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HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て、京都精華大学ファッションコース専任講師。
ファッションの批評誌『vanitas』編集委員、ファッションのギャラリー「gallery 110」運営メンバー、服と本の店「コトバトフク」運営メンバー。

e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
twitter: @ihsorihadihsa

『vanitas』の情報は↓
http://fashionista-mag.blogspot.com/
http://www.facebook.com/mag.fashionista

デザインとしてのファッション

僕は普段大学のファッションコースで教えているのですが、今日はそれに関連する話を少しだけ。


僕がファッション教育において考えていることは、ファッションをデザインとして捉えてもらいたい、それに尽きます。

このような言い方をすると、「いやいや、ファッションデザインということばもあれば、ファッションデザイナーという職業もありますよね」と反論されるかもしれません。でも、ファッション教育をデザイン教育として捉えている学校はとても少ないように感じるのです。

僕はファッションデザインの話をするときに、よく料理にたとえます。それは料理もデザインだからです。というのは、端的に言えば料理には理屈と論理があるからです。

たとえばぶり大根をつくるとき、大根を米のとぎ汁で煮るというのがオーソドックスな方法です。その行為の意味を聴かれて、「え、なんとなく」とか「その方がかっこいいじゃないですか」とか答える料理人はいませんよね。あるいは、見た目にインパクトがあるからといって、あるいはかわいいからといって、ショートケーキに納豆をかけたりラーメンにマヨネーズをかけたりする料理人もいません。


でも、学校の卒業制作や学生向けのコンテストでは、納豆ケーキやマヨネーズラーメンのような「これどこで誰が食べる(着る)の?」というものばかりが作られているように感じます。そこには論理も理屈もない。

僕は学生(あるいは若い人たち)にファッションもデザインだと捉えてほしいのです。服をデザインするときにいきなり「自己表現」をするのではなく、誰がいつどこでどのように着るためのものなのか。すなわち、5W1Hのようなことをまず考えること。デザインはそれを使う人のためにするべきであって、デザイナーの自己表現のためではない。それが前提だと思うのです。


「自分の好きなものを作りなさい」では良いデザイナーは育たないと思っています。もちろん、ごく一部の勘のいい人はそういう教育方針でも自分で考えて成長することができるでしょう。しかし、学校教育は普通の人が普通の仕事をできるようにするのが第一義なはずです。そうするとやっぱりきちんとした方法論を教えるべきだと思うのです。他の多くの分野と同じように。


デザインという行為はそれほど特殊なことだとは思いません。誰もが料理をできるのと同じように、方法さえ身に着ければ誰もがデザインをすることができるはず。そんなことを最近よく考えています。


もし上記のような考え方に興味を持ってくれた人は是非ブルーノ・ムナーリの『モノからモノが生まれる』を読んでみてください。僕の授業の教科書的な本です。

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