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DAIJIRO MIZUNO

水野大二郎 / Daijiro Mizuno

1979年、東京生まれ。Royal College of Art 博士後期課程修了、芸術博士(ファッションデザイン)。

京都造形芸術大学 ファッションデザインコース非常勤講師/同大学ウルトラファクトリー・クリティカルデザインラボ ディレクター/
DESIGNEAST 実行委員/FabLab Japan メンバー/
ファッション批評誌 FASHIONISTA(仮)を蘆田裕史と共同責任編集の元、2012年2月に刊行予定。

Twitter アカウント:@daijirom / @mag_fashionista / @narumizu2011 / @designeast01
Webサイト:www.daijirom.com

「感じる服、考える服」展で感じて考えたこと

こんにちは、水野です。
9月23−25まで開催したDESIGNEASTは、無事開催し、滞り無く終えることができました。今年も様々な形でデザインする状況を話し合ったりすることができ、来場頂いた皆様に感謝申し上げます。

さて、今回のブログは初台・オペラシティギャラリーにて現在開催中の「感じる服、考える服」展を観覧させていただいた後、考えたことを書いてみようかと思います。日頃大変お世話になっている京都造形芸術大学准教授の成実弘至先生も開催のキュレーションに関わられた展覧会ということもあり、大変楽しみにしていた展覧会でした。

この展覧会は、まず会場にはいると空間構成を設計された中村竜治さんによる「穏やかで暴力的」な白い宙に浮く梁に目を惹かれました。目線が白く設定されていることで広い空間を分節しているのですが、材質が鉄骨で頭をぶつけると痛いですし、くぐるのが多くてしんどかったです。養老天命反転地のことを考えるとそこまで危険ではないかもしれませんが、ドストエフスキーよろしく「壁に頭をぶつける」ことなく方向転換がよりスムースになっていたら最高でした。

建物自体を設計した建築家vs建物の施設課や消防局vsキュレーターvs展示空間の建築家vs展示するファッションデザイナーvs観覧者、というややこしいそれぞれの思惑があるのは間違いないと思います。中村さんといえば、西武百貨店や2010年のデザインタイド、はたまた青山のコスチュームナショナルなど、少ない手数によって空間を規定していく建築が多いように感じています。この展覧会の空間は、訪れる人は梁をいっぱいくぐらなければならず、頭を注意しないといけないという意味で不親切ですが、展示空間や展示作品にとっては開放的であると同時に閉鎖的でもあるし、空間の規定の方法としては面白い試みだと思いました。

さて、梁をくぐれば作品です。本展では多様な方向性をもつファッションデザイナーが「感じる服、考える服」の2つの軸に沿うような形で選定されているのかなと思います。展示企画はその意味で作家の方向性をリスペクトしたやり方になっているように感じました。服飾史の文脈から設定されたキュレーションではないという意味では、京都服飾文化研究財団がこれまでやってきたキュレーションとは異なるというところもあって面白いかなと思います。

ただ、美術館という場所でファッションデザイン展をすることは難しいです。ファッションデザインを現代美術の文脈で捉えようとする試みなどもこれまでにありましたが、ファッションデザインの「デザイン」の部分をまずしっかり捉えていく必要性が重要なんだろうなと思いました。これまで「ファッション」とは何か、という議論がわりと多くなされてきたと思うのですが、それをふまえつつも「デザイン」とは何なのかを感じたり考えたりする場として展覧会があってもいいなあと思っています。美術館だから、展覧会だから、ということで「ファインアート」と関係づけようと意気込まずに、「デザイン」の展覧会としてやればいいし(文学も演劇もデザインもアートじゃないかと思いますし)、ファッションデザインの文脈をしっかりつくることがまず大切なのではないかと思っています。

例えばデザインは「実用」という点と密接につながっているかと思います。ソマルタの無縫製ニットでつつまれたファニチャーや服、あるいはまとふが展示空間で着用を促すことに代表されるのは実用に関する展示です。しかし両者は人間工学的な実用性、あるいはユーティリティがデザインの主眼におかれているわけではなく、デザイナーの提示する美について体験する場となっているように感じます。となると、ファッションデザインはたとえば「UX」(ユーザー・エクスペリエンス)の観点から見たとき、何をどのように訴えているのでしょう? また、実用的なデザインの基点となっているのは「身体」ですが、アンリアレイジの展示は「絶対的な基準としての身体」としてのマネキンを崩してみることで私たちを挑発してきます。モノづくりの世界におけるデジタル・ファブリケーションやマス・カスタマイゼーションの時代が来ているといわれて久しいわけですが、アンリアレイジによる身体と衣服の関係性の問いかけから、私たちはどのような未来を導き出すことができるのでしょう?

さらに、ミナ・ペルホネンの作品にも明らかなように、サステナブルなモノづくりの在り方を、そのプロセスの開示などから価値として紹介していくことも可能かと思います。「生産」や「倫理」といった部分と密接に関係するデザインから、エコ・ファッション、エシカル・ファッション、スロー・ファッションやいろいろなファッションが出てきましたが、Thomas Thwaitesの1からトースターをつくるプロジェクトのように生産工程自体に価値をはっきりと可視化させることは可能なのでしょうか?

以上「実用」「UX」「身体」「生産」「倫理」といったキーワードを例として出してみましたが、他のデザイン領域でよく見かけるキーワードと共にファッションデザインを捉えることもできるはずです。しかし、自明なことかもしれませんが、人間の生活に貢献するモノや仕組みとしてのデザインの価値は、ファッションでは「美しさ」や「イメージ」といった情動的な部分にその比重が多くあるように感じます。アントワープのモード美術館で展示シノグラフィが重視され、包括的なイメージを展示しているのも、衣服単体で展示しても何が価値なのかよく見えない点と関連しているのではないでしょうか。

そこで、ファッションデザインにおける「世界観」という言葉について、私たちはもっと考える必要があるのではないかと思っています。「世界観」とはセカイ系という話じゃなくて、総合的芸術として様々な知覚に刺激をもたらしながら物語を紡ぎ出すこと、 デザイナーたる作り手の価値観を見える化する諸要因を統合するもの、と簡単に位置づけた上で話を進めましょう。
例えば、それはシアタープロダクツやケイスケカンダの活動や作品の発表形式などに強く現れているかと思います。ゆるやかでありながらしっかりと紐帯で繋がったコミュニティを生成、維持、強化、淘汰したりする方法論としての「世界観」の提示にモノのみならず空間も提示していくというのは面白い点ですね。ファニチャーデザイナーがイスを展示する為にインテリアまでデザインしてしまうような、包括的な提示をどうしていつもファッションは必要としてしまうのでしょう。
とにかく、「世界観」を形成することが部分の調和を図り、統合を促すための科学的方法論の欠如から生み出されたファッションデザイン特有の「意味の成しかた」なのだとすれば、「感じる服」は「考える服」とは異なる位相でも、理解を求めているのではないでしょうか。

どのようにすれば、服を着たり、見たり、考えたり、デザインしたりすることがより面白くなるのでしょう? この展覧会では、参加したデザイナーの世界観をリスペクトしているが故に、展示物は各デザイナーによってバラバラで、よくも悪くも混在しています。ですから、ファッションデザインって何だろう?他のデザイン領域と何がどう、なぜ違うんだろう?バラバラだけど、どれが自分にとって面白いだろう?と、来場者自身が考える事が大切なのではないかと思います。「デザイン」の展覧会としてファッションデザインの文化を形成していくための多様な視点の提示が本展にあるように感じます。多様な参加デザイナーの作品を見て、ひとこと「アートだね」と建設的でない意見を発して終わりでは、しょうもないです。「ファッションデザインって何だ?」という問いかけから「こういうことかな?」という意見をもって見たり感じたり考えたりするのがいいと思います。

*ちなみに、「世界観」の話は以前にジュリアナ・ブルーノとウルリッヒ・リーマンによるレクチャーにおいて「Holistic Experience」という言い方で紹介されていました。ジュリアナ・ブルーノ「Atlas of Emotion」において該当箇所があるかと思いますのでご興味のある方はぜひ。

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