日本のデザインは変わらなければならないと思っています。
3.11以降、様々な価値のパラダイムは変わっていくでしょう。というか、変わらなければならない。経済も、生産も、生活も。直線上の進歩史観、全てが想定できるという幻想。戦後からこれまでの右肩上がりの発展は、震災の前から、いずれ来る人口の減少する社会に向けて変えていかなければならないと認識されていましたが、その切実性がより明白になってきたと感じています。
日本では、デザインはこれまで+αの価値と捉えられてきたと思います。付加価値として、必須ではなく、よりよくするものと。いわば剰余としてものです。
資本主義経済とは、マルクスが言ったように、絶えざる剰余価値の増殖過程であるため、デザインもその剰余価値に与する形でその永久機関に突き動かされてきました。消費の海を泳いできたのです。
消費とは、費やして消すことです。そうやって忘れていく。忘却こそが近代化の特質なのではないでしょうか。
しかし、忘れてはいけないことがある。それが3.11以降の日本が背負っていかなければならない価値だと思います。
剰余としてのデザインは消費されます。どんどん新しいアイデアが形になっては消えていく。それはそれで素晴らしいことかもしれません。
しかし、消費されないデザインがもっと生まれてこなければならないと思います。全てがそうである必要はないのでしょうが。
剰余としてのデザインは、時に煙たがられ、コストがかかるといった認識で拒絶されたりします。
建築では、「標準設計」という制度があります。
公共建築や駅などで定められているのですが、行政などが地域や建物の特殊性をたいして考慮もせずに、「標準」というスペックを決めているのです。それ以外のデザインをしようとすると、仮にコストアップにつながらなかったとしても抵抗を受けたりします。
これは、デザインが剰余として捉えられている典型だと思います。
デザインとは本来そんなものではないと思っています。生み出されるモノを取り巻く状況や環境、作る工程、使われ方などの特殊性を徹底的に突き詰めること。それが本来のデザインという行為だと思います。
そうやって生み出されたものには、強さがあります。時を耐えて受け継がれる価値を持ちます。
また、そのようなデザインはコスト・値段も適正になるはずです。建築ではたまに聞く話ですが、お金がなかったからいいデザインができなかったなどということは、何の言い訳にもなりません。その状況で生み出される見事なデザインは存立可能なのです。
公共建築はこの標準+剰余といった価値体系を変えていかなければなりません。しかしそれは、決して好き勝手なカッコイイデザインを生み出すためではありません。それぞれの建物が置かれた特殊性を最大限に生かしたデザインが求められるのです。
ファッションデザインは、意外と剰余価値が捉えにくい分野ではないかと思ってます。「標準仕様」たるものがないからです。
価値の設定がそれぞれ皆異なるだけで、その価値の中で創作が行われているような印象があります。剰余価値を意識しているような感じがしません。
買い手側もそれぞれ自分なりの価値を持って、その特殊性の中で着るものを選んでいるのでしょう。そういうマーケットが成立している。つまりは、多元的な価値の体系ができているような気がします。
ただしこれは、全く外から見ている印象なので、ファッションをやっている方が、「価値」というものをそれぞれどう設定されているかは、聞いてみたいところです。
いずれにせよ、ぼくは剰余としてのデザインを超えて、本質としてのデザインを模索していくしかないと思っています。
はじめまして。
毎回学びの多い文筆を有難うございます、
心にしみ込ませながら読ませて頂いています。
`しかし、忘れてはいけないことがある。
`消費されないデザインがもっと生まれて
こなければならないと思います。
何だか、とても欲していた言葉を
発して頂き感謝です。
東大寺に行きたくなりましたww
はじめまして。
コメントありがとうございます。
そう言っていただけるとうれしいです。
今後ともよろしくお願いします。
東大寺なんですね。京都じゃないんですねw
笑。
です。東大寺ですw