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HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て、京都精華大学ファッションコース専任講師。
ファッションの批評誌『vanitas』編集委員、ファッションのギャラリー「gallery 110」運営メンバー、服と本の店「コトバトフク」運営メンバー。

e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
twitter: @ihsorihadihsa

『vanitas』の情報は↓
http://fashionista-mag.blogspot.com/
http://www.facebook.com/mag.fashionista

素材について

明けましておめでとうございます。

今年も少しずつブログを更新していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

昨年書いた記事について、誤解があるかもしれないようなので(コメントをご参照ください)、その補足をちょっとだけ。

みなさんご存知だと思いますが、ZOZOTOWNというオンライン・ショッピングのサイトがあります。少し前のリニューアルで、twitterと連動して商品に対するツイートがトップページに表示されるようになったのですが、そこを見ていると最近このLucien Pellat-Finetのニットが(高すぎると)話題になっているようです。

Lucien Pellat-Finetは上質のカシミアを使っていることで有名ですが(そして当然価格は高くなります)、果たしてこれは良い作品と言えるでしょうか。

基準の立て方によってその評価は変わりますので、ここではイエスともノーとも言いませんが、ここで言いたいのは必ずしも素材が良い=良い作品とはならないということです。つまり、ファッション・デザイナーにとって素材はあくまで素材であり、それをどう生かすかという点が重要だということが先述の記事で意図していたことです。その意味ではコメントを下さった方と同じ立場だとも言えます。

料理を例に取ってみるとわかりやすいかもしれません。

良質の素材を使って、その素材の味を生かした料理を作る人と、それほど良いとは言えない素材を使って、その素材が持っているもの以上の味を作れる人。どちらをより良いとするかは立場の問題であって、どちらが正しいとかそういう話ではありません。

(批評は二者択一や採点に還元されるものではありませんので、こういう二項対立も単純化し過ぎではありますが・・・)

ただ、料理にせよファッションにせよ、文化としてみたときには良質の素材の存在によってさらに成熟するというのも事実ですので、決して良い素材が不要だと言っているわけではないことは改めて強調しておきます。

前述のLucien Pellat-Finetのニットの話からは他にも色々と考えられるのですが(たとえば、あれが美術作品であっても同じような反応になるのかなど)、長くなってしまうので今日はこのあたりで。

もうひとつ、年末にお知らせし忘れていたことを。

『ハイファッション・オンライン』で東コレのレポートを書いていますので、興味がある方はご覧下さい。

ごあいさつ。

もう少しで2010年も終わりますので、今年最後のブログ更新です。

改めて所信表明のようになってしまうのですが、少しだけ。

半年間、このブログでは真面目なことばかり書いてきました。

ですので、どれだけの方が読んでくださっているかは正直わかりません。

ファッションの魅力は何よりもその楽しさにあるので、ことさらにファッションについて考えることは必要がないと考える方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、楽しむだけでも問題ないのですが、それと同時に、ファッションが文化として成熟するためには「考える」ことは不可欠だと僕は思っています。

その意味でも、このブログにコメントを下さる方がいらっしゃるのはありがたいです。もちろん、肯定的な意見だけでなく批判もありますが、それがあってこそ議論の場として成立するのですから。

今はブログよりもtwitterの方がメディアとして勢いも発信力もありますが、ブログにはブログの良さがあると思います。先日も、過去の記事にコメントをいただけましたが、これもブログの特性のひとつですよね。

いただいたコメントは必ず返信するようにしていますので、よろしければ、たまにコメントものぞいてみていただければ幸いです。

書いているうちに年が変わってしまいそうなので、このあたりで。

このブログを読んでくださっている方、ここを通じてお会いできた方、そして編集長の滝田さん、皆様どうぞよいお年をお迎えください。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

DV8『The Cost of Living』と美しい身体?

ファッションではイメージを構築するために、「美しい」モデルが使われます。「細すぎるモデルは禁止」という規則が設けられたりもするように、一般に細身で背が高いことを良しとされていますが、「美しい身体」というのは本当にそれだけのものでしょうか。

というようなことを考えさせてくれる映像作品です。

ユニバーサル・デザインやインクルーシブ・デザインという概念を最近よく耳にします。ファッションでは、たとえば水野大二郎さんがこうした問題を考えています。

しかしながら、こうしたデザインの重要性を承知した上であえて言うと、同時にインディヴィジュアルなデザイン、あるいはエクスクルーシブなデザイン(しばしば使われるような特権意識を与えるような意味ではなく)というのも考えていく必要もあるのではないかと思っています。これはおそらくファッションというよりむしろ舞台衣装(=コスチューム)の領域でこそ考えやすい問題でしょう。そもそもコスチュームは個別性が強いものですから。

個人的な話なのですが、「人間工学に基づいた」というキャッチコピーの靴を買ったことがあるのですが、僕にはどうもあいませんでした。履いていると足だけでなく脚まで痛くなってしまうのです。そのとき、「ああ、僕は『人間工学』の対象から外れた非人間なんだな」とふと思ったのです。もちろんそんなに深刻ではありませんが。

世の中には「絶対」はない、とよく言われます。普遍的なものを追い求めたとしても、必ずそこからこぼれ落ちてしまうものがあります。それをどう拾い上げていくか、というのはいつも難しい問題です。

ちなみに、文章を書くときにそんなことばっかり考えていると、断定することができなくなって、ついつい語尾が「思います」ばっかりになってしまって困ります。多分、このブログでも「思います」が多用されているはずですので、お気付きになったらご指摘いただけると幸いです。

衣服が纏うもの

「あなたはなぜファッションが好きなのですか?」

この種の質問を改めて投げかけられると、なかなか答えることが難しいように思います。

ここで告白するようなことではないのですが、僕はファッションについて書くことを一生の仕事(と言えるほど大層なことはできませんが)にしたいと思っていますし、自分の研究の対象としても、ファッションというものを常に軸に据えたいとも思っています。

ですが、こういう話をすると、「何でそんなにファッションが好きなの?」と聞かれることがたまにあるのです。

ある対象を好きな理由というものはなかなか説明が難しいのですが、「どこが面白いのか」と問いをずらせば少し答えやすくなるかもしれません。

個人的には、その理由のひとつにファッションの「未完成さ」があるように思います。

以前にも書いたとおり、一枚の衣服の情報量はごくわずかしかありませんが、そこから「ファッション」を作り上げるにはその少ない情報を補っていく必要があります。

服のイメージにあわせたモデル、ファッション写真や映像、ショー、インスタレーションなどさまざまな手法を用いて、衣服をファッションにしていくと言えるのではないでしょうか。このプロセスは、たとえばファイン・アートにはあまり見られないものです。

ファイン・アートの場合、作品写真は単なる記録写真でしかなく、そこに余計なイメージが付加されることは良いことではありません。しかし、ファッションの場合はその写真すらイメージの構築の方法として取り入れています。

文学理論にパラテクストという概念があるのですが、これは簡単に言えば、テクスト(本文)に付随する諸々の要素(たとえば、題名や後書き、目次や註など)のことです。

衣服をテクストと捉えれば、先ほどあげた写真やショーなどがパラテクストだと言えますが、ファッションの場合はこのパラテクストの重要性が高いこと、そしてパラテクストの表現が多種多様であることが面白さの理由のひとつだと思われます。

こう考えてみると、たとえばストリート・スナップが人々の注目を集める理由も説明できるように思います。ストリート・スナップは衣服というテクストに付加されるパラテクストであり、作者の意図から外れたところで衣服に情報を与え続けることができるのです。

私たちは衣服を身に纏うことで変身することができますが、衣服も同様に、それが身に纏うものによって変化し、様々な様態を私たちに見せてくれるのではないでしょうか。

Fashion Criticism (in english)

It is true that some designers may not be interested in the act/system of criticism, but it must be useful for designers to survive for a long time. In my opinion, one of the reasons why some Japanese designers who got a lot of attention in the 90’s and in the early 00’s (Shinichiro Arakawa, Yoshiki Hishinuma, 20471120, beauty:beast, and so on) have downsized or closed their business is the absence of fashion criticism.

Though I do not know, however, if we could establish fashion criticism, I will consider its possibility through this blog.

In the first place, what is the object of fashion criticism?

In the case of art criticism, its object is a piece of artwork or an exhibition.

Likewise, the object of music criticism is a piece of music, a CD or a concert.

Film criticism and theatrical criticism also have their clear objects.

Then what is the object of fashion criticism?

A piece of clothing?

Is it possible to criticize a piece of clothing just like criticizing an artwork?

Compared with a piece of other genres, the amount of information contained by a garment is too small. Therefore a critique of a piece of clothing is almost impossible. Apparently there were some epoch-making ones, but such works rarely come out.

Then, another possibility is that you consider a colletion as a unit and this way is similar to criticize an exhibition in art criticism. Yet a problem in fashion system arises; that is, an opportunity to see a fashion show or an installation. While exhibitions last generally for some weeks or some months and are open to the public, fashion shows take place just one time and limited to clients, journalists, and buyers.

Moreover, archive system of fashion is not adequate. As art museums buy and collect works of art in the realm of fine arts, forepast works are often exhibited. On the other hand, institutions for fashion archive are very few, so it is difficult to criticize such old works.

This situation is pronounced especially in Japan in comparison to other countries. Recently I heard that a museum in Taiwan will organize a retrospective of Japanese label “mintdesigns,” although such exhibition has not yet held in Japan. This represents a huge problem in Japanese fashion. Now we need try to establish fashion criticism to change this situation.

ずらしの手法とSHIDA TATSUYA

ファッションにおける作品の評価基準について、素材の良し悪しを基準にすることは適切なのでしょうか。

たとえば、上質の素材を用いて作られたベーシックなアイテムもファッションにおいては大切であることは僕も認識しています。ですが、乱暴な言い方であることを承知した上で言えば、そうした作品は誰でも作ることができてしまいますし、そこで勝負をするのであれば、資本力のあるブランド、量産・販売体制の整っているブランドの方が生き残ることになってしまうでしょう。

(もちろん、素材を軽視しているわけではなく、その「使い方」が重要だという話です。)

これは同時に、ファスト・ファッションとの差異化にもつながります。ファスト・ファッションのブランドは数を売らなければ採算がとれないため、そのデザインは最大公約数的なものになってしまうからです。

だとすれば、(とりわけ若手の)デザイナーに必要な手法のひとつが、既存のもの(ベーシックなものであったり、既に流通したデザインであったり)を「ずらす」ことだと考えることができます。

そうした視点から見ると、今回のSHIDA TATSUYAはその「ずらし」の表現がうまくできていたように思います。

フランス的なものの表象でもあるトリコロールに敢えて彩度の低い色を使い、フレンチっぽさをひねってみたり(イタリアのトリコローレも使っていましたが)、トレンチコートの背中にポケットを配して巷にあふれるものと差異化を図ってみたりと、奇をてらわないちょっとした「ズレ」を表現できていたように思います。こうしたSHIDA TATSUYAが提示するズレは、フランスギャルというベタベタな選曲によってさらに効果的になっているのです。

さらに付け加えるなら、前から見ると何の変哲もないように見えるトレンチコートは、フロントスタイルのみをウェブで見て事足れりとする昨今の風潮に異を唱えていると考えることもできるでしょう。

twitter

最近、ツイッターでブログについてのご意見をいただくことが出てきたので、アカウントをさらそうかと思います。

http://twitter.com/ihsorihadihsa

他の人気のあるデザイナーさんたちとは違って、誰も僕の日常なんかに興味はないだろうと思っていたので、わざわざ公表していなかったのですが、ここに直接コメントを書くよりも意見を書きやすい場合もあるかな、と。

ほんとに中身のないツイートばかりしていますが・・・

ついでに。

ここでもお知らせした京都造形芸大の学生の展覧会に際して『ファッション・クリティーク』という雑誌が発行されました。

大久保俊さんも寄稿していますので、よろしければ。

いまのところ、sferaでの展覧会会場でのみ購入(500円)ができます。

ANREALAGEと可塑的な身体

ANREALAGEは批評の対象にされやすいと思われるかもしれませんが、実はその逆で、これほど批評が書きにくいデザイナーはいないのではないでしょうか。というのは、身体のプロポーションを変えてしまった前回のコレクションも同様ですが、見る人すべてがコンセプトを理解してしまうからです。これは、ANREALAGEのプレゼンテーションの巧みさに起因します。

今回のショーであれば、インヴィテーションに添えられた風船が何を意味するのか、それを推測するところから謎解きが始まります(もちろん、インヴィテーションがなくとも問題はありませんが)。ショーが始まると、明らかにフォルムのおかしな身体をもったモデルが登場しますが、空気でふくらんだ肩にエポーレットが付いていたり、途中で空気のない普通の身体があらわれたりと、徐々にヒントが与えられ、最後に空気の抜けた身体に着せられた服によって解答が提示されます。

美術にせよファッションにせよ、一般にコンセプチュアルな作品というものは説明なくして理解することができません。マルセル・デュシャンの便器(『噴水』)やマルタン・マルジェラの黴ドレスなどを、作品だけを見て理解することはほぼ不可能です。しかし、ANREALAGEは、視覚的な要素のみでコンセプチュアルな作品を理解させてくれます。このわかりやすいコンセプチュアルはANREALAGEの大きな特徴のひとつだと言えるでしょう。そして、このわかりやすさ故に、批評的なテクストを書くのが難しくなってしまうのです。

とはいえ、ANREALAGEにおいて評価できる点はこのプレゼンテーションだけではありません。ここでは、今回のコレクションにおける身体の問題について考えてみたいと思います。

これまでのファッション論でも、身体と衣服との関係が問われることはしばしばありました。ですが、そこで扱われる身体は概してスタティック(静的)なものとして捉えられていたように思われます。しかし、身体は本当に静的で固定化されたものなのでしょうか。

成長が止まってからも、私たちの身体は絶えず変化しています。ダイエットで痩せてみたり、食べ過ぎて太ってみたり、トレーニングで筋肉をつけてみたり、あるいは妊娠によって腹部だけが膨らむこともあります。

さらに、整形(形成)手術(plastic surgery)など外部からの力によって身体を変化させることも可能です。こうした変化する身体を可塑的(プラスティック)な身体と呼ぶこともできるかもしれません(*1)。哲学者のカトリーヌ・マラブーは可塑性(plasticity)という概念について、形を受けとる能力と形を与える能力を同時にもつと述べているのですが、これはそのまま身体と衣服との関係にもあてはまるように思われます。身体は、たとえばコルセットによって形作られることもあれば、逆に身につけられたマタニティ・ウェアのように、衣服のフォルムを規定することもあります。ANREALAGEはこの身体の可塑性を、まさにプラスティックの素材によって作られた身体を用いることで私たちに見せてくれたと言えます。

今回のANREALAGEの作品は、コム・デ・ギャルソンの「こぶドレス」と比較されたりもしているようですが、こぶドレスはその通称が示しているように、あくまで衣服にこぶがついたものであり、既存の身体観で見るならば身体の問題を提起しているとは言えません(*2)。ですが、ANREALAGEはショーの最後にプラスティックな身体のみを提示していたことからもわかるように、はっきりと身体への眼差しが見て取れるのです。

後半部分は色々と端折りすぎたので、わかりにくい内容になってしまったかもしれませんが、ANREALAGEが提示する身体からは、様々な問題が引き出せることを理解してもらえればと思います。

(*1) 「可塑性」のもっと精緻な議論に興味がある方は、千葉雅也さんの「マラブーによるヘーゲルの整形手術」(『ヘーゲル入門』)を参照下さい。

千葉さんがここで、ドラァグ・クイーンへの「変態」について言及しているのですが、ファッション論的にはこのあたりの議論も面白いと思います。

(*2) 以前少し書いた、「潜在的な身体としての衣服」という身体観をとる場合、また別の話になるのですが、ここでは省略します。

トークイベント×2

前回に続いてANREALAGEについて書こうと思っていたのですが、その前にお知らせをふたつほど。両方とも京都なのですが・・・

11月6日(土)18時〜、以前にもお知らせした展覧会「ネオ・ジャポニズム、なう」のオープニングトークに参加します。水野大二郎さんとの対談です。

詳細は下記の画像をご参照ください。

USTREAMでの配信も予定しているそうです。

アドレスはまだわかりませんが、ここで何らかのお知らせが出ると思います。

もうひとつ、京都造形芸術大学にあるGALLERY RAKUでの展覧会「スティルライフ/CENTER EAST + 井上雅人」展のシンポジウムにパネリストとして参加します。

石関亮さん(京都服飾文化研究財団)、井上雅人さん(武庫川女子大)、成実弘至さん(京都造形芸術大)、百々徹さん(神戸ファッション美術館)と、僕以外は錚々たるメンバーです。

こちらの詳細に関してはここをご覧下さい。

お時間のある方はぜひ。

ASEEDONCLOUD──物語とエレガンス

JFWの期間中、ショーや展示会をいくつか見てきましたので、そのうちのいくつかのブランドについて良かった点、課題となる点を書いていきたいと思います(今日は手放しで褒めてしまうのですが)。

以前、ファッションにおける物語の話をしたときに、物語性はひとつの基準になり得ると書きました。それは、デザイナーがどれだけコンセプトを考えて制作をしているかの証左でもあり、何よりもファスト・ファッションと差異化を図ることができるからです。

坂部三樹郎さんがブログで書いていることともリンクする話ですが、上質な生地を使って作られたベーシックな衣服を評価としたら、大手の企業や資金のあるデザイナーの方が良いものを作れるということになってしまいます。

もしファッション・デザインに作家性を見出すのであれば、デザイナーがオリジナリティのあるコンセプトを立てているか、それをうまく衣服で体現できているか、そしてそれに適したプレゼンテーションを行っているか、という観点から評価をすることも可能だと思います。

そうした基準を考えたときに、評価できるのがASEEDONCLOUDで す。このブランドは毎回ひとつの職業をとりあげ、彼/彼女のユニフォームをテーマとしているのですが、今回の職業は街作家。この職業の人がどのような生活 をして、どのように行動し、考え、何を好むのかをあらかじめ考えた上で、その設定が衣服に織り込まれています。ポケットなどひとつひとつの要素にちゃんと 意味が込められ、まさに無駄のないデザインです。

ファッションではしばしばエレガントという言葉が使われますが、aseedoncloudの衣服のようなものをエレガントなものと呼べるのではない かと考えています。エレガントの語源、ラテン語のelegantem(立派な)は、e-(外へ)+ -legant(選ぶ)=選び出されたという意味だとされています(手元にある辞書からの引用なので、もう少し調べないといけませんが)。だとすると、単 に優雅というよりも、ミニマルでありながら、選び抜かれたデザインがなされたものをエレガントと呼ぶことができるのではないか、と。

今回のコレクションにある、ペンのキャップのようなフォルムの一輪挿し(ポケットにさせる)について、デザイナーの玉井さん自身は「こういう無駄な プロダクトも作りたかった」と語っていました。ですが、花は生きる上で直接必要がなくとも、旅を続ける街作家の心にとっては決して無駄なものではありませ ん。こうした人の振る舞いや、気持ちまでもが考え抜かれた服作りこそ、良いデザインだと思います。

また、家をかたどったポケットが付けられていたりもするのですが、屋根の形をフラップで作っていたりと、不要な付加物を用いることのないデザインがなされてもいます。

ひとつの世界観を継続して表現していくASEEDONCLOUDのようなスタンスのブランドは、集めることの楽しさを与えてくれるだけでなく、受け手が過去の作品を「古い」と考えることがなくなる点も良いですね。古いのではなく、別の職業=視点の衣服というだけですので。

美術館や研究機関もこういったブランドを継続的に収集すれば、将来的に面白い展示ができるようになるのではないでしょうか。僕自身、今回のThis is Fashionでのインスタレーションは残念ながら実物を見ることができなかったのですが、数年後、あるいは数十年後にすべての職業が出そろったとき、 ASEEDONCLOUDの作る世界が体現されたインスタレーションを是非とも見てみたいと思います。

写真がないので、changefashionにアップされることを期待しつつ。

批評基準について その1

東京も本格的にコレクションシーズン突入ですね。

ファッションの批評の可能性を考えるにあたって、批評の基準というものは必ず考えていかなければならないものだと思っています。

他分野の批評家でも、基準を明示している人はあまりいないように見受けられるのですが、誠実な批評を心がけるのであれば、そこは避けて通れないところだと思っています。ただ、これは本当に難しいことで、すぐに答えが出せるようなものではありませんし、このブログでも色々とご意見をいただければ嬉しいです。

そもそも、なぜ基準を明確にしなければならないかというと、「良し悪し」と「好き嫌い」を決して混同してはならないことが理由のひとつとして挙げられます。批評は決して「好き嫌い」で語るものではないからです。

よく「批評なんてその人の好き嫌いでしかない」と言われることもありますが、それはまったく違いますし、そういう人がいるとすれば、その人がやっているのは批評ではありません。

もっと言えば、批評家の数だけ批評基準があるはずですし、批評家によって作品の評価が割れることは何らおかしいことでもありません。ただ、その差異をどのように議論できるのかが生産的な批評の場だと思いますので、そのためにも基準は常に考えていかねばなりません。

Aさんの基準では「良くない」と判断されてもBさんの基準では「良い」となることもあります。基準がはっきりしていればなぜ評価が割れるのかも考えることができますが、基準がなければ、それ以上議論を展開することができなくなってしまいます。

(たとえば、パリのモード&テキスタイル美術館の学芸員が展覧会の出品作品を選ぶ基準を聞かれたときに、「別に基準はありませんでした」と答えたりしていますが、それでは「好き嫌い」にしかなりません。http://fashionjp.net/highfashiononline/feature/exhibition/lesartsdecoratifs.html

ファッションでそんなことをしている人はなかなかいないのですが(僕が知らないだけかもしれませんが)、平川武治さんが基準を提示しているので、まずそれを参考にしてみましょう。

平川さんが立てた基準は次の5つです(読みやすいように表記を少し改めました)。

1)クリエイティビティ:
時代観と美意識をバランスで診てそのデザイナーのオリジナリティを読む。
2)クオリティ:
どれだけその服が美しくクオリティ高く出来上がっているか。作られた服に対する気持ちのクオリティと技術面からのクオリティ。
3)イメージ:
デザイナーが感じる時代観とその雰囲気や気分をどのようにイメージングしているか?そのアイディアと独創性。
4)ウェアラブル:
着れる服であること。時代が求める機能性や汎応用性をも含めた着れる服であること。ここで僕はファッションはアートでないという視点を重視。着る人の心や気分そして環境や風景とのバランスを感じ読む。
5)プライス:
当然ファッションもビジネスであるため、モノに見合った価格が大切。ここではどれだけそのデザイナーたちがプロであるか?を読む。身勝手な自己満足におぼれたデザイナーはここで落ちる。

http://lepli.org/discipline/articles/2004/05/new3_wwd_japan.html より)

もちろん、僕自身がこれに全面的に賛同するわけではありませんし、細かい点を言えば気になる部分もあります。

たとえば、「ウェアラブル」であることは良い作品につながるのかどうか。

僕はファッションを美術のように扱う必要は全くないと思っていますが、それと同時にファッションを美術のように扱ってはいけないこともないと思っています。僕の美術作品の評価基準のひとつに「私たちが通常気づかない事物(世界)のあり方を見せてくれること」(これだけだとわかりにくいですね。また別の機会に説明します。)があるのですが、ファッションにそれを適用してもまったく問題ないと思います。ウェアラブルでなくても、あるいはウェアラブルではないからこそ、見えてくる世界もあるかもしれません。

とはいえ、この五つの基準はかなり練られたものであることには違いありません。これらの基準が適切なのかどうか、もっと考えるべき基準があるのか現時点でははっきりと言うことができませんが、ここで少しずつ考えていきたいと思います。

今月の告知

ほとんどの人が興味ない告知ですみません。

美学会という、名前から判断すると相当怪しい学会があるのですが、この連休中にそこで発表します。

(どうでもいい話ですが、領収書を書いてもらうとき、漢字の説明を「美しい学会です」言うのがとてつもなく恥ずかしいです。)

どんな人たちがこのブログを読んでくださっているのかよくわからないのですが、もしかしたら大学院生なんかもいたりするかもしれませんし、この学会でもファッションをやってくれる人が増えたらいいなあ、と思っているので、一応。

ここしばらくはずっと、シュルレアリスムのなかで衣服と身体がどのように扱われていたか、ということを調べていまして、今回はこんな感じの話をします。

あと、11月にトークイベント2つに呼んでいただくことになったので、それも追って告知いたします。