もう3年前になるのですが、H川武治さんのブログでこんな記事が書かれていました。
「若き二人の発言者、蘆田裕史と工藤雅人のレベルとは、/昨年末のANRAELAGEの会で。」
http://lepli.org/discipline/articles/2013/02/post_105.html
内容があまりに香ばしかったので、3年前にこの記事を読んだときもコメントしておいた方がよいかと思ったのですが、こういうことを書く人はおそらく愉快犯のようなものと一緒で、リアクションを取った方が相手を喜ばせるだけだろうから、放っておくことにしました。どうせそのうち人の目に触れないようになるだろう、と。
ところが、最近自分の名前で検索をしたところ、この記事が検索結果の上位に残っているのを見つけました。こういう妄想に基づいた発言が残り続けて、事実っぽく扱われるのも面倒なので、とっても今更ながらコメントをしておくことにします。
H川さんはこう書いています。
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彼の発言は“M.WORTH/Charles Frederick Worth”のクチュールの時代が
現代の時代性に類似しているというもの。
1911年に彼がロンドンから巴里へ進出し、自分のオーダーメイドシステム
今で言うところのクチュールハウスを開きそれ以後、
巴里でのオートクチュールビジネスの時代が始まった。
この様な時代性が現代に類似しているとうい単純な表層からの一般的な知識の
見せびらかしを行った。しかし、それを視点にするなら彼、M.WORTHの
当時の時代性と社会性からその時代の新しさを先ず説明すべきであった。
M.WORTHが何のよりどころも無くロンドンから巴里へ来てクチュールハウスを
開店したのではない。彼なりの”時代の読み”が根拠としてあったからであり、
これを先ずは説明した上でこの若き評論家は学んだ事と経験とによる視点で分析し、
比較した上での論点でなければ無ければその論説は主張出来ない。
難しいカッコ付けの言葉の空売りがモード評論では無い、
モードとはその時代の社会性と時代性に乗っかって展開して来たものである。
思ったとうりの、所詮、『論語読みの論語知らず』。
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要するに「アシダはこんなことを言っている→だからあいつは馬鹿だ」という論旨で、これを読んだ人は「ああ、たしかにアシダは何もわかっていなそうだなあ」と思ってしまいそうな文章です。でも、この場にいた人はわかってくれると思うのですが(覚えていれば)、そもそも「アシダはこんなことを言っている」という部分が間違っているんですよね。僕の発言は「現代のファッションはワースが始めたシステムを踏襲しているけど、これからはむしろワースより前のシステムに可能性がある」という趣旨のもので、何をどう誤解したらこうなるのやら…という感じです。
さらにひどいのはここ。
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彼の穿いていた下モノはM.ブランドの200%エゴに挑戦しているデザイナーからの
貰った物を身に付けての登場も含めて、森永君をナメての登場か?
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僕が自分で買ったものを着ていったのですが、なぜそれを「もらったもの」と思い込んでるのかほんと意味不明です。
僕がH川さんの記事を僕が問題視するのは、この人の妄想の事実確認ができないことなんです。この人のほかにも、僕のことを目の敵のように思っているのか、僕が新しい文章を発表する度にわざわざチェックして難癖をつけてくる人もごく稀にいたりしますが、それは別に構わないんです。というのは、公にされた文章であれば、興味を持った人はそこに何が書かれているのか確認することができるから。ファッションデザイナーが発表した作品について僕が発言する権利があるように、僕が発表した文章について発言する権利があるので。それがいやなら社会に向けて発表しなければいいだけです。
H川さんのは悪質なデマ以外の何ものでもない上に、それを誰も検証できない。しかも関わるのが面倒だと思って放置をしてしまうから、本人はさらに調子に乗る。Twitterなんかで議論をしていて、面倒になった相手が無視し始めると「論破してやった」と勘違いする人がいますよね。それと同じです。最近の記事でも、ある若手デザイナーたち(もう中堅と言ってもいいかもしれませんが)「集団で僕の鎌倉へ”泣き”に来た」と書いているのを目にしました。これに関しても、「泣きに来た」かどうか(そもそも「泣きに来た」のではなく、「泣きつきに来た」と言いたいのでしょうけど)は事実かどうか第三者にはわからないんですよね。
こういう「俺だけが真実を知っていて、俺だけが正義だ」と勘違いしている人はちらほら見かけますが、本当に迷惑なので、とっとと退場してほしいものです。
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追記。
実は今日の記事は半年前に途中まで書いて、放置していました。こんな文章書いても楽しくないし、生産的じゃないし。でも、最近身の回りで似たような被害に巻き込まれる人を見て、やっぱり放置することこそ非生産的なんだと思うに至りました。今話題になっている豊洲市場でもそうですよね。デマを撒き散らし続ける人に対して誰かがちゃんと反論をするから少しずつ問題が解決されつつある。そもそもデマがなければ反論の必要もないから反論は無駄な労力でしかないけれども、それでもデマは放置しちゃいけないんだな、と。世の中から妄想でデマを撒き散らす人がいなくなればいいのに、と切に願いながら筆を置きます。