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MASATO ASHIDA

蘆田 暢人

建築家
1975年 京都生まれ
京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了
内藤廣建築設計事務所を経て独立

蘆田暢人建築設計事務所 代表
ENERGY MEET 共同主宰

e-mail: mstashd@gmail.com
twitter: @masatoashida

感覚することの想像力

南方熊楠という日本の思想史の中でも異彩を放った人がいます。生涯を通して粘菌を研究したのですが、その思想はその植物学、微生物学に留まらず、民俗学、哲学までも、というか、もはやそういったカテゴリーを拒絶するぐらいの壮絶なる思考を生み出しました。
その熊楠の思想の中に、「事の学」というものがあります。「心」と「物」が交わるところに「事」が生まれ、この世界のあらゆるものが「事」として現象する。そして彼は、この「事」の本質に対する洞察が学問に欠けていると考えました。
彼はその「事」の例として、建築をあげています。
建築家は、建物のイメージやアイデアを心にえがき、それを図面化し、模型をつくり、それを元にして職人さんの手によって建物が造られます。
つまり、設計図や模型、そして職人さんとのコミュニケーションが「心」と「物」を結ぶ「事」なのです。

それだけでなく、建築にはもう一つの「事」が生まれると僕は考えています。それは、完成した後の建物とそこに訪れたり、住んだりする人の感情・行為との間に生まれる「事」です。この二重の「事」をどのようなかたちで生み出すか、それが建築という行為だと思います。

先日、ギャラリー・間で開催中の「五十嵐淳展 状態の構築」を見てきました。
http://www.toto.co.jp/gallerma/

建築の展覧会とファッションショーを比較してみるのは、おもしろいかもしれません。
両方とも、本来体験する方法以外で表現されるということが共通しています。(建築は当然、実際の建物ですらないのですが)間接的な手段による発表としかなり得ないわけです。
建築は実際の空間を体験することで感覚するものですし、衣服は実際に着ることで感じるものでしょう。

まず、建築の展覧会についてですが、それは概ね図面・模型・写真・CGなどのパースを使って表現されます。まれにモックアップという、実際の建物の部分が展示されたりします。

展覧会はよく建築家の思考の過程を垣間見ることができるもの、と捉えられます。確かに、よくできた展覧会ではその思考の奇跡をたどることができます。
熊楠の言葉に沿えば、「事」を通して建築家の「心」を探るといったことでしょう。あるいは、もっと読解力の優れた人が見れば、「心」と「物」を「事」によっていかに結んだか、その「いかに」を図面・模型に見いだすことができます。

僕も当然そういった見方をすることもあります。
しかしそれは、むしろ批評的な立場から見ている場合でしょう。
作る立場から見ると、違う視座を持って望むことになります。
それは、先ほど述べた二重の「事」のうち、後者の「事」を生み出す者としての視座です。
図面や模型から、どういった「事」が生まれている空間なのかを想像するのです。自分がその空間に立った時、どういうことを感じるか、どのような行為を触発されるか、など。いわば、「感覚することの想像力」を最大限に働かせ、それによって刺激を受けます。

その視座に立った時、今回訪れた五十嵐淳さんの展覧会は、非常に刺激になりました。全て実際の建物の1/10のスケールの模型のみが展示されています。大部分が住宅です。図面は一切ありません。

みんな模型を覗き込んでます

模型は非常によくできていて、窓の部分などから覗くと実際の空間が想像できます。
恐らく五十嵐さん自身が、建物が置かれる環境において、その中で暮らす人がどう感じるか、どのような行為に導かれるかということにその思考を費やされてるのでしょう。そのことが伝わってきます。
欲を言えば、模型に人がいた方がよかったように思います。
1/10といわれても、建築プロパー以外の人はなかなかイメージしにくいでしょう。
同時に五十嵐さんの作品集も出ていますので、そちらの写真とセットで見てみるとよりイメージしやすいかもしれません。

近年いままで見たことのないようなカタチの建築が世界中で生まれています。それを否定はしませんが、カタチはわかりやすく、伝わりやすい。そういった建築がメディアにとりあげられ、いろいろなところで展覧会が行われています。
そういったもののみが流通すると、建築を志す人たちが「感覚することの想像力」を鍛えられなくなってしまうのではないかと危惧しています。
そういう意味で、その想像力を喚起するようなこの展覧会は素晴らしいと思うのです。

話を変えてファッションショー。
そもそもファッションのクリエイションは、特殊ではないかと僕は思っています。
建築家は自分の感覚や経験を手がかりあるいは拠りどころにしてモノをつくります。おそらくプロダクト系のデザイナーもそうでしょう。
しかし、例えば男性のファッションデザイナーは女性の服を着こなすことはできないにもかかわらず、女性の服をデザインする。
すごいことだと思います。
一体どのような感覚を拠り所にしてデザインをされているのか。
ファッションデザインにおける「事」とは何なのか。そのクリエイションの秘技のようなものを、いろんな方に伺ってみたいです。

そう考えると、ショーをデザイナーあるいはそれ以外の人がどういった視座で見ているかというのは、興味があります。
ショーで生み出される「事」とはどういったものなのでしょうか。
僕は実はショーを見たのは、恥ずかしながら1、2度しかありません。(誘ってください!!)
その時は正直、どう見ていいかわかりませんでした。自分の中で視座が確立できなかったのでしょう。戸惑った末に、そのショーの時間の中で、そこに流れる物語を読み取ろうとしました。それは少し、自分のいつもの立ち位置と違い、個人的には違和感がありました。
その時間の中に存在する「事」に対する想像力が働かなかったに違いありません。
次こそは是非!

2 Responses to “感覚することの想像力”

  1. mari takahashi より:

    こんにちは。
    はじめてコメントさせて頂きます。
    私はファッションショーを中心にモデルをしております。
    よく「ショーの時はどんな気持ちなの?」と聞かれるのですが、
    別人を演じている訳でもなく、普段の自分とも少し違う、ショーの時の自分をうまく表現できる言葉を見つけられずにいました。
    先日highfashion onlineの山本耀司氏と後藤繁雄氏の対談を拝見した中に、アヴァンギャルドについて、反逆ではなく、明日のリアリズム、半歩前、という言葉がありました。
    それがとてもしっくり来て、コレクションを発表するという事は、正に半歩前を表現する事なのだと思いました。
    コレクションが一年に一度ではなく、半年に一度(プレコレ、クチュールは別として)というのも、そういう事なのかもしれません。
    ショーはその半歩前を体験するハプニングなのだと思います。
    演劇やダンスと違い、長い時間を掛けて稽古をする訳でもありません。
    半歩前を想像した服と、それを纏う人と、音楽と、照明と、空間とが、その日初めて交わり、ごく短い時間の中で起こる一度きりの出来事。
    その半歩前の世界を歩く、半歩前の自分。
    私はその感覚がとても好きなのです。
    その半歩前を目撃する人にも、その感覚を楽しんで頂けたら。
    そしてあなたの日常に、明日に、それを持ち帰って頂けたのなら、それはとても幸せなことなのだと思います。

    高橋 真理

  2. Masato Ashida より:

    高橋さま

    こんちにちは。
    はじめまして。
    コメントありがとうございます。

    ショーはハプニングだというお話、なるほどと思いました。
    ハプニングということは、ある種の偶然性のもとに起こる出来事ということですよね。
    演劇やダンスなどといった再現性のあるものでもない。(演劇やダンスでも観客との交歓が生まれるので、完全な再現性はないでしょうが)
    むしろジャズのような音楽に近いのでしょうね。

    半歩前の偶然性とはかなり魅力的だと思いました。
    その半歩前の世界が、いずれ自分のもとに訪れるかもしれないし、訪れることがないかもしれない。
    でも、少なくともショーではそれを偶然の中で触れられるわけですよね。
    そんな偶然の妖力のようなものを一瞬でも感じられたら幸せですね。
    ぜひ今度拝見したいです。

    蘆田 暢人