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DAIJIRO MIZUNO

水野大二郎 / Daijiro Mizuno

1979年、東京生まれ。Royal College of Art 博士後期課程修了、芸術博士(ファッションデザイン)。

京都造形芸術大学 ファッションデザインコース非常勤講師/同大学ウルトラファクトリー・クリティカルデザインラボ ディレクター/
DESIGNEAST 実行委員/FabLab Japan メンバー/
ファッション批評誌 FASHIONISTA(仮)を蘆田裕史と共同責任編集の元、2012年2月に刊行予定。

Twitter アカウント:@daijirom / @mag_fashionista / @narumizu2011 / @designeast01
Webサイト:www.daijirom.com

Fashionistaについて ー批評はケチをつけることじゃないー

こんにちは、水野です。

今回は、蘆田裕史くんと一緒に刊行にむけて準備しているファッションの批評誌についてお話したいと思います。

彼のブログにもあるように「端的に言うと、批評という行為はある作品の評価を言語化すること」と僕も思います。その積み重ねが歴史をつくる。

歴史をつくる、なんて大層なことをいわずとも、いろいろ議論をしていくこと。そうすることから、デザインを支える「文化」そのものがつくられることも可能になるからです。「美しいデザイン」をどうやって、なぜ、なにをもってしてつくることが可能なのか?たくさんの服が毎年生み出され続けるわけですから、「どこらへんはどういい」とか「どういう歴史が生み出された」という話をしてもいいと思います。

そそうすれば、デザイナーはなぜ、何をどうやって表現するのかがより明確になってくるはずですし、力強い「独自性」を発揮するための土壌がより多くの人のために作られると思います。

例えば「脱構築」ファッションとか「ミニマル」ファッションとか、怪しい言葉がファッションの中には存在します。建築や美術から言葉を拝借してやってきたとしても、独自の読み替えがそこにはなされているはずです。それをどう捉えることができるのか。それがどう衣服のデザインにおいて展開されたのか。「脱構築」=ズレてる、左右比対称、穴が開いている、ボロい、とか、「ミニマル」=装飾が少ない、シンプルな形をしている、ワントーン、とか。そんな程度ではない、とするなら何なのか?そんな程度の話なら、ロラン・バルトが「モードの体系」でもいっているような話に収斂してしまう。そうではなくって、何がいえるのか。

蘆田くんの以前のブログには、平川さんのたてた評価項目を明解にした
文章があります。5つの評価ですね:

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1)クリエイティビティ:
時代観と美意識をバランスで診てそのデザイナーのオリジナリティを読む。
2)クオリティ:
どれだけその服が美しくクオリティ高く出来上がっているか。作られた服に対する気持ちのクオリティと技術面からのクオリティ。
3)イメージ:
デザイナーが感じる時代観とその雰囲気や気分をどのようにイメージングしているか?そのアイディアと独創性。
4)ウェアラブル:
着れる服であること。時代が求める機能性や汎応用性をも含めた着れる服であること。ここで僕はファッションはアートでないという視点を重視。着る人の心や気分そして環境や風景とのバランスを感じ読む。
5)プライス:
当然ファッションもビジネスであるため、モノに見合った価格が大切。ここではどれだけそのデザイナーたちがプロであるか?を読む。身勝手な自己満足におぼれたデザイナーはここで落ちる。
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インスピレーション源になった要素群がどのように構成され、現れたのか。何に、なぜ興味があったのか。それがなぜ今開示されることになったのか。どのようにそれが成立したのか。

たとえ直感によって制作が支えられたとしても、どのような経緯から直観的にアイデアが生まれたのかを説明することは可能のはずです。

そういう事を考えてみた時、「過去」にどのような人がいて、どのようにデザインを考えついたのか、ということと比較したり、参照したりすることは当然なのではないでしょうか。それが「学ぶ」ことなのではないか。「学ぶ」ことを可能にするには「歴史」が必要で、それをつくるための言葉やアーカイブが必要になるわけです。

もちろん、職人のように「しゃべらず、かたらず」の世界で見よう見まねからスタートすることも可能ですが、僕も含めて海外でファッションを学んでくると、求められるのは、独自の「発想の中軸」の言語化です。その上で、衣服をプロとして制作、販売するのであれば、そこに「生産」「流通」「利用」などの観点から、作りやすさ、持ち運びしやすさ、着やすさなど、様々な点も考慮にいれるべきなのは明らかです。

しかし、それは「何を目的としているのか」を比較すると上位概念ではない。かといって、それをないがしろにすればデザインは誰の手にも届かない。
もっといえば、デザインとはそもそも何なのか。「人間の生活に肯定的に貢献する一連の道具や事象」なんでしょうか。極めて上位の概念すら欠けたまま、なんとなく進んではいないか。それなしにアートかファッションか、とか、どうやって線引きをすればいいのかもよくわかりません。

とにかく、「どうつくるか」と「何をつくるか」は、vice versaの関係であり、「なぜつくるか」によって支えられていると思うのです。そして、情動/論理の両義的な存在としての知的なアイデアを言葉として捉えたい、と個人的に考えています。

昨今では「ギルティ・フリー」かどうか(フェアトレードなど、産業における倫理的な課題)なども評価の軸に乗ってきていると思いますので、その点は社会との密接な関係をもつプロにしか扱うことができないところなのかもしれません。そんなことも含め、衣服は単体で表現される「世界観」だけでなく、背後に潜むデザイナーの「思考」自体も楽しむべきものになりつつあると感じています。知的な、というのは論理的である、というだけでなく、情動的でもあるということですし、それもまたvice versaな関係です。

それこそが「ハイ・ファッション」と呼称されるようなデザイナーによる作品とファストファッションに代表される大量生産品とが異なる点であるといえるのではないでしょうか。

だとすれば、私たちは今、こんな社会状況下にあって、ケチをつけあっている場合ではないと思うのです。批評=ケチをつけることではなく、こうしたらもっと面白くなるかも!とか、ここがこういう理由で面白い!とか、すごくポジティブなものにもなるはずです。それは、ジャーナリスティックな視点ではなく、より厳密にすることも出来るはずです。

かくかくしかじかの理由から、この作品は面白い!と批評することで初めて、「あー、そうか、そういう考え方で制作することもできるな」と、人にインパクトを与えることが可能になります。「すでに見たことがあるからダメ」「こんなの私好きじゃない」では、「じゃあどうすればいいの?」で止まってしまう。それ以上に何かを引き起こすために、一緒にどうしようか?と考える状況をつくることが何より必要ではないでしょうか。

従って今必要な批評とは、どうやったらより面白いデザインをつくれるだろうか、をみんなで考えて、よりよい状況をつくるためのものだと思っています。「ケチ」つけても何も始まらないです。何かを、なんらかの意思をもって実践した上で、トライアル&エラーの反復から修正していくような、おおらかな批評の在り方が今必要ではないでしょうか。

否定的な批評よりも、具体的にどうしたらよりよくなる可能性があるのか。肯定的な批評ができないなら、できないなりのアイデアの提示があってもいいと思っています。

島宇宙の中での不毛な争いだけは、日本のためになりません。
言い方を変えるだけで、大変有意義な意見になるかもしれませんから、
言葉にする時はポジティブなインパクトを生むことを前提としたいなと
思っています。

そんな事を考えつつ、Fashionista創刊に向けて動いています。

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