歌う最低賃金のロックンロール野郎だ」と野次る聴衆。1991年8月18日マンチェスターのボードウォーククラブにて、オアシスの軌跡はそのように始まりました。
「簡単に抜け出せやしないこの街で、俺はこれまで生きてきた。毎日はあっという間に過ぎ去っていったさ」(「Rock’n’ Roll Star」)
その日常性がストレートに響いたからこそ奇跡のアルバムとして歴史に名を残すことになったのでしょう。
けれども、当時の僕にとってそれはただの青春群像そのものでしかなかった。
この曲、2分30秒しかないから10分で4人の女の子と踊れるんだ。
曲が鳴り始めたら手をつなぎ、ステップを踏む。
僕は真面目に練習なんて出ないものだから、そりゃあギクシャクさ。
でも楽しかった。
音が鳴り止むとしばしの沈黙。ギクシャクとした会話。しばらくして次の子とバトンタッチ。
それが、くるくるくるくるエンドレスリピート。
まさに青春だった。
その文化祭の後、友だちの家でレディオヘッドの『The Bends』と、アンダーワールドの『Dubnobasswithmyheadman』を聴いた。僕の人生のなかにブリットポップが一気に押し寄せてきた瞬間。
その一日がなかったら、僕は今のような人生は送らなかったかもしれない。
そうした意味で、96年は転換期だった。『Second Toughest In The Infants』が発売されれば聴きに走った。その冬には映画『トレインスポッティング』を観に行った。tomatoのグラフィックは最高にクールだった。
そして翌年、『OK Computer』が発売される。その頃にはすっかり感化されてしまっていた。
以後、僕のファッションは音楽と非常に結びついて体感されていくことになります。
その欲求が爆発するのは大学に進学してからのことです。
シャンパンの泡のようにはじける直前の、高校時代の思い出でした。
1995年、NME誌は次のように評しています。
「オアシスはこの時代最高のロックンローラー達になるだろう。人々の歩き方、話し方そして服装をも不可逆的に変えてしまう。未来は確約された。過去には既にない。これこそ今だ。聞くべし。ということなのである」
ときにミュージシャンは、偉大なロックスターとして神格化される。
だが、僕らの前に登場した彼らはあまりにも普通だった。
フレッドペリーのポロシャツもアディダスのジャージも、ベン・シャーマンのシャツもラベンハムのキルティングブルゾンも、マカロニアンのスニーカーもフィッシュテールパーカーも、それから着古したニットセーターも、数件古着屋をめぐれば簡単に入手できた。
以降、90年代音楽と「リアルクローズ」について。
Oasis: Digsy’s Dinner
いつもブログ楽しみにしています。僕もoasisの1st, 2ndは本当にたくさん聞きました。Definitely Maybe名作ですね
コメントありがとうございます!やや投稿ペースを上げて行こうと思ってます。自由に書かせて頂きますね