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TAKUYA KIKUTA

菊田琢也 / TAKUYA KIKUTA

1979年山形生まれ。縫製業を営む両親のもと、布に囲まれた環境のなかで育つ。
2003年筑波大学卒。在学時にファッション研究を志す。
その後、文化女子大学大学院博士後期課程を修了(被服環境学博士)。
現在、文化学園大学・女子美術大学他非常勤講師。専門は文化社会学(ファッション研究)。
近著に「装飾の排除から、過剰な装飾へ 「かわいい」から読み解くコムデギャルソン」(西谷真理子編『相対性コム デ ギャルソン論』フィルムアート社2012)、「やくしまるえつこの輪郭 素描される少女像」(『ユリイカ』第43巻第13号、青土社2011)など。

E-mail: tak.kikutaあっとgmail.com

You can’t always get what you want

音楽を聴くという行為はあくまでも個人的な体験である、と言ったのは僕の友人だ。
大江健三郎のタイトルを引用したその言葉は、何ものにも代え難い価値について示唆している。
例えば、ある子の鞄にはダッフィーのストラップが付いている。
それはお洒落なのか、流行りなのか、それとも思い出の品なのか。本当のところは彼女だけが知り得ること。
ファッションとは流行現象だ。けれども、そこには無数の「個人的な体験」が溢れているのではないだろうか。
  
下記に掲載するのは、冒頭の友人が書いた文章である。
これから不定期的に紹介していきたいなと思っております。何かしらの連鎖反応が生まれることを期待して。
  
  
  
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依田健吾による不定期連載「クローゼット・ファンクラブ」第1回
  
  
ファッションに興味のある人なら、一度はミュージシャン、あるいは音楽に密接なファッションに心を奪われたことがあるだろう(と思う)。
モッズ、パンク、ヒップ・ホップのように様式化されたものはもちろんのこと、現在もファッション・アイコンとして伝説となっているミュージシャンを挙げればきりがないし、知らず知らずのうちにそうしたポップ・ミュージックから派生したファッションを取り入れていることも少なくないはずだ。
  
我々にとって最もリアルなポップ・ミュージックであるロックが誕生してからもうすぐ60年が経とうとしているが、その中で最もキャリアが長いバンドといえばRolling Stonesだ。
初期リーダーであるブライアンのファッションセンスはもちろんのこと、ご存じミックやキースのカリスマ性で強引にかっこよく見せるスタイルも見逃せない。
彼らを見ると、我々が一生懸命コーディネートを考えたり、ファッション雑誌をめくったりする行為そのものが「才能のなさ」の証明となっているようで、ほんの少しだけ自分が惨めな気持ちになる(あくまで「ほんの少しだけ」だ)。
  
さて、そんな巨人二人とデビューから一貫して活動を共にしているチャーリー・ワッツという男をご存じだろうか。ジャズに影響されてドラムをはじめ、名実ともに世界一のロック・バンドであるストーンズに在籍しながらも「ロックは子供の音楽」と公言し、メンバーのファッション・スタイルがその時々の流行に合わせて変わっていく中、一人だけサヴィル・ロウ仕立てのスーツを着続けている(一時期長髪にサイケな服装だったこともあるが)彼こそが、音楽史上最もロックでダンディな男なのではないだろうか。
何より、ミックやキースと涼しい顔をして長年共に存在していること自体が、彼が並の人間ではないことを表している。
  
巷にあふれる「ロック風」ストリート・ファッションは若さの特権でいくらでも形だけは真似ることが出来るが、チャーリーのアナクロな英国紳士スタイルは仮に100万円つぎ込んでも真似は出来ないし、かといって年齢を重ねたからといって到達することが出来ないかもしれない。
ぱっと見は「渋いおっさん」と見せかけて、チャーリーのそれはかなりハードルの高い着こなしである。
  
90年代のストリートもゼロ年代のデザイナーズもファストファッションに駆逐され、さらにそれさえもITに追いやられつつある現在、「消費されないファッション(言葉自体に矛盾があるが)」を確立していくことも必要なのではないかと個人的には考えている。
  
上記のようなファッションの「古きよき時代」を知る私たちは、今こそチャーリーを目指す時なのかもしれない。
(文:依田健吾)
  
  
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「(You can’t always get) what you want」は、コーネリアスの曲です。1994年、小山田圭吾はローリング・ストーンズの名曲をカッコに括ることで、別モノへと置き換えた。この「引用」という手法は、渋谷系から裏原系へと引き継がれていくわけですが、今日の日本ファッションについて考える上での、1つの足掛かりになるのではないでしょうか。

音楽を着る02 Cigarettes & Alcohol

3本線が入ったアディダスのジャージによれよれのデニム、履き潰したスニーカーといった風貌の若者たちが、オアシスのライブ会場に多数押しよせたという意味でなら、NME誌の予言は当たっているのかもしれない。
  
  
音楽好きの若者たちにとって、いつからかジャージにデニム、スニーカーというのが1つのスタイルになった。それに、ギターケースを背負えば完璧なロック青年の出来上がり。
ロカビリーでもパンクでもヘビメタでもない新しいロックファッションの成立だ。
排他的に装いたいときはベースボールキャップを目深に被り、愛嬌を出したいときはボンボン付きのニット帽で外しを加える。ジャージの中はもちろん、Tシャツ×ロンTの重ね着。あるいは七分袖のラグランTシャツ。
ピンバッチや缶バッチ、それからステッカーやバックステージパスなんかを、リュックやエフェクターケースにベタベタ貼っては自分の趣向を表現する。
音へのこだわりはヘッドホンで演出。ギターロックと言えばGRADO。開放型につき、音漏れにはご用心を。
  
  
いつ頃から音楽と「ジャージ(トラックジャケット)」が結びつくようになったのでしょうか。
  
僕がぱっと思いつくのは、ボブ・マーリーがミズノのジャージやブラジル代表のサッカーユニフォーム(アディダス製)を着ていた例なのですが(きっと他にもありそう)、1970年代後半イギリスで、ボクシング用品を製造していたロンズデール社がザ・ジャムにステージ衣装を提供した辺りに1つのルーツを見出せそうです。
ファッション・アイコンは、もちろんポール・ウェラー御大。
フレッド・ペリーのポロシャツやロンズデールのトレーナーといったアイテムはそれ以前のモッズ・シーンにおいて既に着られていましたが、彼の登場によって「音楽」のイメージが強くなったのではないでしょうか。ラコステのポロシャツやアディダスのカントリーなどもそうしたアイテムですね。
  
ポール・ウェラーのファッションは、1979年からの「ネオ・モッズ」や1980年代にリヴァプールやマンチェスターを中心に登場した「カジュアルズ」と呼ばれるフーリガンたちのスタイルに影響を与えていきます。
また、1970年代頃からノーザンソウルのシーンで、アディダスのサッカーTシャツを着て踊る若者たちが登場し、その2つは、80年代のクラブやレイヴ会場へと流れ込んでいく。
その過程で、「ジャージ」というアイテムが次第に定着していったわけですが(たぶん)、決定的だったのは、ストーン・ローゼズの登場ではないでしょうか。
  
いたって普通なのに、どちらかと言えばダサいのに、なぜかそれが不思議にかっこいいと思わせる彼らの風貌は、マンチェスター・サウンドと呼ばれる音楽と共に多くの若者に影響を与えていきます。
とくにイアン・ブラウンが着るアディダスのジャージ。
ジャージにデニム、スニーカーというロックファッションの成立は、彼によるところがけっこう大きいのではないでしょうか。
ちょっと雑になってしまいましたが、こんな感じかなと思います。
  
  
さて、オアシスのギャラガー兄弟がアディダスのジャージを着る背景もここら辺にありそうです。
  
例えば、前述の「カジュアルズ」は、イタリアやフランスのスポーツウェアを好んで着る小綺麗なサッカーファンと、「スカリーズ」や「ペリーズ」と呼ばれるまさしくフーリガン!といった不良っぽいスタイルとに大きく二分することができます(昨年のロンドン暴動で話題になった「Chav」は後者の文脈に属する)。
  
マンチェスター・シティ(国際色の強いユナイテッドではなく)の熱狂的なサポーターで知られるノエル・ギャラガーのファッションはもちろん後者に属します。
オアシスのEP「Cigarettes & Alcohol」のジャケットには、アディダスのジャージにデニムという風貌のノエル・ギャラガーが写っているのですが、その姿は曲中で歌われる「結局、シガレットとアルコールがすべて」という心情を体現しているかのようにどこか野暮ったい。
  
その一方で、ブラーのデーモン・アルバーンが着るのはフィラのジャージ(「Girls and Boys」のPV)やディーゼルと思われるニット(「Beetlebum」のPV)。彼がイタリア製のアイテムを選択する趣向には、初期モッズのイタリアン・スーツや前述のカジュアルズ(小綺麗な方)に通じるものがありそうです。
それから、スラセンジャーのジャージ(「Parklife」のPV)を選んだりするあたりにファッションへのこだわりが感じられます。着こなし方もなかなかお洒落です。
  
周知の通り、オアシスとブラーは「ブリットポップ」と呼ばれる現象のなかで、労働階級出の「ワーキングクラスヒーロー」と中産階級出でアートスクール卒の「インテリアイドル」というかたちで対照的に語られるわけですが、そうしたメディアが半ば煽って作り出したかのような説明よりも、個人的な趣向が反映されるファッションというものから両者の差異について考えてみたいなぁと思うわけです。
  
  
余談ですが、同じ頃アメリカでは、ヒップホップ・シーンが浮上し始め、オールド・スクールと呼ばれた若者たちを中心に音楽とスポーツウェアが結びついていきます。こちらはコンバースのワンスターやアディダスのキャンパス、それからナイキのエア・ジョーダンといったバスケ寄りのアイテムが人気を集めていくあたりが興味深いです。

London Bye Ta Ta

1週間ほどロンドンに行っておりました。観光というより、調べ物です。
  
ロンドン大学の図書館を使わせてもらったのですが、見知らぬ本棚を眺めるというのはそれだけでとても楽しいものです。学生たちものんびりと勉強しており(ときに館内でスナックを広げ、コーラを飲む!)、学ぶことに対してリラックスしている環境がとても良いなと思いました。
束の間のキャンパスライフを満喫してしまいました。
  
繁華街に戻れば、地下鉄では青年がニール・ヤングばりの声で歌い(彼とは滞在中に2回も出会った)、H&Mのフロアではスタッフと小さな男の子が突然ダンスバトルをおっ始める(前回渡ったときも見た。これは恒例行事なのか)。
テート・モダン前を流れるテムズ川では、ストリート・ミュージシャンが膝下まで浸かり、フィードバックギターを鳴らす(こちらはルー・リードを彷彿とさせる歌/語り。渋い)。
滞在した日は、ちょうどセントパトリックデーで、いい年をした男たちが緑のハットを被って陽気に合唱しながら電車に乗り込んでゆく。
週末のパブからは夜遅くまで4つ打ちのビートが鳴り響き、それは夜が更けていくに連れ、複雑な変則ビートへと変化していった。
この街は音楽に溢れている。
  
今回の目的の1つは、『THE FACE』誌の創刊初期の号を収集することでした。
『i-D』『BLITZ』と共に1980年に創刊された『THE FACE』には、その当時の若者のカルチャーライフが生々しく記録されています。「The World’s Best Dressed Magazine」なんてサブタイトルが付いているのですが、音楽やクラブ情報が中心の「スタイル誌」です。
創刊号の表紙はザ・スペシャルズのジェリー・ダマーズ。ネオ・モッズや、ザ・クラッシュという新しい肖像を獲得したルード・ボーイなどのパンク以後のロンドン・カルチャーが取り上げられています。なぜかフィル・ライノットが日本の高校生たちと記念撮影した写真が掲載されていたりも。
誌面は、次第にニュー・ロマンティックスやクラブ・カルチャー色が強くなっていくのですが、当事者たちのインタビューと彼らをスナップした写真などからその微細な変遷を紡いでいくことができ、その一冊一冊がとても貴重な資料です。
  
この時期に頻繁に取り上げられていた人物に、デヴィッド・ボウイとジョン・ライドンがいます。
彼らはグラムやパンクといった現象との関連ばかりで注目されがちですが、80年代のクラブ・カルチャーのファッションに多大な影響を与えていたりもします。
また、ヴィヴィアン・ウエストウッドも同様で、この時期の活動がとても面白かったりするのですが、ファッション史のなかではけっこうスルーされてしまうんですよね。
ヨウジやギャルソンのいわゆる「ぼろルック」も、こうした80年代カルチャーとの関連のなかで紹介されていたりもします。ファッション史で語られる定説とはちょっと違う文脈での消費のされ方ですよね。
日本のピテカン周辺の人たちやトンガリキッズがコムデギャルソンを着ていたのと似ているなぁと思いました。
  
テート・モダンでは、草間彌生展が開催されていて、水玉模様の赤いバルーンがいくつも浮遊するエントランスロビーで、僕はフランス人と思われるロリィタ集団と遭遇した。
ミラールームに入り込む彼女たちは、まさにワンダーランドの住人のようで可愛らしかった。
また、同館では寺山修司の短編フィルム上映も開催されており、海外の地で見る日本の前衛芸術は、むしろアンディ・ウォーホルのファクトリーや、サイケデリックムーブメントなどと奇妙なほど結びついて感じられた。
売店に向かうと、monoマガジン別冊の『古着屋さん』のバックナンバーや、昨年パルコで開催されていたデニス・モリス写真展のカタログ『A BITTA PIL』を発見。文化出版局から出ている『パターンマジック』の英訳版が平積みされていたりと、とても新鮮なかたちで、日本の文化に触れることができました。
  
「London Bye Ta Ta」はデヴィッド・ボウイの曲です。
『スペース・オディティ(40周年記念エディション)』のボーナストラックなどで聴くことができますが、個人的には『Bowie at the Beeb: Best of the BBC Radio 68-72』の音源がおすすめです。
「さよならロンドン。ここは奇妙で、若い子たちの街だよ」
  
David Bowie: London Bye Ta Ta

音楽を着る01 Champagne Supernova

まずは個人的な思い出から。
  
高校一年生の頃、文化祭でフォークダンスを踊った。
僕の通っていた高校は、近隣する3つの県立高校と合同で文化祭を毎年開催していた。
その合同行事の1つがフォークダンスだった。
  
その時使われた曲がなんとオアシスの「Digsy’s Dinner」。
ジャッジャッジャッジャッというギターリフが刻まれた瞬間、どうしていいか分からないくらいそわそわして胸が高鳴った。
「何て素晴らしい人生だろう。もし、君が僕をお茶に誘ってくれるならね」
それがオアシスを最初に聴いた瞬間だった。
はたして誰が選曲をしたのかは知らないが、その人には今でも感謝している。
  
オアシスの1stアルバム『Definitely Maybe』(1994)には、イギリス労働階級出身の若者が抱く希望と退屈な日常が描写されています。
「今夜俺はロックンロールスター」と歌うリアム・ギャラガーと、「ああ確かにお前らは火曜のボードウォークで歌う最低賃金のロックンロール野郎だ」と野次る聴衆。1991年8月18日マンチェスターのボードウォーククラブにて、オアシスの軌跡はそのように始まりました。
「簡単に抜け出せやしないこの街で、俺はこれまで生きてきた。毎日はあっという間に過ぎ去っていったさ」(「Rock’n’ Roll Star」)
その日常性がストレートに響いたからこそ奇跡のアルバムとして歴史に名を残すことになったのでしょう。
けれども、当時の僕にとってそれはただの青春群像そのものでしかなかった。
  
この曲、2分30秒しかないから10分で4人の女の子と踊れるんだ。
曲が鳴り始めたら手をつなぎ、ステップを踏む。
僕は真面目に練習なんて出ないものだから、そりゃあギクシャクさ。
でも楽しかった。
音が鳴り止むとしばしの沈黙。ギクシャクとした会話。しばらくして次の子とバトンタッチ。
それが、くるくるくるくるエンドレスリピート。
まさに青春だった。
  
その文化祭の後、友だちの家でレディオヘッドの『The Bends』と、アンダーワールドの『Dubnobasswithmyheadman』を聴いた。僕の人生のなかにブリットポップが一気に押し寄せてきた瞬間。
その一日がなかったら、僕は今のような人生は送らなかったかもしれない。
そうした意味で、96年は転換期だった。『Second Toughest In The Infants』が発売されれば聴きに走った。その冬には映画『トレインスポッティング』を観に行った。tomatoのグラフィックは最高にクールだった。
そして翌年、『OK Computer』が発売される。その頃にはすっかり感化されてしまっていた。
  
以後、僕のファッションは音楽と非常に結びついて体感されていくことになります。
その欲求が爆発するのは大学に進学してからのことです。
シャンパンの泡のようにはじける直前の、高校時代の思い出でした。
  
  
1995年、NME誌は次のように評しています。
「オアシスはこの時代最高のロックンローラー達になるだろう。人々の歩き方、話し方そして服装をも不可逆的に変えてしまう。未来は確約された。過去には既にない。これこそ今だ。聞くべし。ということなのである」
  
ときにミュージシャンは、偉大なロックスターとして神格化される。
だが、僕らの前に登場した彼らはあまりにも普通だった。
フレッドペリーのポロシャツもアディダスのジャージも、ベン・シャーマンのシャツもラベンハムのキルティングブルゾンも、マカロニアンのスニーカーもフィッシュテールパーカーも、それから着古したニットセーターも、数件古着屋をめぐれば簡単に入手できた。
  
以降、90年代音楽と「リアルクローズ」について。
  
Oasis: Digsy’s Dinner

音楽を着る00 D’you Know What I Mean?

「ファッションと音楽」というテーマでしばらく書いていこうと思います。
  
『ヒップ アメリカにおけるかっこよさの系譜学』という本があります。アメリカ文化のなかで「ヒップ」(かっこいい)という概念がどのように生成されていったのかについて紐解いていった本です。詩人ウォルター・ホイップマンからザ・ストロークスまでこれでもかというくらい様々なヒップスターたちが登場します。
あまりのボリュームと情報量に圧倒され、読むのに気合が入りますが、読後感はたいへん満足します。
「かっこいい」とは何かについて、何となくわかったような気がします。
  
この何となくわかったという感覚が、実は重要な気がするのですが、というのは「かっこいい」というのはきわめて主観的な概念であると同時に、それでいて何となく共有される概念だからです。
ようするに、わかる人にはわかる。マニュアル化され過ぎたら意味がない。
著者ジョン・リーランドいわく、「ヒップスターのためのマニュアルはない」。
  
  
そしてこの「わかる人にはわかる」という感覚こそが90年代カルチャーにおいてとても重要だったのではないかと思うのです。
例えば、誰かのCDラックを見る。
そのなかに、オアシスの『Be Here Now』が1枚だけあったらあまりかっこよくない。ファーストとセカンドが揃っているときそれは意味を持ちます。
また、US盤とUK盤の2枚とも所有したい。というのは、ジャケットの一部が違うからです(左下の数字が、21or26)。
さらに、それはクリエイション・レコードのものでなければなりません。申し訳ないのですが、ソニーでもエピックでもダメなのです。
それから、オアシスの隣にはブラーではなくて、ハリケーン#1、ティーンエイジ・ファンクラブ、アドラブルなんかを置いておきたい。その流れで、ジーザス&メリーチェイン、ライド、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、スロウダイヴといったシューゲイザーものへと連ねていきたい。プライマル・スクリームの『Sonic Flower Groove』や、オレンジ・ジュース解散後のエドウィン・コリンズのソロを数枚といったエレヴェイション・レコードものがあったらもう最高です。
  
以上、全くもって僕の個人的なこだわりでした。盤が違っていても音質にほぼ違いはありませんし(あるものはある)、50音順に並べればいいじゃんかとも思いますが、そこはこだわりです。モノの並べ方で何かが語れる気がしていたのです。
  
と、こんなふうに90年代は棚に並べてあるCDや本のタイトル、そしてその並べ方を見ればその人がどんな人なのか何となくわかりました。モノの所有、配列の仕方そのものが、重要なコミュニケーション・ツールとなっていたのだと思います。
この感覚はあらゆるカルチャーがデータベース化し、あるいはクラウド化されていくなかで次第に薄れていったのではないでしょうか。データベース化とはある種のマニュアル化だと僕は思います。そればかりになってしまうとあまり面白くない。
ちなみに僕のiTunes、目下のところオアシスの隣にはNujabesとOFWGKTAが並んでいます。
まあ、それはそれでいい気もしますが。
  
  
僕がファッションに夢中になったのは90年代後半からです。その90年代についてまずは書いていきたいと思います。
僕にとってファッションとは見た目以上に、その背景にある物語を楽しむものでした(素材や仕立てに惹かれるようになるのはもう少し後のことです)。
ナンバーナインのミルク&クッキーTシャツとかのモチーフものはもう最高でした。ただのTシャツを着ているのではなくて、アンディ・カウフマンの思想そのものを着ているような気がしていました。
原宿の街を歩いていて、おぉ、あの人デヴィッド・ボウイの73年UKツアー時のTシャツ着てるぞ!かっこいい!とか興奮したものです。
  
ファッションの背景を知ることが、もう楽しくて楽しくて仕方なかったんですね。
その頃はいつでもどこでも買えてしまうようなアイテムではダメだったのです。当時、ファストファッションが流行っていてもたぶん着なかったと思います。
多くの人には何の変哲のないものであっても、わかる人にわかれば良かったのです。
その感覚をもう一度語ってみようと思いました。
  
「D’you Know What I Mean?」はオアシスが1996年に歌った曲です。
この言葉は、当時のオアシスというバンドのかっこよさの全てを語っています。
「なぁ、わかるだろう?」
  
Oasis: D’you Know What I Mean?
  
  
補足。
「かっこいい」と同様な概念として、日本には「かわいい」というものがあります。
こうした感覚的な概念を紐解いていくことは、とても大切なことだと思うのです。

系のなかの女の子たち

以下、リライトなしで綴ります。断定的な口調および舌足らずな箇所はご容赦ください。
  
授業の課題で出したレポートを読み進めている。それは、「○○系とメディア」というテーマで書いてもらったもの。幾つかのクリアすべき条件は指定したが、基本的に何を書いても自由。むしろ好きなように書いてくださいと伝えた。
メディア論の講義なので、ファッションの生成や伝達にメディアがどのように介在しているのかについて考察してもらうことが第一の目的ではある。だが、本音を言うと、他者から「○○系」と括られるファッション表現のなかで、彼女たちは一体何を感じながらおしゃれをしているのかという等身大の声が聴きたかったのだ。
  
返答はさまざま寄せられた。赤文字系、青文字系に始まり、セレブ系、セレカジ系、サロン系、裏原系、草食系、ガーリー系、ゆるふわ系、、、。
簡単にまとめれば、それらの枠に収まろうとする自分と、それらの枠に収まりたくない自分という2つの相反する意識がそこにはあった。
  
社会学の理論を引っぱり出せば、例えばゲオルグ・ジンメルはファッションの役割を「同一化」と「差異化」として説明している。
よく知られたファッション理論だろう。ようするに、「集団への帰属」と「自己表現」だ。
まぁ、ジンメルの理論は階級社会における流行の話であって若干ニュアンスは違うのだけれども。
  
今日、ファッションは自己表現としばしば言われる。
だが、そこには絶えず他者への帰属という作用があることを忘れてはならない。
自己投影とも言えるかもしれない。
同時に、制服や「○○系」、「○○風」などのように、何らかの枠に収まろうとするファッションのなかにも、絶えず細分化していく自己表現というものが存在する。気崩すとか、アレンジとか、ミックスとか、「盛る」とか。
大切なのは、それら2つを切り離さずにファッションという行為を、理解することなのだと思う。
ファッションとは、社会におけるアイデンティティ形成のはたらきを、とても親密な距離から担っていたりする大切な行為だ。
  
  
レポートの感想に話を戻す。
系のなかに生きる彼女たちは、しばしばメディアや他者から1つのジャンルに括られることを嫌う。
全員ではないが、そのことに対して深刻に違和感を抱えながらおしゃれしている子たちは確かにいる。
  
ある子は、「ゴスロリ」という表現に対する嫌悪を示した。
「下妻物語」の桃子も、メイドのコスプレも、ロリィタ風のアニコスも、甘ロリもクラロリもカジュロリも姫ロリもギャルロリも、すべてが「ゴスロリ」で括られて語られる。
自分の個性を模索し、自分のスタイルを求め、辿り着いた結果の彼女だけの表現は、他者から容易く一言で括られてしまう。
彼女たちにとってそれはコスプレでも奇異なファッションでもなく、気丈な振る舞いだったとしても。
  
ある子は、ヴィジュアル系のなかの差異をめぐる闘争について経験談を踏まえながら説明してくれた。
バンギャの子のそれと、アニメファンやアニコスの子のそれとは全く違う。
神宮橋に集うからといって、「本橋」と「逆橋」では所属する世界観は全く違う。
「虜」と「ラー」のファッションを、ヴィジュアル系で一括りにしてしまうことで排除されてしまうものにもう少し目を向けたい。
そうした眼差しなくして、彼女たちが夢中になったファッションの熱気を本当に理解することはできないのかもしれない。
  
一方、コスプレにはコスプレのルールがある。
彼女たちは決められた場所で、決められた制限のなかで、決められたルールにそって、「コスプレ」という行為を楽しむ。
それらは、特定の空間に即して解されるべきであって、コスプレ的なものをあれもこれもまとめてアキバ系としてしまうのはどうなのか。
そこにあるルールを鑑みずに、雑誌や新聞、ウェブ上に切り取られたスナップに対して、そのすべてに奇異な目を向けるのは失礼だ。
そもそも、アキバ系のファッションとは誰がそう定めたものなのか。
  
話を飛躍させれば、例えば○○人は〜とか、○○のお国柄は〜とか、○○年代のファッションは〜という表現は頻繁に使われる。もちろん、そうした言葉によるカテゴライズは時として必要で、重要で、そうした言葉のなかに居場所を求める人たちもいる。
だが、そうしたカテゴライズのなかで排除されるマイノリティの声を、もう少し慎重に紡いでいくべきではないのか。彼女たちの声には、枠に収まろうとする自分と、それらの枠に収まりたくない自分との間で揺れ動く葛藤が切実に語られていた。
  
僕もそうだが、研究者側の人間はあれこれ理屈をこねてファッションを語ろうとする。
だが、本音を言えば、ファッションとは自由に楽しむものであってほしいと思っている。
みんなファッションが大好きでファッションを研究している。僕はそう思っている。
そしてその快楽とは着て楽しむものであり、観て楽しむものであり、作って楽しむものであり、それは人それぞれであって、だからこそ僕たちはファッションの魅力にこうまでも夢中になっているのではないのかと思う。
問題なのは、その熱気を当事者たちから切り離さずに語ることなのだと思う。
それは、観る側もしかり、着る側もしかり、作る側もしかり、語る側もしかり。
  
いつまでも彼女たちの声に耳を傾けていようと思った。
長文失礼しました。

First Rays of The New Rising Sun

1月4日、アントニオ・ネグリのインタビュー「新しい民主主義へ」(朝日新聞に掲載)を読む。
その夕刻、メゾン・マルタン・マルジェラよりハッピー・ニュー・イヤーのメールが届く。
その深夜、昨年たいへんお世話になった方から新年のご挨拶を頂く。そこには初日の出の写真が添えられてあった。
その写真を眺めながら、僕はジミ・ヘンドリックスの『ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン』を聴いた。
それから数日後、しんしんと雪が降り続く山形の実家にてこの文章を書いている。少し長めにとった正月休みの最終日。
こうして穏やかに新しい年を迎えられたことに、まずは何よりも感謝したい。
遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
  
『ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン』は、27歳という若さでこの世を去ったジミ・ヘンドリックスの未完の作品です。彼が残したメモに基づくかたちで、レコーディング・エンジニアのエディ・クレイマーたちによって編集され、ヘンドリックスの死後から27年という月日が経った1997年にリリースされました。
アメリカのSF作家・ルイス・シャイナーの小説に、『グリンプス』(1993=1997)というものがあるのですが、そのなかで「幻のアルバム」としてこの作品が登場します。
この小説は、ステレオ修理を仕事とする主人公が、ビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」や、ビーチ・ボーイズの『スマイル』といった不完全なかたちで残された作品を過去に戻って完成させるというストーリー。
ヘンドリックスの同アルバムもその1つとして登場するわけです。
そこに、不慮の事故で急逝した父との間に残されてしまった過去の確執を修復しようとするストーリーが交錯していく。
  
『グリンプス』に登場する「幻のアルバム」のほとんどを、今では実際に聴くことができます。
ビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」(フィル・スペクターのアレンジではないもの)は2003年に『レット・イット・ビー…ネイキッド』というかたちで、ビーチ・ボーイズの『スマイル』(ブライアン・ウィルソン名義ではないもの)は2011年にリリースされています。前述したように、『ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン』もそうですね。
ようするに、この小説のテーマである「実現されなかった過去の可能性の創造」といったものは、現実の世界において制作者の死後や解散後に残された関係者やファンたちの強い熱望によって次々と実現されていったわけです。
そう考えると何だか感慨深いものがあったりしますね。
  
さて、ファッション・デザインにおいて同じような試みをした人物としてマルタン・マルジェラの名を挙げることができるのではないでしょうか。マルジェラは昔の雑誌広告などを参考に、過去の時代の服をそのまま再現するシリーズ(たしか1994-1995AW頃)などをやっていたりするわけですが、そうした仕事のなかで僕がとくに気になるのは「アーティザナル・コレクション」と言われるものです。
「手仕事により、フォルムをつくり直した女性と男性のための服」と定義されるそれは、素材として使われる古着や服飾品あるいはオブジェなどの一度作り上げられた既存物に、衣服という「第二の人生」を与える。
そしてそれは、かつてそうだったフォルム(例えば、素材とされる手袋やネクタイあるいはトランプ)やそれらが使用されてきた時間の経過が「痕跡」としてはっきりと残されたまま繋ぎ合わされてできた、言うなれば「集合体としての衣服」です。
何だかうまく説明できませんでしたが、僕はそこに無数に内在する「実現されなかった過去の可能性」というものを感じ、妙に惹かれてしまったりするわけです。
  
1月4日付けの朝日新聞に、イタリアの政治哲学者であるアントニオ・ネグリのインタビューが掲載されてました。僕はそれを読み、彼がしばしば取り上げる「マルチチュード」という哲学的概念との関連から、マルジェラの仕事と多様性の時代についてしげしげと考えた正月休みでした。
ネグリの言う「マルチチュード」とは、「多様な個の群れ」を意味します。
  
皆さま、本年もどうぞよろしくお願いします。

Hello Goodbye

はじめまして皆さま。
この度、こちらでブログを書かせて頂けることになりました。
これから少しずつ、ファッションについて考えたことなどなどを書いていきたいと思っております。
まだまだ未熟ではございますが、たまにお付き合い頂けると幸いです。
どうぞよろしくお願いします。
  
「君はサヨナラと言い、僕はハローと言う」
ビートルズに「ハローグッバイ」という曲があります。
僕はけっこう早起きで、たいてい4時過ぎに起きては朝の数時間を仕事に当てるような生活をしているのですが、そうすると日曜の朝にテレビのある番組から陽気なこのメロディが流れてくる。 なかなか心地よい日曜の朝の始まりです。
今週にハローと言い、先週にサヨナラする。僕の一週間はこうして始まります。
  
この曲は1967年に発表されたもので、ビートルズの『マジカルミステリーツアー』に収録されています。
ただ、この曲彼らが当時次々と発表していった楽曲群のなかではあまり評判のよろしい方ではない。 なぜかというと、当時の実験的な楽曲と比べると歌詞も構成もあまりに単調だったからです。 さらに、シングルとして出す際にポール・マッカートニーが作ったこの曲がA面に起用され、ジョン・レノン作曲の「アイアムザウォーラス」がB面に回されたことでどうもジョンが気乗りしない発言をしていたりもする。
「まったくたいした曲じゃないよ。マシなのは最後のおふざけで演ったアドリブのところだけさ」。
  
その姿は、PVのなかで見てとれます。演出なのかどうかは定かではないですが、ポール以外の3人はどうもやる気がない(ように見える)。まぁ、「相反する2つの要素を組み合わせる」というこの曲のテーマとはぴったりなわけですが。
さて、このPVは4ヴァージョン残されています(最初にポール監督で撮影された3つと、後に編集された1つ)。そのなかで、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットで見られる衣装を身に纏った4人と、デビュー当時の62年頃のモッズ風の襟無しスーツを身に纏って手を振る4人が登場するヴァージョンがあります。
簡単に言うと、その頃の彼らはデビューの際に与えられた「アイドル像」から逃れるために、「サージェント」という架空のバンドを今度は自己プロデュースすることで作り上げるんですね。つまり、このPVではそうした2つのビートルズ像を衣装を着替えるということで表現しているわけです。
まぁ、当たり前のことと言えば当たり前のことなんですが、僕はそうした行為が妙に気になってしまうわけです。
  
彼らは『サージェント』の撮影の際に、舞台衣装専門のバーマンズという店へ行ってこのカラフルな衣装を制作した。その時に提案されたのが、これまでのような4人揃いのスタイルをするのではなく、それぞれのカラーを決めるということ。ポールは水色、ジョンは黄緑、ジョージはオレンジ、リンゴはピンク。何だか戦隊ものみたいですが。1967年以降にそれぞれの個性が楽曲のなかで発揮されていく様子が、彼らの服装に見事に表れています。
この頃のビートルズの私服が一番面白い。それぞれ思い思いの服装や髪型をしている(PVのラストでもその様子は見ることができます)。まぁ、結局その3年後にビートルズは解散してしまうわけなのですが、彼らが解散に向かっていく経緯について、ビートルズに関する本を読んだり、楽曲を聞き比べたりすることよりも、彼らの服装の変化を見たときに僕は妙に納得してしまったんですね。
  
僕はそんなことをふだん大学で研究し、たまに学生の前で話したりしています。ファッションを追っていくと、時代の変化を読み取ることができるし、個人の思想の変化なども追えるのではないかということです。
自己紹介を兼ねて、ご挨拶に何を書こうかと考えていた時に、今週もテレビからビートルズの「ハローグッバイ」が流れてきました。陽気な気分になった僕はそのままの勢いで書いてしまったというわけです。回りくどいご挨拶で申し訳ございません。
  
ビートルズの服装の変化を追っていくと1960年代イギリスのファッションの変化が面白く見てとれるのですが、その辺についてはまた今度書ければと思います。ちなみに、ビートルズは1967年にロンドンのベイカー・ストリートで「アップル・ブティック」という洋服屋をやっていたりします。わずか1年足らずで閉店してしまうのですが、彼らもきっと服好きだったんですよね。
では、また次回。
「どうして君はサヨナラと言うんだい?僕はハローと言うよ。ハロー、ハロー。」
  
The Beatles: Hello Goodbye