昨今の震災に対する政治や社会の動向などを見ていると、つくづく日本という国は、論理で動くのではなく関係で動く国なんだなと思います。
論理的には正しいはずのことが素直にその方向に進まない。
原発に関する3.11以後の国や自治体の対応は、世界の他の国々のメディアを散見したところ、彼らには理解不能なようです。
何せ、ヨーロッパではドイツやイタリアなど数カ国が原発の廃絶へ舵を切ったのに、当事者である日本では依然その方向に舵を切らない。にとどまらず、北海道では原発を再稼働までしてしまった模様。まだ余震つづくこの状況で、です。どう考えても論理的に正しくないですよね、これ。
そもそも日本語というのは、自分のことを指し示す一人称が話す相手によって変化します。「私」だったり「オレ」だったり、女の子の中には名前で自分のことを指したりもします。相手との関係によって自分自身の呼び方を使い分けています。
言語学には詳しくないので、同じような言語が他にあるかは知りませんが、欧米語や中国語では、一人称は絶対的です。
そこでは、自分という確固たる個が持つ一つの論理を他の人のそれとぶつけ、闘わせ、社会を作っていくものなのでしょう。
日本では、おそらく昔からそのような形で社会が構成されてこなかったのではないでしょうか。
論理的かどうかが問われるのではなく、共同体の関係の中で「調整」して物事が構築されていくのです。
そのような共同体の中では、論理的な正しさをいかに振りかざしても何も変わらないのが現実です。
むしろそういった環境を受け入れて、いかにいい方向へ関係性を作り出していくか、そこに目を向けなければならないと思います。
今の社会のありかたは、逆にこうした日本的な姿勢が否定されてしまっているような気がします。執拗に「透明性」を求めたり、「社会正義」を確立しようという動きが最近は目につきます。
少し前に、日本でマイケル・サンデル氏の著作がもてはやされたのは、そういった風潮を如実に表しているような気がしてなりません。
もちろん論理的な正しさを求めることを否定する気は全くありませんが、もともと持つ私たちの社会の慣習から目を背けながら社会を変えていこうとするのは難しいのではないでしょうか。
そのような社会の中でのものづくりのあり方も、関係性の中で生まれていくものだと思います。自分の理念をただひたすらに主張するのではなく、自分の思想やデザインへの意志を他人の言葉に翻訳し、その物語に接続すること。
翻訳可能性が高ければ高いほど、いろいろな人たちの物語に接続することができる、優れたデザインと言えると思います。
デザインの翻訳可能性とは、決して昨今よく言われるような「多様性」とは異なります。
「多様な使い方ができる」「多様なアクティビティを誘発する」といった売り文句は、作り手の思考停止以外の何ものでもありません。結局のところそれぞれの物語に接続する方法を見いだす努力を放棄しているからです。
翻訳可能性の高い形式や型は、長く使い続けられるものになるでしょう。
このことに関しては、また次回にでも詳しく書いていきたいと思います。
なんだかファッションとは全く関係ないことを書いてしまいましたが、今年の9.11という日は気楽には過ごせない日でした。