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HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て、京都精華大学ファッションコース専任講師。
ファッションの批評誌『vanitas』編集委員、ファッションのギャラリー「gallery 110」運営メンバー、服と本の店「コトバトフク」運営メンバー。

e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
twitter: @ihsorihadihsa

『vanitas』の情報は↓
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衣服の恣意性

前回の記事と関連した話を。

衣服は意味が生成する場だということを前回書きましたが、もう少し言うと、生成だけでなく変容の場でもあります。

少し前に放映されていた『ストライク・ウィッチーズ』というアニメはそのことをわかりやすく提示してくれます。

このアニメは、ブーツ型の機械を脚に装着して空を飛ぶ少女たちが敵と戦う、いわゆる戦闘美少女ものです。ここを見てもらうとわかるように、少女たちは皆、下着が見えているとしか思えないような格好をしています。

ところが興味深いことに、このアニメには「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」というキャッチコピーがあり、少女たちが見せているのは下着ではない、と言明しているのです。これは図らずも衣服(の名前)が恣意的なものであることを示しています。

つまり、一見(あるいはどう見ても)パンツにしか思えないものであっても、それがパンツ(=下着)であるという保証はどこにもなく、たとえばこれを水着と認識することも実は可能なのです。

これは、「いぬ」という音は必ずしも動物の犬を指し示すわけではない、ということと似ています。実体としての犬を指し示す音は、日本語では「いぬ」ですが、英語では「どっぐ(dog)」であり、フランス語では「しあん(chien)」です(このあたりの話を詳しく知りたい方は「ソシュール」や「シニフィアン/シニフィエ」といった言葉で検索をしてみて下さい)。

こうした対応関係は絶対的なものではなく、衣服の場合もそれと同じことが言えるのです。

もしかしたら「いやいや、それはアニメの話だから」と仰る方もいるかもしれませんが、例えば「見せブラ/見せパン」といったものもそうです。

本来は下着であるはずのアイテムを再定義することによって、そのアイテムを別のものへと変化させてしまっていると言えます。ここで重要になってくるのが、名指すという行為なのですが、これについては(多分)次回に書くことにします。

先入観や既存の概念にとらわれない発想によって新しいものが生まれる、と言ってしまうとあまりに陳腐なのですが、いまあるものに対して疑問を持つことは思考にとっても制作にとっても重要なことであることはいつの時代も変わらないと思います。

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