今回はTabloidで行われたwrittenafterwardsのショーについて書くことにします。
冒頭から言い訳めいた発言で申し訳ないのですが──とはいえ必要だとも思っています──、コレクション評を書くにあたって僕のスタンスを表明しておくことにします。
僕は以前のブログで「そもそもファッションの批評が可能なのかどうか、僕自身にもまだわかりません。恐らく試行錯誤の繰り返しになるとも思います」と書きました。今回writtenafterwardsのショーについて書くこともその試行錯誤のなかのひとつであり、自分でも正当な判断なのかどうか自信はありません(書く以上、当然責任はありますが)。
ただ、現在のファッション雑誌のほとんどがショーのディスクリプション(描写)しかしていないことは問題だと思っているので、問題点と評価できる点を明確にすることが第一歩だと考えて書くことにします。
もうひとつ付け加えておきたいのは、ここで意味のない批判をするつもりはないことです。こちらも手探りの状態ですので、ただ叩きたいだけならわざわざここで取り上げません。おこがましい言い方かもしれませんが、作家が自分の作品を見つめ直すための、今後より良いものを作るための手助けになるようなことを書くことができればと思っています。
ここで書いたことに対する異論や反論などがあれば、是非コメントを書いてください。そうした議論の場も今後のために必要なもののひとつですので。
まずは今回のイベントとしての問題点から始めたいと思います。
「関係者」向けであったファッション・ショーを有料で一般に開放する試みは、ショーをパブリックな場におくことで、様々な議論を生むことができるという点ではよいのですが、はたして今回のショーが有料の興業として耐えうるものだったかというと、そうは思えません。その理由はホスピタリティのなさ、オーガナイズの悪さです。簡潔に言って、全員スタンディングの会場は、お金を払った人すべてがきちんとショーを見られる状態ではありませんでした。大劇場のように、S席、A席・・・など細かい料金体系を設定せずとも、たとえば「イス席はいくら、スタンディングはいくら」と分けるだけでも状況は変わりますし、たとえば誘導係を置いて最前列の人たちに座ってもらうようにするだけでもいいでしょう。興業に対価を要求する以上、興行主としても最低限の努力をするべきだと思います。これはショーの後のドリフのファッション研究室に関しても同じことが言えます。一つ目のセッションでは、平川さんと藤原さんの話が面白かっただけに、後ろの方のお客さんにまで声が届かなかったことだけでなく、聴衆からの質問を受け付けようとしなかったことは(実際には受け付けてくれましたが)、わざわざ将来の客を自分たちから減らそうとしているようなものではないでしょうか。家でustreamを見るのと何ら変わらなくなってしまいますから。
それでは、肝心のwrittenafterwardsのショーについて。
前回(神々のファッション・ショー)、前々回(ゴミのコレクション)これまでのwrittenafterwardsの特徴として、社会/制度に対する愚直なまでの批判的なアプローチ(あくまで褒め言葉です)が挙げられます。つまり、エコを叫べば倫理的に正しいと思われる現代においてファッションが直面している問題を、「ゴミ」というあまりに直接的なテーマでぶつかること、あるいはバイヤーが集まるビジネスの場でもある東京コレクションにおいて、あえて(日常では)着られない衣服を提示することなどです。既存のファッションの制度を批判する方法としてはアズディン・アライアのように制度から降りてしまう方法と、マルタン・マルジェラのようにあくまで制度の内部にいながらそれを組み替えていく方法がありますが、writtenafterwardsは後者の立場をとりながら、マルジェラとはまた別の仕方で批判を行っていたと言えます。
しかしながら、今回のショーではそうした特徴が消えてしまっていました(*1)。もちろん、いつまでも同じアプローチを取る必要はないのですが、それに代わるものがほとんど見受けられませんでした。前回までになかった(と思われる)ことで、今回興味深かったのは「洗濯物を干す=業界から干されたくない」というような言葉遊び的なものがあったことでしょうか。この言葉遊びは現代の日本の文化を考える上で重要なものだと思っています。情報化とグローバル化とネタの出尽くしによってあらゆる分野でオリジナリティを生み出しにくくなった今、日本語というローカルな言語に日本人が向かうのはある意味で必然的なのかもしれません。西尾維新や昨日のトークにも参加していたchin↑pomなど、文学や美術で現在もっとも注目されている人たちに共通している現象のひとつだと思っています(以前この問題を考えていたとき、他にもいくつか思いついていたのですが、忘れてしまいました)。
それでもなお、今回のショーはwrittenafterwardsの足跡として、前回・前々回のショーと同様に重要な一歩であることも事実です。それは、writtenafterwardsのもうひとつの特徴である「物語性」(*2)に現れています。そもそもファッションは絵画や彫刻、あるいは文学などとは異なり、何かを再現=表象するわけではないために、どうしても「物語性」に欠けてしまいますが、writtenafterwardsは卒業コレクション以来、それをコレクション単位で巧妙に作り上げています。今回のショーについても、「罪と罰」というテーマとの直接的な関連はわかりにくかったものの、巨大化した洗濯バサミ、あるいはモップのような靴といったガジェットでキャラクター性を強化し、writtenafterwardsらしい童話的な世界を上手く提示していたように思います。この「らしさ」というのは、オリジナリティとほぼ同義語であるため、ある意味で最大級の賛辞になり得ることも言い添えておきます。
(*1)さらに言えば、今回も制度に対する批判を行っていたとしても、有料の興業にしたことで既に既存の制度からは外れてしまっているために、効果は持ち得ません。
(*2)「物語」はファッションを考える上で重要な概念だと思っていまして、本来ならこれについて先に書くべきなのですが、次回書くことにします。