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HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て、京都精華大学ファッションコース専任講師。
ファッションの批評誌『vanitas』編集委員、ファッションのギャラリー「gallery 110」運営メンバー、服と本の店「コトバトフク」運営メンバー。

e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
twitter: @ihsorihadihsa

『vanitas』の情報は↓
http://fashionista-mag.blogspot.com/
http://www.facebook.com/mag.fashionista

後出しじゃんけん。

昨日の「ドリフのファッション研究室──ユースカルチャーとしてのカオスラウンジ、あるいはファッション」の話です。

後出しじゃんけん的な言い訳がお嫌いな方は今日は読まないでください。

まず反省点から。

昨日はモデレーターとしての力不足を実感しました。このことに関しても言い訳は山ほどあるのですが、それを差し引いてもあまりに経験と能力が足りなかったです。

もともと「朝まで生テレビ」の議論のように、相手の話を遮ってまで自分の意見を言うスタイルが好きではないので、僕自身の考えと合わなくても、話が少し噛み合ってなくても、途中で誰かの話を切ることができませんでした。たとえば、パネリスト二人の話が平行線をたどっていたとしても、お互いが話し続けていれば止めようとは思いませんでしたし、今から考えてみてもどちらの方がよいのかわかりません。

お客さんのなかにはパネリストの一人を目的として来ている人もいるはずですし、一人の話を遮ることはそのお客さんの楽しみを断ち切ってしまうことになってしまいます。

これは普段、大学でしている授業でも同じです。全員の希望を叶えることはできないけど、できるだけ多くの人が満足できるような話にしたい。1人と100人だったら100人を取ります。が、20人と80人だったらどちらも取りたいと思ってしまうのです。

こうした考えは「甘い」とも言われますし、事実、逆に多くの人が不満を持つ結果になってしまっていることもあるのかもしれません。

という考えを持っている時点で、モデレーターとか司会としては失格なんですよね。多分。

この点に関しては、明らかに僕の経験と見込みが足りませんでした。

会場にいらっしゃった方に対しては本当に申し訳なく思います。

それを補うことにはなりませんが、トークの直前に、モデレーターは自分の意見をあまり言わないようにと釘を刺されてしまったので、ここで僕の意見や感想などを。

今回図らずもモデレーターになってしまいましたが、テーマやタイトルに関しては

そもそも、カオス*ラウンジとファッションというテーマでまともに話ができるとは思っていませんでした。ユースカルチャーという補助線を引いたところで、僕の考えではカオスラウンジはユースカルチャーではないですし、MIKIO SAKABEも6%DOKIDOKIもユースカルチャーではないので、余計に話が混乱してしまいます。少し話したことですが、ユースカルチャーとして認識されるためには固有名から離れなくてはいけないと思っています。「カワイイ」であればユースカルチャーになり得ます。そこに固有名はないから。しかし、6%DOKIDOKIはあくまでオリジナルであろうとしている(もちろんこれはよいことです)ため、ユースカルチャーと呼ぶことはできない。僕の質問に対して黒瀬さんがオリジナルとフォロワーは違うと答えていたように、カオス*ラウンジもオリジナルであることを認めている。その点でユースカルチャーではありません。

だとすれば、どのような話に展開できるのか。それが前回の記事にも少し書いたように、「ゼロ年代の文化がファッションとどう関わらないのか」(東浩紀さんや宇野常寛さんの周辺を想定していますが)という問題です。インテリア・デザイナーをやっている浅子さんもいらっしゃったので、建築やデザインの分野までは包含されても、ファッションは何故その枠外にあるのか。そうした話ならできると考えたのですが、自分の意見を言えなくてはそちらに持って行くこともできませんでした。

あまりつらつらと書いていても見苦しいので、言いたかったこと、思ったことを端的に書いていきます。

まず、カオス*ラウンジに対する美術の世界での評価について。「カオス*ラウンジ」を過去の芸術の動向や手法と関連付けて、既存の文脈から外れたことをしていないと評する人たちが少なくありません(たとえば『美術手帖』6月号参照)。『新潮』8月号で椹木野衣さんもやはり破滅*ラウンジについて、過去の作家たちの作品やコンセプトと比較しながら「新しくない」という結論を出していましたが、それはあくまで視点が美術という分野のなかにあるかぎりにおいてです。

破滅*ラウンジのリファレンスを探るとするなら、それは美術のなかではなく、やはりアニメです。1998年に放送された『serial experiments lain』(以下、『lain』)というアニメがあります。このアニメはそれに先行するエヴァンゲリオンが精神的な自己(あるいは自意識)というものをテーマにしていたとするなら、リアルな世界とヴァーチュアルな世界における物理的な存在としての自己をテーマにしたアニメだと言えます。このアニメではもともと内気なヒロイン(岩倉玲音)がどんどん引きこもっていき、まさに(NANZUKA UNDERGROUNDの)「破滅*ラウンジ的」な部屋を作り上げます。

このリアルとヴァーチュアルを行き来することを通じて、逆説的に内向きのベクトルを増大する玲音を、渋谷という都会のなかにある閉じられた空間に再現したものだと考えられます。(さらに言えば、このアニメでは「サイベリア」という名のクラブも重要な役割を果たしており、「破滅*ラウンジ」で流されるトランス的な音楽を踏まえると、玲音の部屋とサイベリアを一体化させたものだとも見ることができます)『lain』というアニメを参照することなく、別の文脈に位置づけることで「破滅*ラウンジ」を新しくないと結論づけるのは、破滅ラウンジを読解するための知識に欠けたためだと言えるでしょう(誤解のないように付け加えておきますと、もちろん「美術」に関しては椹木さんが優秀な批評家であることは疑いようのない事実ですが、カバーできる範囲には限界があるという意味です)。

ファッションとアートという話で、坂部さんから村上隆とルイ・ヴィトンのコラボレーションの話が出てきましたが(他の例としては、サルバドール・ダリがエルサ・スキアパレッリの服にロブスターを描いたというものもあったりしますが)、個人的には、こうした表面的な意味でのファッションとアートという関係からはあまり生産的な議論ができるとは思いません。

マンガのキャラクターを画家が自分の作品に描いたものをとりあげて、マンガとアートの融合だ!と言っても何ら発展性がないのと同じです。

これまで、ファッションとアートというテーマ設定の展覧会などがいくつもありましたが、こうした展覧会がとりあげるものは、「衣服の形をとった美術作品」でしかないことが多いです(特に戦後のものは)。「ファッション」の話をする場合には、ファッションの歴史やこれまでファッションについて語られてきたことを前提として理解することが必要ですし、「アート」の場合も同様です。

それならば、「ファッションとアート」について話をするときにも、「ファッションとアート」の歴史やこれまでの言説を確認しないといけません。そのあたりを飛ばした議論はそもそも無理なので、話を噛み合わせることも不可能です。

長くなってしまいましたので、今日はこの辺でやめておきます。

昨日のトークに関してでも、ここで書いたことに関してでも、ご意見やご批判があればコメントに書き込んでください。匿名でも構いませんので。身内からもすでに痛いほどの批判をいただいていますが、色々な意見を聞けると今後の参考になりますので。

8 Responses to “後出しじゃんけん。”

  1. S_Takahisa より:

    はじめまして。
    考察の深さと引用の多様性に大変興味深く拝見させて頂いています。

    個人的には、モデレーターと言うよりゲストとして「意見」を述べて頂きたかったです。

    >「ファッションとアート」の歴史やこれまでの言説を確認しないといけません。

    という事は、非常に納得します。
    二時間程度のトークセッションで話せる議題ではないと思います。
    そもそも、ファッション系のトークショーのみならず、アート界隈等でも行なわれているトークショーでも面白い人やタイトルが揃ってもコンテンツが見合っていない時が多々あるように感じます。
    改めて、気軽に出来るユーストリームだからこそ、トークショーでの位置づけを考えなければいけないように思います。

    それにしても、レインの比喩素敵です。
    すっかり、あの三次元と二次元の関係性とカオスラウンジの関連性を忘れていました。

    そして、事象に対して、他者にも自身にも真摯に受け止める姿勢に尊敬します。

  2. akikomurata より:

    蘆田さん、
    初めまして、
    お疲れさまでした。
    ご本人に取っては不完全燃焼観は在ると思いますが、
    (そして、観客の方からも蘆田さんのご意見をもっと聞きたいという声が
      多いのだと思われますが)
    あそこに蘆田さんの存在が在った事で、
    場も締まったと思いますよ。

    ”付加価値の付け方”みたいな事に対して、(御時間の関係で深く突っ込むことが不可能だったとはおもいますが)お互いに学び合う事が多いトークだったのではないかとおもいました。
    ”ファッション”と、云う付加価値 ”アート”と、云う付加価値、根底にあるルールが違っても人を魅惑する魔法みたいな物は似たところが在って、

    黒瀬さんが、これはアートである、アートでない、アートとするにはどういうフレームをかけるべきなのか、
    新しい物である、新しくないものである、

    その辺の 線引き と 足し引き の 活性剤 としての必要性を認知され、実行されている姿勢が良くわかって興味深かったです。

    私は、ファッションはアートではない故にファッションなのだと思っています。
    でも、文化には大いに貢献している物だと思います。

    増田さんが仰っていたファッションの身体性を使っての活動を
    彼らの手法で考えると、どういう波紋の与え方に応用できるのか、そのときの
    彼らが”衣服”というものを用意しなければならないとしたら”コスプレ”なのか、それとも。。。

    ファッション帝国の中での裁きをする裁判官や法律は
    ファッションの活性剤になりうるのかもしれないな、と思いました。

    コスプレ作家はファッションデザイナーと云うカテゴリーに当てはまるのか?
    etc…(最終的に結果論になってしまうと思いますが 笑)

    今後とも、蘆田さんの御活躍を楽しみにしております。
    arigatou,

  3. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    >S_Takahisaさま
    コメントありがとうございます。

    「ファッションとアート」は気軽に使われるテーマだからこそ、個別的な事例から始める必要があると思っています。
    トークショーは議論の前提の共有(話す側も聴く側も)が難しいですよね。
    今回は色々と考えさせられました。

    STUDENTS VOICE、いつも興味深く拝見いたしております。
    一人での運営は大変だと思いますが、がんばってください。

  4. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    >akikomurataさま
    ご意見ありがとうございます。

    「活性剤」の必要性のお話はたしかに興味深かったです。
    ただ、そうした話を聞くだけならば黒瀬さんだけのトークでもいいはずですし、それをファッションの話にうまく持って行けなかったのは僕自身の力不足です。

    >私は、ファッションはアートではない故にファッションなのだと思っています。
    >でも、文化には大いに貢献している物だと思います。

    というakikomurataさんのご意見、僕もまったく同意見です。
    それぞれ固有の歴史や文脈、構造などを持っているので、ファッションをアート(美術)と考える必要はまったくないと思っています。
    アートを広義の芸術と捉え、美術・建築・漫画・映画などをそこに含めるという考え方であれば、ファッションがそこに入っていても不自然ではありません。

    akikomurataさんのお考えはファッションの定義をどのように捉えるかで色々と変わってくると思います。
    それが衣服というモノなのか、流行という現象なのか、あるいはまた別の何かなのか、それをひっくるめるのか・・・
    カオス*ラウンジをファッションと結びつけると言うときに、それが「うしじまラウンジ」のようなコスプレとしての衣服の話をするのか、それともモノをベースとしてそこからイメージを創り出す手法という観点から考えるのか。

    「コスプレ作家はファッションデザイナーと云うカテゴリーに当てはまるのか?」
    本当はこうした問題も真剣に考えるべきなんですよね。そうしたところからも、「ファッション」がすこしずつ見えてくるはずですから。

  5. robbyronny より:

    Twitter上での宇野常寛さんとのやりとりに興味を持ち、蘆田さんのブログを拝見させていただきました。批評の言葉でファッションが語られないことに違和感を感じていたので非常に興味深いです。

    そこで質問なのですが『ファッションと「物語」』というときの物語とブランディングに違いはあるのでしょうか。

    また、新しい分野に批評の言葉を導入するとき、東浩紀さんが「Air」を取り上げて美少女ゲームを評価したように、また宇野常寛さんがクドカンや平成仮面ライダーなどのテレビドラマを語ったように、「ファッションの批評といったらこれ!」といった批評の対象が必要になると思います。すると、writtenafterwardsにはその推進力とリーチが欠けているように感じているのですがどうでしょうか。

  6. KING.J より:

    Ustreamで拝見させていただきました。
    僕個人の意見としては蘆田さんの役割はもっと冷徹に在るべきだと感じました。もちろん、平行線の上でも興味深い話は多々ありましたが、それ故に終わった後の、目標に到達できなかった、というようなモヤモヤ感が否めません。
    おっしゃられているように、カオスラウンジサイド、ファッションサイド、双方において知識の不足が大きな問題です。現代日本アートの歴史と文脈、現代日本ファッションの文脈、まだまだおおきな隔たりがあると感じました。
    LVと村上隆、ダリとスキャパレリのコラボレーションについては蘆田さんの意見に全く同意します。それを平然とした顔で「アートとファッションはここで出会った」と言う服飾史の本を僕はずっと懐疑的に思っていました。
    それならばカオスラウンジも同じ現象として扱えるのではないのか。アニメを解体、コラージュ、複製をしてそれを芸術的文脈におくだけでアートになり得るのでしょうか。
    論じられるべきは、日本のファッションの根本的美意識とカオスラウンジが生まれた時代性と場所=「日本」の美意識の最大公約数を見つけ、発展させることだったのだと思います。

  7. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    >robbyronnyさま

    ブログをお読みくださりありがとうございました。
    どちらのご質問も的確なものだと思います。

    まず一つ目のご質問ですが、「物語」という言葉は二通りの意味で使いました。
    ひとつは「お話」という意味のもの(FUGAHUMなど)ですので、こちらに関してはブランディングとはまったく異なることはわかっていただけると思います。

    もうひとつの方は、別の言葉では「意味or情報の付与」とも言ってもよいかもしれません。
    これはブランディングのように必ずしもそのまま価値の生成につながるわけではないと考えているのですが、このあたりはもう少し綿密な議論が必要だとも自覚しております。

    次に批評の対象の件ですが、確かにrobbyronnyさんが仰る通りです。
    他分野と比べると、決定的な新しさと強度を持った作品が出ていないと思います。
    ただ、僕自身が批評の方法論を模索中ですので、なかなかそれを断言することもできません。作品を評価する新しい視点を見つけることができれば、もしかしたら既存の作品にも「ファッションの批評といったらこれ!」というものが見つかるのかもしれないので。

  8. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    >KING.Jさま

    ご意見ありがとうございます。
    「もっと冷徹に在るべき」とのご意見はもっともだと思います。
    それに加えて、僕自身に着地点が想像できなかったということも問題でした。

    「カオスラウンジサイド、ファッションサイド、双方において知識の不足が大きな問題です」とのことですが、僕が言いたかったのは知識というよりも、議論の前提です。たとえば、ファッションの定義などのような。
    この場合、知識ではなく、どのように考えているかが問題となるので、そのあたりをまず共有できればよかったのですが。。。

    もうひとつ、カオス*ラウンジに対するKING.Jさんの見解についてですが、カオス*ラウンジはアニメを使うということだけでなく、背後にあるアーキテクチャやコミュニケーションのあり方にも特徴があるので、村上隆×ルイ・ヴィトンの場合とは異なると思っています。