こんばんは。
4回目のブログです。
どこどこのパーティーに行ったとか、みなさんその辺を書いていらっしゃることが多いので、
それも大変面白いのですが、僕は僕らしい何を書くべきかと色々悩んではいたのですが、あまり悩み過ぎてもしょうがありませんので徒然なるままに書かせて頂くのがよいかなと最近思うようになりましたので、つらつらと書かせて頂きます。
さて、僕は学生生活がおわる頃まで民芸運動に影響を受けていました。ウィリアム・モリスのArts&craftsというよりも、もっと日本人のど真中にある柳宗悦さんや河井寛次郎さんら、そして現代の柳宗理さんらの思想の影響をたいへん大きく受けておりました。他に多大な影響を受けていたのは現代音楽と建築なのでしたが。
音楽と建築はさておき、現代に生きている僕はやはり現代に生きている柳宗理さんのいう民芸の精神にたいへん興味がありました。
ざっくり言うと、父親である宗悦さんと息子の宗理さんの思想的な違いは、宗理さんの言う機械などによる大量生産を民芸として認めるという点でした。宗悦さんをはじめとする初期の民芸思想の方々はそのあたりにかなりの違和感を持たれてそうですが、宗理さんはアノニマス(無名性)であること、民衆の生活に根ざしていること、という宗悦さんが主張した民芸の主要な特性の他に、そこそこの値段であること、美しいデザインであること、大量生産できることというコンテキストを加えました。
学生であった僕も、たくさんの美しいデザインのプロダクツが民衆の生活の中で生き生きと輝き、使われる様を夢想しただけで、不思議と幸せな気分になるのでした。たとえばガブリエル・シャネルが「わたしは、ただ、世の中から美しくない物を減らしたいだけ」と言ったように、人々が安価な値段で美しいものを日々使い暮らして行く様を考えただけで幸せな気分になるのでした。
そんなことを思いながら、モード学校の一学生であった僕は、Louis VuittonやHermesなど、高級ブランドの他に、誰もが買える安価で、デザイン性の高い衣服を作ることがこの世界の次の時代に必要なことではないのかと自然と考えるようになったのでした。生活の中に美しいものが溢れた世界、それはきっとすばらしい。。
ですが、高級ブランドの値段が高いというのにはそれなりに理由があります。あたりまえですがプロダクツのクオリティや、その生産にかかるコストがそれです。先日COMME DES GARCONSの川久保さんが朝日新聞のインタビュー言っていた通り、良い服にはそれ相応の手間や職人の仕事が関わっており、それ相応の価格になるのはあたりまえのことなのです。良い服は高い。数千円のスーツなんて、普通に考えたらあり得ない、もしかしたら誰かがその安価な生産の間で泣いているのかもしれない。
とはいえ、人々の生活には良い服が必要です。今日、そのあたりのモヤモヤを少しずつ解消しつつあると思われがちなのがファーストファッションのメーカーとして知られるブランドでしょう。みなさんがご存知のように、超一流のデザイナーを迎えてデザインをさせ、且つ、大量生産することにより価格を大きく下げた商品を打ち出し続けています。シンプルで洗練されたデザイン、低価格、それなりのクオリティ。数年前に僕が夢見ていたことが既に現実になってきています。
しかしながら、このような、かつては僕が理想としていた時代が続いている中、本当は満足するはずなのに相当の違和感があるのは何故なのだろう、この気持ちはなんなのか?それは、そもそもファッション(モード)の下部構造である、”他者とは違う自分でありたい”という人々の欲望が置き去りにされている点でしょう。
他人とは違う自分でいたい、と皆が思うとき、その人々の欲望は瞬時に並列化され、矛盾が生じます。しかし、その矛盾は、周りの人々ととの差異は求めるが、大きく変わった装いはしたくない、という意識と拮抗し、その矛盾は意識の外へ追いやられてしまいます。それが20世紀までのファッションでした。その矛盾を見ないふりをしながらも、人々は衣服で着飾るという振る舞いに一喜一憂してきました。それは決して愚かなことではないでしょう、それは我々が考える動物である人間たる所以でもあるからです。
しかし、ファーストファッションのクオリティ(価格、デザインを含める)が飛躍的に向上した今日、他者と違う自分でありたいという人々の欲望が希薄になってきている気がしています。値段が安くて、デザインも機能も優れた衣服、ある意味、理想郷を絵に描いたような世界。それが少しずつ現実になてきたとき、この虚しさは、やはり人々がファッションで自己主張をする機会が減ってきているからでしょう。ファッションのそれはゲームのようなものかもしれません、しかしながら、我々の文化でもあります。
世の中がマキシマルに向かっているときはミニマルに向かいたい。皆が憂鬱なときはハイテンションで速くありたい。世界が興奮状態のときは理性的でありたい。そんな振り子のように、モードの最先端、先の先で新しい官能を作るクリエイターは進んできたはずです。少なくとも僕はそう思います。
理想を追い求めるあまり、なにかが置き去りにされてしまった。それがゼロ年代のファッション界かもしれないと今思ったりしてしまいます。
柳宗理さんが近代に考えて来られた民芸の精神を孕んだプロダクツデザインの世界と呼応するファッションデザインの世界、それは、それほど幸せな世界ではなかったのかもしれない(純粋なプロダクトデザインは別ですよ!文脈がまるで違うので。。)。それが今ふと帰宅途中に考えていたことです。しかし、このchangefashionに集まっている方々は面白い、新しい時代の匂いがする。僕らはここから何か新しいものを始めなければいけない。理想郷の先にある物、“お客さんのため”の先にあるもの。モードが紡いで来たものは今日の世界ように真面目っ子でないと信じたい。もっと自由で偶有性に満ちた世界だと信じたい。