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HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て、京都精華大学ファッションコース専任講師。
ファッションの批評誌『vanitas』編集委員、ファッションのギャラリー「gallery 110」運営メンバー、服と本の店「コトバトフク」運営メンバー。

e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
twitter: @ihsorihadihsa

『vanitas』の情報は↓
http://fashionista-mag.blogspot.com/
http://www.facebook.com/mag.fashionista

生を規定するものとしての衣服

たまには時事ネタを。

先日、新幹線で全裸になった男性が逮捕されたというニュースをご覧になった方も多いかと思います。

このニュースはファッションを考える上で興味深い問題を孕んでいるので取りあげてみました。

まずひとつには、人前で衣服を着ないことがなぜ罪なのか、ということです。

これはかなり難しい問題ですので、問題提起のみで。

(SMAPのメンバーが公園で全裸になって捕まったときにも考えたのですが、僕にはどうしても答えが出せません。)

もうひとつは、逮捕された男性の次のような供述から引き出されるものです。

「服は親が買ったものだから、捨てないといつまでも自立できないと思った」(記事より引用)

このことは、衣服が私たちの生を規定しているものであることを再認識させてくれます。つまり、衣服とはただの装飾ではなく、それを身に纏う身体や精神にも働きかけるものでもあるということです。

たとえば、わかりやすい例では(19世紀までの女性が身につけていた)コルセット。これは女性の身体を外側からの力で変形させ、極端なフォルムを作り上げるものです。これは物理的な作用と言えます。

社会的なものの例としては制服があります。学校の制服はそれを身に纏う人たちを一つの集団として囲い込み、中高生「らしい」振る舞いを要求するものです。

そして、個人的なものとして挙げられるのが、このニュースの例です。他人からは何の変哲もない衣服にしか見えませんが、その入手の方法やこれまで着用してきた機会/場など様々な要素によって、この衣服が男性の精神を左右していたと言えます。

これは、たとえまったく同じ一枚の衣服であっても、その所有者/着用者や文化、あるいは時間の経過などによって持つ意味が変わってくるということを表しています。

衣服というものはただの完成されたプロダクトなのではなく、そこにさらに意味が生成してくる場でもあるのです。

これは衣服に限ったことではありませんが(個人的な思い出のこもった音楽や小説などもあります)、衣服の場合はその日常性ゆえにいっそう影響力が強く、また気づきにくいものになっているのです。

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