Blog

HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て、京都精華大学ファッションコース専任講師。
ファッションの批評誌『vanitas』編集委員、ファッションのギャラリー「gallery 110」運営メンバー、服と本の店「コトバトフク」運営メンバー。

e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
twitter: @ihsorihadihsa

『vanitas』の情報は↓
http://fashionista-mag.blogspot.com/
http://www.facebook.com/mag.fashionista

ずらしの手法とSHIDA TATSUYA

ファッションにおける作品の評価基準について、素材の良し悪しを基準にすることは適切なのでしょうか。

たとえば、上質の素材を用いて作られたベーシックなアイテムもファッションにおいては大切であることは僕も認識しています。ですが、乱暴な言い方であることを承知した上で言えば、そうした作品は誰でも作ることができてしまいますし、そこで勝負をするのであれば、資本力のあるブランド、量産・販売体制の整っているブランドの方が生き残ることになってしまうでしょう。

(もちろん、素材を軽視しているわけではなく、その「使い方」が重要だという話です。)

これは同時に、ファスト・ファッションとの差異化にもつながります。ファスト・ファッションのブランドは数を売らなければ採算がとれないため、そのデザインは最大公約数的なものになってしまうからです。

だとすれば、(とりわけ若手の)デザイナーに必要な手法のひとつが、既存のもの(ベーシックなものであったり、既に流通したデザインであったり)を「ずらす」ことだと考えることができます。

そうした視点から見ると、今回のSHIDA TATSUYAはその「ずらし」の表現がうまくできていたように思います。

フランス的なものの表象でもあるトリコロールに敢えて彩度の低い色を使い、フレンチっぽさをひねってみたり(イタリアのトリコローレも使っていましたが)、トレンチコートの背中にポケットを配して巷にあふれるものと差異化を図ってみたりと、奇をてらわないちょっとした「ズレ」を表現できていたように思います。こうしたSHIDA TATSUYAが提示するズレは、フランスギャルというベタベタな選曲によってさらに効果的になっているのです。

さらに付け加えるなら、前から見ると何の変哲もないように見えるトレンチコートは、フロントスタイルのみをウェブで見て事足れりとする昨今の風潮に異を唱えていると考えることもできるでしょう。

2 Responses to “ずらしの手法とSHIDA TATSUYA”

  1. akira より:

    上質の素材を素材を用いて洋服を作ることが安易だと書かれていますので少しコメントを。

    どの素材を取り上げてお話になっているかは分かりませんが、上質な素材はとにかく取り扱いが難しい物です。テーラードを縫製された方は分かると思いますが、アイロンワーク、縫製、きせ、ディテールのなじみ等制作に非常に技術と経験が必要になります。
    そしてそこにもファッション性やデザインの深みが存在していて、それを生かす事がすでにクリエーションの一部にもなります。
    昨今は若い方がそのような物に向き合う事が少なくなり、ディテールやシルエットのみでデザインをする事が増えてきていると思います。

    素材やその扱いによって布を生かすデザインがありますが、
    若い学生さん達はそこにでデザインがないように思われる事が
    多いようです。若手は大手がするクチュールを表現する事は
    非常に難しいですが、不可能な事ではないと思います。
    (VICTOR&ROLFが卒業後作っていたクチュールは美しかった)

    問題はそこへどう向き合うかだと思います。
    若手に必要な事は既存からズレることではなく
    真摯に自己と向き合う事と本当に自分が望んだ美を
    追求する事であり、手法ではないと考えております。

    あくまで私の主観なのですが、そのような思いを持っている
    人もいるという事で。

  2. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    akira様

    素材についてakiraさんが仰ることはその通りだと思います。

    記事中の文章は言葉が足りませんでしたが、僕が言いたいのは「デザイナーが自分の「したいこと」と「できること」を把握し、そのなかで最大限の効果を生み出せているか」を評価の基準に入れてもよいのではないか、ということなんです。
    (ちょっと抽象的でわかりにくいかもしれませんが・・・)
    もちろん、技術不足を正当化するわけでもありませんし、努力や理想の追求が不要だと言っているのでもないことは強調しておきます。

    もう一点付け加えますと、評価の基準というものは人によって異なるものなので、徹底的に素材に焦点を絞って良し悪しを判断する人がいてもいいと思います。というよりむしろ、素材だけでなく、技術を見る人やコンセプトを見る人など、様々な人がいるべきだと思っています。
    作る側にせよ、批評する側にせよ、方法論や視点が画一化することほど面白くないことはありませんので。

    きちんと答えられていない部分もあるかもしれませんが、他にも何かあればご意見をいただければ嬉しいです。
    僕の考えはまだまだ甘いところや未熟なところだらけですので、問いを投げかけられるのはとてもありがたいと思っています。
    今のファッションにとって、こうした議論の場こそが必要だとも。