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HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て、京都精華大学ファッションコース専任講師。
ファッションの批評誌『vanitas』編集委員、ファッションのギャラリー「gallery 110」運営メンバー、服と本の店「コトバトフク」運営メンバー。

e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
twitter: @ihsorihadihsa

『vanitas』の情報は↓
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衣服と身体

ファッションにおいてウェアラブルか否か(つまり着られる/着られない)、あるいは着やすさ(着心地)が評価の基準となることがあります。これは衣服を身につける身体というものが前提とされていると考えられますが、衣服の身体の関係は一元的なものではないと考えられます。そこで、今回は衣服と身体について少し書きたいと思います。

これまでのファッション論における衣服と身体に関する主要な議論は二つあります。

ひとつはマーシャル・マクルーハン(1911〜1980)に代表される考え方で、衣服を皮膚や身体の拡張とするもの。マクルーハンはメディアを「身体の拡張」と捉えていて、衣服は皮膚の拡張(たとえば熱制御機構)だとしています。この観点にたてば、衣服は「第二の身体」と言うことができます。

もうひとつは鷲田清一がまとめたもので、身体を第一の衣服とする考え方。鷲田は精神分析学者のジャック・ラカン(1901〜1981)の「鏡像段階論」(*1)を踏まえ、断片的な自分の身体の情報から構築された身体の像(イメージ)が第一の衣服だと言います。また彼は衣服の機能の最も重要な点として、自分の身体の輪郭を補強することを挙げます。たとえば、熱いシャワーは自分の身体の輪郭を感じることができるために気持ちよいのと同様に、衣服も自らの身体の輪郭をあらわにしてくれるのだと言います。

これら二つの理論は「生身の身体」が「身体の上に」衣服を身につけることを想定しています。しかし、現代ではアバターのようにヴァーチュアルな空間における身体がやはり衣服を身につけることを考えると、上記二つの身体論に立脚した衣服論は必ずしも十全とは言えません(もちろん、これらがもはや有効ではないと言うのではありません)。ここにおいて、衣服は身体の上に身に着けるような階層的なものではなく、むしろ身体と衣服が同一化したものだと考えることもできるのではないでしょうか。

これを象徴的に示しているのが、80年代(*2)から90年代にかけてのガンダムからエヴァンゲリオンに至る、いわゆるロボットアニメの流れです。モビル「スーツ」と呼ばれるガンダムのロボットは、そのなかに人間が乗り込み、まさに第二の身体として機能する衣服だと言えます。一方で、インターネットが普及し始めた90年代半ばにあらわれたエヴァンゲリオン(奇しくもwindows95の登場とエヴァの放映開始は同じ95年です)は、その内部に人間が乗り込むという構造は変わらないものの、エヴァに与えられたダメージがパイロットにまで伝達されます。ガンダムが第二の身体としての衣服だとするならば、エヴァはまさに身体と同一化した衣服だと考えられるのです。

これを僕は「潜在的な身体としての衣服」と名指して、マクルーハン的な身体論、鷲田的な身体論を補完する第三の身体論としてシュルレアリスムを手がかりとしてこの概念を展開しようとしているのですが、長くなってしまうので、詳細はいずれまた。

とりあえず今回言いたかったのは、衣服と身体の関係は「ウェアラブル」という概念だけで考えられるようなものではないということです。それはファッションの批評を行う上でも言えるはずですし、こうした理論を整備することも批評の基盤の構築につながるのではないかと思います。

(*1)簡潔に言うと、幼児は鏡を見ることによって、断片的なイメージしか持つことのできない自分の身体をひとつの統一したものと理解できるという理論。

(*2)正確にはガンダムは79年に放映が開始されています。

8 Responses to “衣服と身体”

  1. アバターやエヴァの例を出されれたのは面白いですね!はっきり言って、ウェアラブルか否か、あるいは着やすさ、という評価基準に関しては案外シンプルであって、それよりかはマクルハーン/鷲田言説と、その後に蘆田さんがやろうとされているその補完部分というのがなんとも複雑なんだと感じます。シュルレアリスムを引き合いに出されてどのように衣服と身体の関係を整理されるのか、楽しみです。

  2. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    大久保さま

    ウェアラブルか否か、というのは確かにシンプルな問題なのですが、シンプルであるだけに自明のものとしてしまうと、ただでさえ制約の多いファッションが行き詰まってしまうとも思うのです。
    シュルレアリスムの話、また近いうちにここに書いてみることにします。

  3. Olga より:

    興味深く拝読させて頂いております、olgaといいます。
    いつも滝田さんが、蘆田さんのブログは面白いと、会う度に言うのでついつい見てしまいます。今回のテーマは、私が行わんとしている3Dモデリングソフトによる衣服製作、及び概念に対する提案(ウェアラブルか否か)というものに、非常に近い気がしてコメントさせて頂きました。
    でも長くなりそうなので、面と向かって話したいですね。。。
    非常にマイルドな文脈と、学術的観点からのファッション。内容にも品を感じます、今後も投稿たのしみにしてますね。

  4. 蘆田さま
    レスありがとうございました。
    仰っていること、よく分かります。
    ところで、マクルーハン、僕は今の今までマクルハーンだと思っていました。。
    お恥ずかしい限りです(笑)

  5. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    Olgaさま

    コメントありがとうございます。
    ファッション/衣服の見方は一つだけではないと思うので、色々な視点を出していけたらと思っています。作り手の方から教えていただくことも多々あると思うので、こちらこそ機会があれば是非お話を伺いたいです。

    そして、Etw.Vonneguetの映像拝見いたしました。
    2010A/Wコレクションの映像、すごく好きな感じです!

    >大久保さま
    横文字の名前は難しいですよね。
    僕も横文字の名前はよく間違えてしまいますし、アントワープ系のデザイナーの名前など、結構むちゃくちゃな表記が流通してしまってます。

  6. Olga より:

    蘆田さん

    嬉しいです。近々会えるといいですね。勝手にそんな予感がしています。
    楽しみにしています。
    滝田さんがchangeでイベントやってくれるといいですね。夏ですし。

  7. 工藤雅人 より:

    蘆田様

    一度、大阪の研究会でお会いした髭で坊主のガチムチです。
    毎度、更新を楽しみにしています。

    今更ですが、質問が2つあります。
    ファッションを論じる上で、衣服と身体という問題設定は不可避なのでしょうか。
    鷲田さん以降、ファッション・衣服と身体という関係づけが当たり前のようになっているという印象をもっていますが、一方では、この問いのもとになされた研究があまり有益な成果を残してこなかったという印象も持っています(井上雅人さんの議論など例外もありますが)。
    そのな状況の中で、蘆田さんがあえて衣服と身体という問題設定を引き継ぐ積極的な理由はどのようなものなのでしょうか。

    もうひとつ、2つの身体論の解釈について。
    マクルーハンをオーソドックスにメディア論として理解すれば、衣服というメディアがその内容である身体を規定するという解釈が可能だと思います。また、鷲田さんに関しては、衣服やシャワーという自他を分かつ「境界線」があるからこそ身体が知覚可能になるのだ、というものとして理解していました。
    この解釈だと、「生身の身体」はそもそもあるわけではなく、むしろ衣服によって(想像的に)形作られるものということになります。
    この場合に、自他の境界設定の為の膜みたいな役割を衣服は果たすわけですが(この点、マクルーハンも鷲田さんも明快)、衣服と身体が同一化すると想定した場合には、境界設定の役目は何が担うのでしょうか。衣服が境界設定をしないのなら、衣服と同一化したという「身体」はそれこそ実体としての肉体として位置づけるしかないのではないかと。

    きっと、一つ目の疑問は何度目かの更新後にシュルレアリズムと関連づけて、書いて頂けるとは思ったので、コメント自重するつもりだったのですが、待ちきれませんでした。

  8. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    >Olgaさま
    本当、何かイベントができるといいですね。
    こちらこそ、近々お会いできるのを楽しみにしております!

    >工藤雅人さま
    ご無沙汰しております。覚えていてくださったのですね。

    まず一つ目のご質問から。
    もちろん、衣服と身体という問題系が不可避だとは思っておりません。
    工藤さんもご承知の通り、ファッションをひとつの問題設定のみで語ることは不可能なので、衣服と身体はあくまでその一側面でしかありません。
    また、僕自身、身体論のみで衣服を語ることがしたいわけではありません。

    個人的な話で恐縮ですが(そして既にブログで多少書いたことですが)、修士課程以降は20世紀前半の芸術家(未来派やシュルレアリスム)がファッション/衣服をどのように扱っていたかに興味を持ってきました。
    シュルレアリスムに関していえば、リチャード・マーティンの『ファッションとシュルレアリスム』がありますよね。マーティンの調査で一定の成果は得られたのだとは思いますが、この本はあくまで、ファッション「と」シュルレアリスムについてのもので、シュルレアリスム「における」ファッションを総合的に扱ったものとは言い難いです。そこで、彼らの作品(テクストとイメージの双方)に内在的に衣服の問題を語りたいと思いました。
    そうするなかで浮かび上がってきたもののひとつに、身体の問題があったために、あらためて衣服と身体の問題を捉え直してみようと思った次第です。

    鷲田さん以降、身体論的なファッション論が有益な成果を残してこなかったとしたら、だからこそそうした研究が必要なのではないでしょうか。例に挙げたアバターもそうですし、『マトリックス』や『AVALON』のようないわゆるヴァーチュアルな世界における身体、あるいは西尾維新の小説や『撲殺天使ドクロちゃん』のようなライトノベルのキャラクターの身体感覚の希薄さなど、さまざまな次元において──もちろん現実においてもそうだと思いますが──身体感覚が変化しつつあるのに、その理論が変わらないままだとしたら、そちらの方が問題だと思います。

    二つ目のご質問ですが、鷲田さんの衣服論に関しては、僕も工藤さんと概ね同じ理解をしています。ただ、工藤さんが仰っているとおり、衣服やシャワーによって認識することのできる身体がそこに「ある」ことが前提とされていますよね。
    しかしながら、シュルレアリスムにおける身体/衣服の表象を見ると、衣服と身体の境界がそもそも存在しないものが多々あるのです(たとえば、マグリットの《マック・セネットへのオマージュ》など)。こうした身体/衣服の分析をするにあたって、鷲田・マクルーハン的な身体論は有効ではないと思っています。そこで、ブルトンやツァラのテクストから抽出できる「潜在性」の概念(さらに、それをベルクソン=ドゥルーズ的に展開させたもの)を用いることによって、シュルレアリスムにおける衣服の問題を論じることができるのではないかと考えています。

    もちろん、ここで言っている衣服/身体は表象のレベルに過ぎず、現実の衣服を論じるのには使えないと言われるかもしれませんし、僕自身もどこまで有効かは今のところわかりません。しかしながら、先ほど挙げた例(アバターなど)のことを考えると、もしかしたらシュルレアリスムだけにとどまらず、これからの衣服の問題を考える上でもまったく役に立たないわけではないかも知れないと思っています。

    正直なところ、現在進行形で考えている段階ですので、詰めの甘い部分や、そもそもの前提がおかしなところなどあるかもしれません。こうやってご質問をいただけることで改めて考える機会ができますので、また何かありましたらコメントいただけますと嬉しいです。
    どうぞよろしくお願いいたします。