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MASATO ASHIDA

蘆田 暢人

建築家
1975年 京都生まれ
京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了
内藤廣建築設計事務所を経て独立

蘆田暢人建築設計事務所 代表
ENERGY MEET 共同主宰

e-mail: mstashd@gmail.com
twitter: @masatoashida

「ファッション」という言葉

前回のブログを書いていてちょっと困ったことがありました。

ファッションに関わることを書こうとしたときに、言葉の使い分けに混乱したのです。
「衣服」「服飾」「衣装」など、いろいろ苦心したのですが、いまいちうまく使えませんでした。
そもそもぼくは文章を書くことを生業にしていないし、もともと文章を書くのも苦手なので、言葉がちゃんと使えないのは当たり前なのですが、それにしても書いていて、「ファッション」という言葉がよくわかりませんでした。
そこで、少し「ファッション」という言葉について考えてみました。

まず、とりあえずウィキってみると、

ファッション(英: fashion、英語発音: /ˈfæʃən/ ファシャン。仏: mode、フランス語発音: [mɔd] モッド)とは、ある時点において広く行われているスタイルや風習のことである。なかでも特に、人々の間で流行している服装や装いを指す。

まぁ、当たり前ですが、服に限った言葉じゃないんですね。

ということは、「ファッションデザイン」とは何なのでしょう?

最近、日本のファッション(業界)には、批評の場が成立していないという話を聞きますが、それは、「ファッション」という言葉の由来自体に原因があるのかもしれません。

現在の「ファッション」あるいは、「ファッションデザイン」という創造行為は、建築やプロダクトデザインなどと同様に、明治になって欧米から輸入された営みだと言えます。
モノとしては、当然それらは存在していましたが、「デザイン」という行為/制度は輸入されました。

その際に、建築や意匠など、他の分野のデザインと異なり、Fashionという言葉には日本語の言葉があてはめられなかったのではないかと推測しています。

「建築」「芸術」「哲学」は、それぞれ、Architecture、Art、Philosophyに対応しており、それらは全て明治に生まれた言葉です。

やや乱暴な論理になるかもしれませんが、言葉というものは、それが生み出されることによって、概念化され、その概念が人それぞれ微妙な差異を孕みながら共有されることによって、そこに言説空間が生まれるのではないかと思います。

モノづくりの立場から考えると、創造行為が概念化されないと、その行為によって生み出されるモノに言説空間が発生しない、と言えるような気がしています。

Architectureという言葉は、日本に輸入されたときにまず「造家」と訳され、それに意義を唱えた伊東忠太という巨匠の建築家によって、「建築」と訳され直されました。
既に訳語を決める段階で議論紛糾していたわけです。
その訳語の是非もいろいろ賛否両論ありながら、今では「建築」という言葉に落ち着いています。(実はいまだにこの「建築」という言葉はきっちり定義されていないと思うのですが)

この言葉が生まれることによって、「建築」というものが語られるようになり、それ以来ずっと、「建築」とは何か?という問いが、具体的な建築物に対する言及も含めて、問われ続けているのです。

「ファッションデザイン」という制度や概念の輸入の経緯については、ぼくは専門ではないのでよくわかりません。
ファッションの歴史が専門の方に教えていただきたいと思うのですが、やっぱりズバリ一言で言い切れるような訳語はないのではないかと思います。

「ファッション」には訳語がないですが、「デザイン」には「意匠」という言葉があてられました。それで、「プロダクトデザイン」は「工業意匠」という言葉になりました。

では、ファッションデザインはというと、「服飾意匠」「衣服意匠」「衣装意匠」・・・
どれも聞いたことがありません。

なんでないんでしょう・・・。もしくは、あるんだけど広まらなかったのか・・・。

誰か言葉を作ってみませんか?

そうすることで活発な言説空間が生まれるかもしれません。

ちなみにもっと根源的にさかのぼり、白川静氏の「常用字解」のなかで「服」「衣」「飾」という漢字ををめくってみると、

「服」:盤(儀礼の時に使う器)の前で何らかの儀礼を行うこと。屈服、したがう。
「衣」:象形文字で襟元を合わせた衣の形。
「飾」:食事のとき、体の前につけている巾(ふきん)を食器にあてて汚れを拭うこと。

とあります。
衣服や服飾というものは、深く儀礼空間にその由来をもつのですね。

そういえば、ファッションショーのステージは現代における儀礼空間的な風景に見える気がするのは、あまりに離れたところから見ているからでしょうか。

ファッションと建築の幸福な関係?

今日はファッションと建築の関係について思うところを書こうと思います。

まず、その関係について書いてある本を書棚からピックアップしてみたところ、2冊ありました。

「カタチの歴史ー建築とファッションのただならぬ関係」(今井和也著)
「SKIN+BONES展カタログ」

他にないのかなとファッションを専門にしている弟に聞いてみたところ、どうもあまりないらしい。

意外とないなと思いながら改めて読み返してみたところ、概して言ってしまえば、両方ともファッションと建築をデザインあるいは形態の面から、その類似性を見いだすといったものでした。

しかし、そのような論点では、それぞれにとっての大事な視点が欠けてるような気がします。

それは、

ーファッション(デザイン)とは身体を包むものを創造することであり、それによって着る人の所作を規定する

ー建築とは空間を創造することであり、それによってそこに居る人々の行為を規定する

という根源的な役割です。

つまり、衣服と空間の関係に目を向けるという視点があまり語られてこなかったのです。
確かに、カタチというものは分析可能で、言語化しやすいのに対して、空間というものは語りづらい。その場に立ち、感じることでしか認識ができないのです。言うなれば、「語りえぬもの」といってもいいかもしれない。

建築を設計する立場からいうと(あくまでぼくの作る上での立ち位置ですが)、建築とはあくまで空間を創り、そこで行われる人々の行為や感情にどう関わり、影響を与えられるかを主眼にクリエイションを行うものだと思っています。
カタチはその結果、便宜的に生まれるものにすぎません。

ファッションについて言えば、マーケティングやコマーシャルという側面でなく、身体性あるいは人の生にコミットする「衣服」としての面に目を向けることが必要だと思います。

だから本来的には、ファッションと建築は、カタチについて語るのでなく、衣服と空間の関係という側面に目を向けなければならないはずなのです。

それは、今巷にみられるショーのステージセットのデザインや、ショップの空間デザインという、モノのレベルでのファッションと建築の関係ではなく、「生きる」あるいは「生(なま)」なレベルに関わるデザインという面から考えることでしょう。

というのも、最近のステージセットやショップ空間のデザインに見られるのは、あくまで衣服を「魅せる」ため、もしくはブランディングのためのデザインであって、人間の行為あるいは所作にまで踏み込んでいないように感じられるからです。
いつからかファッションと建築の関係は、人を媒体にしなくなってしまったのではないでしょうか。

しかし、歴史に目を向ければ、衣服と空間が人を通じて結ばれていた時代はあったと思うのです。

たとえば、ヨーロッパのバロック・ロココの時代。貴族の社交空間は、様式的なデザインの一致ということにとどまらず、空間と衣服が一体となって人々の交流の場としての空気感を作り出していたといえるでしょう。

また、日本で言えば、谷崎潤一郎が「陰影礼賛」で述べているように、闇の空間の中で生きるための装いとしての衣服や化粧が生み出されていたのです。
もっとも、その空間は闇と言うよりは、軒の深い日本建築特有の水平から入ってくる柔らかい光の空間だとぼくは思っていますが。

つまり、ある空間を前提とし、その中で生きる人のための衣服が作られていた時代があったのです。

空間と衣服が一体となって一つの空気感を作り出し、そこに人の息吹が溢れる。

失われてしまったそのような関係を、今の時代ではそんな機会もあまりないでしょうが、いつかファッションデザイナーの方とつくってみたい。

また、このような現象としてのファッションと建築の関係だけではなく、思想的なレベルでの関係性というのも見いだせるのですが、それについてはまた次の機会に書いてみたいと思います。

はじめまして。

はじめまして。

蘆田と申します。

今日からここでBlogを書かせていただくことになりました。

建築の設計をしています。

現在は、個人の住宅や商業施設、地方の公共施設や海外の博物館、橋や道路のデザイン、大規模再開発の都市計画などいろいろなことにたずさわっています。

規模でいうと数十㎡から数百haまで。場所で言うと、東京を中心に国内で、はたまた中国まで。

そんなことをやっている人間なのですが、ファッションとはあまり関係のない仕事をしていて、この業界についてもそんなに詳しくないので、このような場所で書かせていただくのは場違いなようで恐縮しています。

とはいえ、ファッションと建築は、そのスケールやマーケットを考えると一見遠い関係のように見えますが、実は非常に近い存在だと思っています。

建築の設計というものは「暮らす」という極めて身体的なスケールから、人の交流が行われる場所やその集積である都市という社会的なスケールまでを扱い、そのあり方をデザインすることです。

実際、前述したような関わっているプロジェクトも、まさにそのスケールの差を体現したようなものになっています。

日々そのようなスケールの思考の横断をしているといろいろ考えるところが多いです。

ファッションデザインも作り出される一つ一つの服やアクセサリーは、身体性に対するそれぞれの回答ですが、そのデザインがたとえばコード化されたりするとそこに社会性という問題系が発生することになります。

そういう意味では、作り手は双方とも身体性と社会性の間を揺れ動きながら、デザインというモノの形を固着させる行為を通して、自らの立ち位置を定めるとともに、人間の行為を規定していくといえるのです。

もちろんこの話はプロダクトなど他のデザインにも当てはまりますが、人間の営為の根源的な部分に関わるのは、ファッション(服飾)と建築だといえるでしょう。

たとえばそんな視点から、建築をやってる立場でファッションを取り巻く周縁について思うところを書いていきたいと思っています。

そして、できればファッションをやっているみなさんのご意見もうかがえれば、なおうれしいかぎりです。

ファッションにたずさわっている方で建築に興味のある方もそうでない方も、これから末永くご笑覧いただければと思います。

それでは、よろしくお願いします。