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HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て、京都精華大学ファッションコース専任講師。
ファッションの批評誌『vanitas』編集委員、ファッションのギャラリー「gallery 110」運営メンバー、服と本の店「コトバトフク」運営メンバー。

e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
twitter: @ihsorihadihsa

『vanitas』の情報は↓
http://fashionista-mag.blogspot.com/
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大衆と文化

東京ガールズコレクションに続いて、JFWもニコニコ動画と連携するようですね。

後手に回っている感は否めないですが、ハイファッションは大衆から乖離してきたのも事実なので、こうしたサブカルチャー的なものとの連携はひとつの試みとしては面白いのではないでしょうか。

文化としての評価を売上や人気で決めるのは褒められたことではありませんが、そうした側面から離れること(つまり、大衆からの乖離)を良しとする業界人(どの分野においても)たちはさらに感心できません。

美術のことを考えてみれば、大衆との乖離が決定的になったのはマルセル・デュシャン(《泉》という便器の作品で有名な美術家です)からだと言えるでしょう。デュシャン以降、美術が知的なゲームのような側面を持つことになってしまったのは否定できない事実であり、その最たるものがコンセプチュアル・アートと呼ばれるジャンルの作品です。

コンセプチュアル・アートは美術史の枠組みでは確かに面白いのかもしれませんが、美術史を知らない人には面白くもなんともない作品がほとんどです。そのこと自体は必ずしも悪いことではないのですが、その面白さを大衆に伝える努力をしてこなかった業界人(とりわけ、大衆と美術の世界をつなぐ役割を持つはずの現代美術の学芸員)の責任は少なくありません。

そうしたなか、村上隆(とその周辺)の活動は再び、閉じられた世界にある現代美術を大衆とリンクさせようとする試みだとも見ることができるので、その意義はきわめて大きいものだとも言えます。

ハイファッションはたとえばファッション・ショーは業界人にしか開かれていないなど、閉鎖的な面も少なくないものの、美術に比べればかろうじて大衆との乖離を免れているように思われますが、それも本当にぎりぎりのラインだと思います。

ニコニコ動画とJFWとの連携や、一般の人たちにも門戸を開いた前回のwrittenafterwardsのショーなど、状況を変化させる方法は色々あるはずですので、今後、様々な試みが出てくることを期待します。

6 Responses to “大衆と文化”

  1. S_Takahisa より:

    芸能人、タレントをモデルに起用してエンターテイメント事業として急成長しているTGC、スーパーフラットの第一人者である村上さんに代表するように、内容こそ物議を醸し出したABRなど、ニコニコで放送してもそれらの文脈(視聴者層)に沿っているから、非常に効果的だと思います。上記の文脈がある中でコンテンツ提供している物とは異なる東京コレクション。一体、東コレという一つのイベントはどこに向かうのか?
    「美術史を知らない人には面白くもなんともない作品がほとんどです。」という同様の現象が起きないか?という事を懸念してしまいます。
    参考になるか分かりませんが、2年前くらいに「アントワープを首席で卒業した2人の日本人」という動画がニコニコにアップされました。
    そういった反応が、今回の反応に近いのではないかと思います。(恐らく、それよりも極端なコメントに。)

    ファッションの楽しみ方の一つとして「着る」という行為(=自己投影)が出来るので、美術よりも理解しやすいと思いますが、ストリート・ファッションに代表するように、ソコばかりがフォーカスが当たっているのも現状です。
    今回のランウェイショー以外の映像では「制作現場からショーまでを密着レポート」と言うのは、そういった部分を切り開く上で重要(特に編集)だと思います。

    ただ、乖離現象が長年の課題であった事へのアクションとしては、後手になってしまっても企画が不十分だったとしてもポジティブだと思います。
    近年では、前回のwrittenafterwards、THIS IS FASHIION!?の他、Limi feuのTrace、NOZOMI ISHIGURO @ 歌舞伎町等々、これまでも一般の方に観てもらう機会は沢山ありましたが、それでも乖離しているという印象があるのは、美術界で言う村上さんのような現役で日本・海外共に影響力を持つクリエイターの不在、イベントとしてのパワー不足といった決定的な事がなかったのも要因だと思います。
    そういった背景からも、今回のように集合体(JFW)として打ち出すのは非常に意味があると思います。
    だからこそ、乖離とは別に、ハイ・ファッションがハイ・ファッションと言われる所以のような物を期待したいです。

    長文失礼しました。

  2. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    以前のブログにも書きましたが、どこかでTGCやファスト・ファッションとは差異化を図っていかないといけないと思っています。
    ですので、S_Takahisaさんも仰るように「ハイ・ファッションがハイ・ファッションと言われる所以の」ものを試行錯誤していかなければならないですよね。

    もちろん、JFWの企画者だけでなく、受容者=消費者の意識も変える必要がありますし、そのためにはメディアの努力も重要ですので、S_Takahisaさんの活動にも期待しています。

  3. honda より:

    大衆との乖離というのはそんなに危惧しなければいけないものなのでしょうか。

    アートもハイファッションもマーケット(消費者層)がそもそも大衆とは違うものであると思うのですが。

    多くの市民にとっては、教養として良い作品を知ることは必要であり、それを知ることは人生をいくらか豊かにするものでしょう。
    しかし一方でそれがわかったからといって大衆によって支えられる業界ではないと思います。
    映画や文学なら数千円で手に入るものであり、良質な作家にきちんとした評価と利益があれば、さらに作品が作られる手助けになるでしょう。
    一方でアートやハイファッションは、どうでしょうか。数千万円の作品や数十万円のジャケットが大衆に理解されることはあっても消費されるでしょうか。またはそれを製作者は望んでいるでしょうか。(村上隆氏も日本のアート製作者に対しての啓蒙はしても、大衆を啓蒙してるとは思えません)

    大衆の教養の手助けとして、また正当な評価を下すために批評というのは必要ですが、大衆と乖離するか密着するかはマーケットと製作者が判断するものではないのでしょうか。

  4. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    hondaさま

    返信が遅くなり、申し訳ありません。

    まず、前提としてハイファッションという言葉がさすものにズレがあると思うのですが、僕はこの言葉を東コレやパリコレに出ているようなブランドの総称として使っており、グッチやエルメスのようないわゆるラグジュアリー・ブランドだけを指しているわけではありません。

    そして、文化は「消費」の対象なだけではありません。より正確に言えば、「所有」せずとも文化を享受することはできるはずです。
    hondaさんが例として挙げていらっしゃる映画もそうですし、美術やファッションに関しても「所有」することなく「観賞」することができるはずです。

    たとえば、パリでは一般の方々もハイファッションに興味があるとされていますが、彼らが皆消費をしているわけではないですよね。というよりむしろ、消費をしている人の方が少ないのではないでしょうか。

    消費はされずとも受容されることによって、文化としても成熟していくのではないでしょうか。そういう意味で大衆とは乖離すべきではないと考えています。

  5. honda より:

    はい、たしかに「観賞」されていますよね。ですからその意味で大衆はいつも意識しています(階級がフラットになりつつあり意識できる時代になった)し、それが大衆にとってもいくらかの教養的利益になることはファッションについても他の分野同様同じと思っています。

    今さらなのですが大衆との乖離というのは何が乖離していることを指しているのですか?

    つまり「感性の乖離」であれば、芸術と称されるものは、いつも大衆の感性の先にあるものであり、その意味では大衆と乖離しているから芸術たりうる所以だともいえます。
    それとも「鑑賞の機会の閉鎖性」という意味での乖離であれば、ランウェイショーを実際に見れるとまではいきませんが、鑑賞したいと望む大衆には店舗・書籍・テレビに加えウェブ社会になり、ますます情報が得られる社会になったという意味でむしろ乖離はなくなってきている流れなのではないでしょうか。

    それともその中間にあたいする「教育と批評の少なさ」からくる大衆の教養のなさからくる理解の乖離なのでしょうか。

    そして話は、少しずれますが
    —-消費はされずとも受容されることによって、文化としても成熟していく—-
    これについては、(理想ではありますが)、大衆との密着が、文化・分野の成熟の必要条件なのでしょうか。いつの時代のどの分野も、大衆との密着によって不毛に消費されることはよくあるのですが、成熟と相関している歴史はまれであると思わざるをえないのです。

  6. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    この記事で代表例として取りあげたコンセプチュアル・アートのようなもののことを考えてみると、「観賞」されているとは言えないと思います。

    「大衆との乖離」という言葉で言いたいことを簡潔にまとめると、非専門家のことを無視するあり方です。
    ここでは美術の例をあげていますのでその文脈で言いますと、たとえば美術館が現代美術の展覧会を開催するときに、現代美術を生業としている人や現代美術に強い関心がある人以外にもわかるような展示を本当にしているのか、ということです。

    また、大衆と「乖離するべきではない」とは考えていますが、「密着」するべきとまでは考えておりません。