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HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て、京都精華大学ファッションコース専任講師。
ファッションの批評誌『vanitas』編集委員、ファッションのギャラリー「gallery 110」運営メンバー、服と本の店「コトバトフク」運営メンバー。

e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
twitter: @ihsorihadihsa

『vanitas』の情報は↓
http://fashionista-mag.blogspot.com/
http://www.facebook.com/mag.fashionista

書評:朝倉三枝『ソニア・ドローネー──服飾芸術の誕生』

ここのところ、服飾史やファッション論の本があまり出ていなかったように思われるのですが、久しぶりに良い本が出ました。

朝倉三枝さんの『ソニア・ドローネー──服飾芸術の誕生』という本です。

20世紀前半は芸術とファッションとの関係が深まった時代だと言えますが、その渦中にいたひとり、ソニア・ドローネー(1885〜1979)がどのように服飾に携わったのかを通時的にたどる研究です。

本書では、ポスト印象派の画家たちに影響を与えた化学者ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの色彩理論に端を発する「シミュルタネ(同時的)」という概念を展開させながら、また、夫のロベールとの共同作業を重ねながら、ファッションの分野で様々な新しい試みを行ったソニアの活動を知ることができます。

たとえば、今でこそ当たり前になった、文字がプリントされた衣服の先駆けとも言えるローブ・ポエム(詩が書かれたドレス)や、1924年のサロン・ドートンヌ(美術展)において「動き」を取り入れた展示を行っていたこと、あるいはティッシュ・パトロンと呼ばれる「衣服の裁断線と模様がプリントされた布地」の考案(著者はこれとA-POCとに共通点なども指摘しています)など、これまでほとんど知られることのなかったソニアの「服飾芸術」(ソニア自身のことばです)を理解することのできる良書です。

また、1925年のいわゆるアール・デコ展の服飾部門の様子も論じられていますので、この博覧会に関心がある人にもおすすめです(アール・デコ展は名前こそ有名であるものの、その内容はあまり知られていないように思われますので)。博士論文がもとになった研究書とはいえ、文章も明快で読みやすく、この時代の予備知識なしでも読むことができると思います。

不満な点を挙げるとすれば、ソニアが「パリのモード界で活躍をした」と述べられているものの、ソニアの作品(衣服)の受容に関する記述があまりないため、どこまでモード界への影響があったか、疑問が残ることでしょうか。もちろん、ソニア自身の活動を調査するだけでも大変なので、これはないものねだりになってしまうのでしょうが・・・

あとは、同時代の服飾史的背景に関する説明が簡略化されすぎているために、読者に誤解を与える可能性がやや懸念されます。たとえば、議論の筋(ポワレとソニアの対立)をはっきりさせるためだとは思いますが、20世紀初頭の流行の変化の要因をポワレひとりに帰している(ように読めてしまう)ことや、ソニアの先見性を評価するあまり20年代を「大量生産される既製服の時代へと向かい始めていた」と語ってしまうことなど、疑問が残る点もあります。

とはいえ、これだけ丹念に調査された研究の結果を一冊の本で(しかも日本語で)読めるなんて、お得感にあふれた本であることは間違いありません。

宣伝

今日は宣伝のみです。ごめんなさい。

関西のイベント情報はどうしても東京に比べると少ないので、ちょっとだけお手伝いを。

まずは大阪発信のデザインのイベントDESIGNEAST。

http://www.designeast.jp/

大阪を「東」と捉えていることからもわかるように、かなり国際的なイベントなのですが、これを個人レベル(デザイナーや編集者ら5人)で企画しているというのがすごいです。

僕があれこれ言うよりも、彼ら自身による説明を見てもらった方が早いと思うので、ぜひサイトを見てみてください。

ファッションでもこんなイベントができたらいいですね。

もうひとつは、京都造形芸術大学のファッションデザインコースの学生の展覧会です。

まだ情報が全然でていないのですが、ハイファッション・オンラインでブログを書いている成実弘至さんと、上のdesigneastの主催の一人である水野大二郎さんのゼミで11月に展覧会を企画しています。

詳細はまだあまりでていないのですが、興味がある方は彼らのゼミのツイッターをのぞいてみてください。http://twitter.com/narumizu2010

(今見てみたら、なぜかタイムリーに僕のブログが宣伝されていてちょっと恥ずかしいのですが・・・)

展覧会に関連した冊子も制作中で、changefashionのブロガーの一人にもエッセイをお願いしています。

詳細はまた後日に。

大衆と文化

東京ガールズコレクションに続いて、JFWもニコニコ動画と連携するようですね。

後手に回っている感は否めないですが、ハイファッションは大衆から乖離してきたのも事実なので、こうしたサブカルチャー的なものとの連携はひとつの試みとしては面白いのではないでしょうか。

文化としての評価を売上や人気で決めるのは褒められたことではありませんが、そうした側面から離れること(つまり、大衆からの乖離)を良しとする業界人(どの分野においても)たちはさらに感心できません。

美術のことを考えてみれば、大衆との乖離が決定的になったのはマルセル・デュシャン(《泉》という便器の作品で有名な美術家です)からだと言えるでしょう。デュシャン以降、美術が知的なゲームのような側面を持つことになってしまったのは否定できない事実であり、その最たるものがコンセプチュアル・アートと呼ばれるジャンルの作品です。

コンセプチュアル・アートは美術史の枠組みでは確かに面白いのかもしれませんが、美術史を知らない人には面白くもなんともない作品がほとんどです。そのこと自体は必ずしも悪いことではないのですが、その面白さを大衆に伝える努力をしてこなかった業界人(とりわけ、大衆と美術の世界をつなぐ役割を持つはずの現代美術の学芸員)の責任は少なくありません。

そうしたなか、村上隆(とその周辺)の活動は再び、閉じられた世界にある現代美術を大衆とリンクさせようとする試みだとも見ることができるので、その意義はきわめて大きいものだとも言えます。

ハイファッションはたとえばファッション・ショーは業界人にしか開かれていないなど、閉鎖的な面も少なくないものの、美術に比べればかろうじて大衆との乖離を免れているように思われますが、それも本当にぎりぎりのラインだと思います。

ニコニコ動画とJFWとの連携や、一般の人たちにも門戸を開いた前回のwrittenafterwardsのショーなど、状況を変化させる方法は色々あるはずですので、今後、様々な試みが出てくることを期待します。

ファッションのシステム その2

前回、プレタポルテの行き着く先がファスト・ファッションとなるのは必然的だと書きましたが、今回はその続きです。

(タイムリーなことに、一昨日H&MとLANVINのコラボレーションが発表され、今テレビでは東京ガールズコレクションが放送されています。)

ファスト・ファッション隆盛の今、いわゆるハイファッションと呼ばれるブランドが取ることのできる選択肢のひとつに、「既存のシステムから降りる」ということが挙げられます。

既存のシステムとは、簡潔に言えば年2回のコレクションの発表のことです。いや、もっと正確に言うと、年2回コレクションを発表することによって、以前の作品を否定することです。

なぜファッションだけがこのようなシステムをとってしまっているのでしょうか。ひとつにはジャーナリズムが「トレンド」とか「今年の流行は〜〜」など、「現在性」を声高に叫びすぎていることが挙げられるでしょう。そうした言説が積み重ねられることによって「去年の服が格好悪い」という意識が植え付けられてきました。

もうひとつは主にショップの問題になりますが、セールのシステムです。このシステムは世界最初のデパートであるボンマルシェが、薄利多売方式において商品の回転効率が鈍ることを避けるために考案したと言われています(鹿島茂『デパートを発明した夫婦』)。つまり、このセールというシステムも、そもそもの始まりからしてファスト・ファッションに適したものなのです。

もちろん、そのことによって目先のビジネスはうまく回ってきたかもしれませんが、そこで捨てられてきたものも多いのではないでしょうか。

たとえばプロダクトデザインのことを考えてみましょう。椅子でもカトラリーでも時計でも何でもよいのですが、同じデザイナーが(不定期に)新作を発表しますし、ミラノサローネのように毎年見本市を行ったりもしています。しかし、過去の作品を否定するようなことは基本的にありません。

ファッションとプロダクトデザインは違うところも多いので、全く同じにすることはできないでしょうし、必ずしもそうする必要もありませんが、ひとつのモデルとして参考にすることもできるのではないかと思うのです(*1)。

余談ですが、最近、京都では阪急百貨店というデパートが閉店しました。
「昭和51年(1976年)の開店以来、34年の長きにわたり、当店をご愛顧くださいましたお客様に心から感謝し、御礼を申しあげます」とのメッセージがサイトに掲載されています。

京都では多くの人々の思い出に残っている場所であることは間違いありませんが、34年という年月は本当に「長い」のでしょうか。

たとえば22歳から65歳まで働いた場合、就労期間は43年。

事業を興し、それを一世代継続させることがどれだけ難しいかを改めて考えさせられました。

こんな例を出さずとも、changefashionを見る人にとっては、ヨウジ・ヤマモトのことを考えるだけでも十分かもしれません。

(*1)このあたりは、今月号の『ユリイカ』で浅子佳英さんが『visvim』について書いていたことともリンクする問題です。ただ、靴の場合は衣服よりも今回書いたようなことがやりやすいのも事実ですので(同じ服を3日連続で着るのは気が引けるけども、同じ靴を3日連続で履いてもあまり気にならない人が多いのではないでしょうか)、一気に衣服の話まで一般化するのは少し難しいとも思います。

ファッションのシステム その1

パリ・コレクションや東京コレクションといった、現今のファッション・システム──1年に2回新作を発表する──に乗っているデザイナーの人がファスト・ファッションを批判しているのをたまに目にします(最近は少なくなってきたかもしれませんが)。

しかし、それは果たして正当なことなのでしょうか。

この問題を考えるために、少し歴史を振り返ってみたいと思います。

現在のファッション・システムの基礎はシャルル=フレドリック・ウォルト(1858年メゾン開店)に始まります。ウォルト以前は、顧客の要望にあわせて服を仕立てるのが普通でしたが、ウォルトはシーズンごとに自分がデザインした服を見せるというコレクションのシステムを考案し、生きた人間に着せて見せるというファッション・ショーをはじめました。これがいわゆるオート・クチュールの始まりです。そして、それから100年ほど経った第二次世界大戦後、英語の”ready to wear”をフランス語に翻訳したプレタポルテという、いわゆる高級既製服が現れ始めます。

このプレタポルテは1960年頃から力を持つようになり、たとえばピエール・カルダンは59年に、イヴ・サン=ローランは66年にプレタポルテのラインを発表し、70年代以降はオート・クチュールのセカンドラインとしてではなく、最初からプレタポルテのみを発表するブランドが増えてきました。

フランスではオート・クチュールのデザイナーはクチュリエ(女性はクチュリエール)と呼ばれ、新しく生まれたプレタポルテのデザイナーはスティリスト(styliste)と呼ばれましたが、この名前の違いについて深井晃子は次のように述べています。

オートクチュールはモードにとって一番の切り札〈創造性〉で、それでもプレタポルテを跪かせようとしていた。しかし、60年代は、若者たちがストリートから発する様々なアイディアがモードになっていった。規制の社会がタブーとしてきたこと、それがモードとなり得た。プレタポルテが独自の想像源を見出すには千載一遇の機会だったのである。スチリストは一握りの女性のためではなく、街の多くの女性たちが望む新しいモードを提案した。それはオートクチュールの指令には関係のない、自分にあったものを自分流に解釈して着るというものだった。その意味で、フランスの雑誌が使いはじめた新しいスチリストという語は適切だったし、十分な魅力を持った言葉だといえる。

(深井晃子『パリ・コレクション』講談社)

オート・クチュールからプレタポルテへの、そしてクチュリエからスティリストへの移行を見てみると、どこか最近のファッションの状況に似ているように思えます。

つまり、ハイファッションと考えられるプレタポルテと、それに対抗するかのように出てきた安価なファスト・ファッション。そして、ファスト・ファッションとコラボレーションするプレタポルテのブランド、そして服作りの知識や技術を持っているわけではない素人デザイナーたち・・・

僕自身、今挙げたような事例を特に批判しているというわけではありません。ここで言いたいのは、プレタポルテがオート・クチュールに対してしてきたことを極限まで押し進めたのがファスト・ファッションだと言えるのではないか、ということです。

だとすれば、現在プレタポルテのシステムに乗っているデザイナーはファスト・ファッションを安易に批判することはできないはずですし、ファスト・ファッションと肩を並べながら同じ論理で進んで行った行く末を多少は想像できるのではないでしょうか。

ファッションと「物語」 その3

その2から大分たってしまいました・・・

今回取り上げたいのはいわゆるサブカルチャーと呼ばれるジャンルです。その代表としてコスプレとゴスロリを主に取りあげます。

これらのジャンルに共通するものとしても、物語を考えることができるからです。

ではまずコスプレから。

コスプレは、あるキャラクター(=オリジナル)を真似たもの(=コピー)であることは異論の余地がないでしょう。そう考えると、コスプレという行為はオリジナルに可能な限り近づくことを目的としているようにも思われます。しかし、実際にコスプレをしている人たちを見ても、そうは感じられません。コミケのようなイベントでも、オリジナルにできるだけ近づけようとするよりも、元のキャラが認知される程度の記号性を持っていればよいとされているように思われます。だとすると、オリジナルへの同一化よりも、そのキャラを演じるという行為の方がより重要なのではないでしょうか。

すなわち、コスプレとは、同人誌が新たな物語(いわゆる二次創作など)を生成するのと同様に、自分が物語の一部になることを目指したものだといえるのです。

では、ゴスロリ(ゴシックだけでもロリータだけでもよいのですが)はどうでしょうか。

ゴスロリのスタイルを定義するのは難しいのですが、それはこのスタイルがデータベース的だからというのが理由のひとつにあります。つまり、概ね共通する要素があっても、決定的な要素がないのです。

ゴスロリは言わずと知れたようにゴシック+ロリータですが、高原英理は『ゴシックハート』において、ゴシック的なるものを次のように語っています。ちょっと長いのですが、引用しておきます。

色ならば黒。時間なら夜か夕暮れ。場所は文字通りゴシック建築の中か、それに準ずるような荒涼感と薄暗さを持つ廃墟や古い建築物のあるところ。現代より過去。ヨーロッパの中世。古めかしい装い。暖かみより冷たさ。怪物・異形・異端・悪・苦痛・死の表現。損なわれたものや損なわれた身体。身体の改変・変容。物語として描かれる場合には暴力と惨劇。怪奇と恐怖。猟奇的なもの。頽廃的なもの。あるいは一転して無垢なものへの憧憬。その表現としての人形。少女趣味。様式美の尊重。両性具有、天使、悪魔など、西洋由来の神秘的イメージ。驚異。崇高さへの系統。終末感。装飾的・儀式的・呪術的なしぐさや振る舞い。夢と幻想への耽溺。別世界の夢想。アンチ・キリスト。アンチ・ヒューマン。

(高原英理『ゴシックハート』)

これに加えて、ロリータ的なもののデータベースも同様にあります。そのゴシックとロリータのデータベースが合わさったもののなかから自分の好みの要素を抽出し、ひとつのスタイルに仕上げる。そこで生じるのはやはり物語であり、世界観ということばが頻繁に使われるのもそのためです。ここではとりあえずゴスロリを例に挙げましたが、ゴシックだけでもロリータだけでも同様です。

たとえばロリータの場合でも映画『下妻物語』は、深田恭子演じる竜ヶ崎桃子が冒頭で「ロココへの憧憬」を語るところから始まります。これに象徴されているように、衣服を通してその裏にある物語(『下妻物語』の場合はロココという物語)へとアクセスしているのだと考えることができます。

(この点において、単なるデータベースで終わるファストファッションとの違いがあります。)

そのほか、大槻ケンヂ『ロッキン・ホース・バレリーナ』などでも、ゴスロリと物語の関係がわかりやすく表出されています。小説としても面白いので、興味がある方は読んでみてください。

今回とりあげたコスプレやゴスロリ以外にも、アゲ嬢なども同様ですね。『小悪魔ageha』を読めば一目瞭然なように、アゲ嬢と呼ばれる女性たちが自分の過去の出来事や理想の生活などの物語をこれでもかというくらい語っています。

おそらく現代では物語を希求する人が多くなってきているのだと思います。それを時代の趨勢だと捉えるのであれば、物語性の希薄なハイファッションに関心を持たない人が増えるのも肯けるのではないでしょうか。

美術館情報その3(フランス)

今日はフランスとドイツ、と思ったのですが、あまりに時間がかかるのでフランスだけになりました。最初は夏休み用にと思ったのですが、このペースだと全然終わりませんね。

やはり大きなところだけにしぼるべきなのか・・・・

フランスでファッションの美術館といえばまずはここです。

モード&テキスタイル美術館

ルーヴル美術館のお隣です。

マドレーヌ・ヴィオネ、ヴィクター&ロルフ、山本耀司、ジャン=ポール・ゴルティエ、バレンシアガなど、ファッション・デザイナーの回顧展が多いのですが、「飾られた男」などテーマを設定した展覧会もやっています。今は「現代ファッションの理想的な歴史 第1部:1970〜80年」という展覧会を開催中。

モード&衣装美術館(ガリエラ美術館)

同じくパリにあるので、モード&テキスタイル美術館と混同されがちです。

常に開いているわけではなく、年2回程度、企画展をやるときのみ開館。

こちらは回顧展よりもテーマ展が主でしょうか。

結構面白い展覧会やってます。

ピエール・ベルジェ&イヴ・サン=ローラン財団

基本的には美術館ではなく、主にイヴ・サン=ローランの作品を保存・管理している機関といった感じでしょうか。とはいえ、展覧会も開催しています。

テキスタイル・プリント美術館(訳がちょっと変ですが・・・)

フランス語では”Le Musée de l’Impression sur Etoffes”

ミュルーズというフランス東部、ドイツとスイスとの国境近くの街にある、100年以上の歴史を持つ美術館。18世紀から現代の(プリントされた)テキスタイルを収集しています。

マルセイユ・モード美術館

収蔵品は20世紀のものを6000点。今年の1月に美術館としては閉じてしまったようです。資料館は予約すれば利用可能。

クリスチャン・ディオール美術館

説明する必要のない美術館ですね。フランス北西部のグランヴィルというところにあります。

プール美術館

リール郊外のルベという街にある、1930年代のアール・デコのプールを改装した美術館。

ファイン・アートだけでなく応用芸術も集めていて、衣服も収集しています。

カステルバジャックやウォルトなどを持っているようです。

ルベにはテキスタイル美術館も。

リヨン・テキスタイル美術館

織物の街リヨンにあるテキスタイルの美術館。

美術出版社の『世界服飾史』にも出てくるシャルル・ド・ブロワのプールポワンはここにあります!

国立舞台衣装センター

フランスの真ん中あたりのムーランにあります。

国立図書館、コメディ・フランセーズ、パリのオペラ座から預けられた8500の衣装とアクセサリーを収蔵。

帽子博物館

リヨンの近く、シャゼル=シュル=リヨンという街にあります。

19世紀半ばから、パコ・ラバンヌやピエール・カルダンまで様々な帽子を収蔵。

国際靴博物館

これまたリヨンの近く、ロマン(ロマンス?)という街にある、靴の博物館。

国際と名乗っているだけあって、様々な国・地域の靴を収蔵しています。

Aski Kataski、あるいは布の記憶

布の記憶。記憶が脳に蓄積されるものだと考えるならば、この表現は矛盾した物言いになるかもしれない。

    2007-08 A/W colletion "Nostalgia for Unreal Past"

建築論や都市論の分野でしばしば使われる概念にゲニウス・ロキなることばがある。日本語で地霊と訳されるこのことばは、場所が持つ雰囲気──しばしば神秘的な出来事に由来すると考えられているが──ことを指す(*1)。これはすなわち、出来事の記憶が場所に宿っていると言い換えることができよう。

建築は、それが基盤とする場所=土地と分かちがたく結びついている。それでは、衣服の場合はどうだろうか。衣服は建築と異なり、固定されるべき場所を持たない。もちろん、着用者の身体は衣服がよって立つことのできる場である。だが、常に同一の場=身体に固定されているわけではなく、着用者が変わることもある。そういう意味では、次から次へと着用者が変わる古着には種々多様の記憶が──ゲニウス・ロキのように──刻まれていると考えることもできる。

ファッションにおいて、記憶という概念が問題となるのはなにも古着の場合に限らない。そのことを私たちに見せてくれるのがAski Kataskiのデザイナー、牧野勝弘である。彼は、蚤の市などで収集する19世紀から1940年代までの布を素材とし、アンティークのミシンや19世紀のパターンを用いて衣服を制作する。一般に、布はあくまで素材であるが、彼が用いるヴィンテージの布は、タブラ・ラサ、すなわちそこに意味が書き込まれる白紙のようなものではない。古着のように着用者の記憶が刻み込まれることこそないものの、そこにはすでに、布の制作者の思い、それが織られた環境、あるいはその後人の手に渡り、蚤の市で誰かの目にとまるまでじっと待っているあいだの空気、そうした他者の様々な記憶が込められている。それを、海辺の小さな一軒家で過ごした自らの幼少期への郷愁をもとに衣服へと組み立てていくことで、牧野は他者の記憶と自らの記憶を交錯させる。

記憶は時間とともに形成される。布が記憶を持つとするならば、それは時間をも自らの内に孕んでいるはずである。彼が作り出すイメージにおいても、時間の概念は巧妙に忍ばせられる。

     2008 S/S collection "misremember past"

misremember pastと題された2008年春夏コレクションでの写真のように、静的なはずのイメージが、その宙に浮いたネックレスによって、静止した時間=切り取られた瞬間として突然私たちの前に現れることがある。しかし、この写真という技法によって時間の断面を提示するのは、写真というメディアによるものが大きく、決してAski Kataskiに特有のものとは言えない。彼が行っていることは、写真による時間の直接的な表象だけではない。むしろ重要なのは、彼が針と糸によって、衣服のうちに時間と記憶を縫い付け、そこに閉じ込めていることであり、そこにこそファッションに固有の手法が介在する。ファッションにおいては時間の問題が潜んでいること、それを牧野は決して派手ではないやり方で──だがその行為はきわめて根源的な問いを孕んでいる──私たちに教えてくれるのだ。

(*1)ゲニウス・ロキという概念については、鈴木博之『東京の地霊』ちくま学芸文庫、クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ『ゲニウス・ロキ──建築の現象学をめざして』などを参照。

photo: © Aski Kataski

美術館情報その2(再びオランダ・ベルギー)

このブログでは、大きめの美術館/博物館だけ取り上げていくつもりだったのですが、せっかくなので小さいところも拾っていってみます。

というわけで、オランダ・ベルギーその2です(+おまけにルクセンブルク)。

★アムステルダム国立美術館

http://www.rijksmuseum.nl/

レンブラントやフェルメールなどを有するオランダ最大の美術館です。ここは4年前にDe Nieuw Kerk(新教会)という美術館──というより展示スペースと言った方が正確でしょうか──と共催で「Fashion DNA」という展覧会を企画しています。国立博物館の所蔵する衣装コレクションを中心に、身体やアイデンティティなどに焦点をあわせた展覧会でした。

http://www.rijksmuseum.nl/tentoonstellingen/fashion-dna?lang=en

現在は「Accesorize」というオンライン・エキシビションを開催中で、16世紀から20世紀までの様々なアクセサリーを見ることができます。

http://www.rijksmuseum.nl/formats/accessoires/

こういったオンラインでの展覧会も増えるといいですね。

★バッグ博物館

http://www.tassenmuseum.nl/

4000以上のバッグを所蔵している博物館。最も古いもので17世紀のバッグがあるとのこと。日本だとえてして歴史的なものばかり集めてしまいそうですが、ここは現代のバッグ──アレキサンダー・マックイーンやボッテガ・ヴェネタなど──も持っています。

★海軍本部博物館

http://www.museumdokkum.nl/

オランダの北端、フリースラント州にある博物館で、この地方の衣装やテキスタイルを所蔵しています。ここはオランダで唯一、オランダ語以外の言語(フリジア語)を公用語としている州で、この国のなかでもちょっと違った文化を持った地域だと言えるかもしれません。

★織物博物館

http://www.weverijmuseum.nl/

織機などの機械のほか、20世紀に織られた織物(いくつかはもう少し古いそうですが)などを所蔵しています。エイントホーフェンの近くのGeldropという街にあります。

★革と靴の博物館

http://www.schoenenmuseum.nl/

オランダの南部、Waalwijkにあります。50年以上前からあるそうなので、結構古いですね。

★テキスタイル博物館

http://www.textielmuseum.nl/

オランダの南部、ティルブルフにある博物館。今年の2月までminä perhonenの展覧会を開催していました。

そのほか、ファッションそのものの展覧会ではありませんが、アムステルダムの近くアムステルフェーンという街にあるJan van der Togt美術館で、オランダの画家アンス・マルキュスという人の展覧会が現在開催されています。ヴィクター&ロルフ、ヨウジ・ヤマモト、アレキサンダー・マックイーンといったデザイナーたちにオマージュを捧げた作品が展示されています。

リンク先で画像が見られます。

http://www.jvdtogt.nl/

続いてベルギーその2。

★産業考古学とテキスタイルの博物館

http://www.miat.gent.be/

ブリュッセルから電車で30分ほど北西に行った街、ゲントにあります。

産業革命以降の技術革新やテキスタイルについて知ることのできる博物館。

最後におまけ。ルクセンブルクの現代美術専門の美術館MUDAM(Musée d’Art Moderne Grand-Duc Jean)で、少し前にアントワープのモード美術館でやっていたペーパー・ファッション展が巡回していました。もしかしたら、今後もファッション展が開催されるかもしれませんので一応。

http://www.mudam.lu/

美術館情報その1(ベルギー・オランダ)

さて、ファッションの展覧会を開催している美術館のリストを少しずつ作っていきます。

今日はベルギーとオランダを。

まずはベルギーから。

★アントワープ州立モード美術館

http://www.momu.be/

アントワープ王立美術アカデミーと同じ建物にある、ファッション専門の美術館です。マルタン・マルジェラやベルンハルト・ウィルヘルムら、アカデミー卒のデザイナーの回顧展など、ベルギー・ファッションに関連した展覧会が多いのが特徴です。もちろん、それだけでなくテーマを設定した展覧会も開催されています(現在は「黒」の展覧会です)。

★ハッセルト・モード美術館

http://www.modemuseumhasselt.be/

アントワープと同じオランダ語圏のハッセルトという街にあります。

小さいけどきれいな街です。

最近はサイトも作られ、力がはいってきているようです。

現在の展覧会は「ファッションと宗教」。宗教的な服の歴史ではなく、現代のファッションと宗教の関係に焦点をあわせたものだそうです。

たまにデザインの展覧会をやっているZ33という美術館があるのですが、今サイトを見てみたらFlorentijn Hofmanのアヒルがバッグに!!!

http://www.z33.be/en/projects/badeendtas-rubber-duck-bag

ここは紹介するつもりがなかったのですが、つい勢い余ってしまいました。

★衣装とレースの博物館(ブリュッセル)

http://www.bruxelles.be/artdet.cfm/4209

こぢんまりとした美術館ですが、街中にあるのでアクセスが便利です。

あと、最近はファッション展をまったくやっていないのですが、1996年に「Mode & art 1960-1990」という展覧会がPalais des Beaux-artsというところで開催されました。

http://www.bozar.be/

次にオランダです。

オランダにはファッション専門の美術館は(多分)ありませんが、普通の美術館がファッションの展覧会を企画するだけでなく、衣服を収集もしています。

★フローニンゲル美術館

http://www.groningermuseum.nl/

北端にある街、フローニンゲンにあります。

2005年という比較的早い時期にフセイン・チャラヤンの回顧展を開催しています。他にもベルンハルト・ウィルヘルム(とユッタ・クラウス)の展覧会。確かViktor&Rolfの作品を収集していたと思います。

現在改装中。

★ユトレヒト中央美術館

http://www.centraalmuseum.nl/

オランダのデザイナーからイッセイ・ミヤケやジュンヤ・ワタナベといった日本人デザイナーの作品まで幅広く収集しています。

最近ではアレクサンデル・ファン・スロブ(Alexander van Slobbe)の展覧会がありました。

彼の《SO》というブランドは10年ほど前は日本でも結構有名だったんですが、最近はきかないですね。

★デン・ハーグ市立美術館

http://www.gemeentemuseum.nl/

歴史衣装だけでなく、現代のファッションも収蔵しているのですが、オランダのデザイナーが多いのかな?菱沼良樹の作品なども。

最近ではオート・クチュールの展覧会。

あとは、ロッテルダムのボイマンス・ファン・ブーニンゲン美術館で有名なかびドレスを展示したマルジェラの個展がありました。ここも最近はファッションの展覧会はやっていないと思います。あれ、でも何かでBLESSを見た気がするけど何のときか忘れてしまいました・・・

http://www.boijmans.nl/

美術館とファッション

ファッションを学問の対象とするためには歴史や理論を研究することはもちろんですが、アーカイヴと展示を行うことも重要です。ということは以前にも書きました。

日本では、衣服を収集している美術館はほとんどありません。神戸ファッション美術館文化学園服飾博物館杉野学園衣装博物館などのファッションに特化した美術館をのぞけば、島根県立石見美術館くらいでしょうか。

(美術館ではありませんが、京都服飾文化研究財団も衣服を収集し、日本では5年に1度のペースで展覧会を開催しています。)

以前、「ドリフのファッション研究室」のフセイン・チャラヤンの回で、東京都現代美術館の長谷川祐子さんが、衣服の収蔵は美術作品の収蔵とメソッドが違うから収蔵できないという発言をしていましたが、半分は正しくあるものの、半分は詭弁でしかありません。というのは、いわゆる現代美術の作品のなかには、これまでの保存・修復のメソッドが適用できないものも少なくないからです。

たとえばヤン・ファーブルの虫を使った作品など、(死んでいるとはいえ)生き物を素材に用いた作品は既存の方法では保存できませんし、してはいけないはずです(虫がわいたりしてしまいかねないので)。

日本の美術館でもこうした作品を収蔵していることを考えると、衣服の収蔵だけができないというのは、はっきり言ってやる気がないだけです。

実際、一般の美術館にも衣服の収蔵が可能であることを石見美術館は示してくれています。

新たにファッション美術館を作ることは難しいでしょうし、ファッションに興味を持つ学芸員や美術関係者が増えてくれることを願うしかありません。

もうすぐ夏休みということで海外旅行の計画を立てている人もいると思いますので、今日は海外で衣服を収蔵している美術館や、しばしばファッション展を開催する美術館をリストアップするつもりだったのですが、眠くなってしまったのでまた次回にします。

後出しじゃんけん。

昨日の「ドリフのファッション研究室──ユースカルチャーとしてのカオスラウンジ、あるいはファッション」の話です。

後出しじゃんけん的な言い訳がお嫌いな方は今日は読まないでください。

まず反省点から。

昨日はモデレーターとしての力不足を実感しました。このことに関しても言い訳は山ほどあるのですが、それを差し引いてもあまりに経験と能力が足りなかったです。

もともと「朝まで生テレビ」の議論のように、相手の話を遮ってまで自分の意見を言うスタイルが好きではないので、僕自身の考えと合わなくても、話が少し噛み合ってなくても、途中で誰かの話を切ることができませんでした。たとえば、パネリスト二人の話が平行線をたどっていたとしても、お互いが話し続けていれば止めようとは思いませんでしたし、今から考えてみてもどちらの方がよいのかわかりません。

お客さんのなかにはパネリストの一人を目的として来ている人もいるはずですし、一人の話を遮ることはそのお客さんの楽しみを断ち切ってしまうことになってしまいます。

これは普段、大学でしている授業でも同じです。全員の希望を叶えることはできないけど、できるだけ多くの人が満足できるような話にしたい。1人と100人だったら100人を取ります。が、20人と80人だったらどちらも取りたいと思ってしまうのです。

こうした考えは「甘い」とも言われますし、事実、逆に多くの人が不満を持つ結果になってしまっていることもあるのかもしれません。

という考えを持っている時点で、モデレーターとか司会としては失格なんですよね。多分。

この点に関しては、明らかに僕の経験と見込みが足りませんでした。

会場にいらっしゃった方に対しては本当に申し訳なく思います。

それを補うことにはなりませんが、トークの直前に、モデレーターは自分の意見をあまり言わないようにと釘を刺されてしまったので、ここで僕の意見や感想などを。

今回図らずもモデレーターになってしまいましたが、テーマやタイトルに関しては

そもそも、カオス*ラウンジとファッションというテーマでまともに話ができるとは思っていませんでした。ユースカルチャーという補助線を引いたところで、僕の考えではカオスラウンジはユースカルチャーではないですし、MIKIO SAKABEも6%DOKIDOKIもユースカルチャーではないので、余計に話が混乱してしまいます。少し話したことですが、ユースカルチャーとして認識されるためには固有名から離れなくてはいけないと思っています。「カワイイ」であればユースカルチャーになり得ます。そこに固有名はないから。しかし、6%DOKIDOKIはあくまでオリジナルであろうとしている(もちろんこれはよいことです)ため、ユースカルチャーと呼ぶことはできない。僕の質問に対して黒瀬さんがオリジナルとフォロワーは違うと答えていたように、カオス*ラウンジもオリジナルであることを認めている。その点でユースカルチャーではありません。

だとすれば、どのような話に展開できるのか。それが前回の記事にも少し書いたように、「ゼロ年代の文化がファッションとどう関わらないのか」(東浩紀さんや宇野常寛さんの周辺を想定していますが)という問題です。インテリア・デザイナーをやっている浅子さんもいらっしゃったので、建築やデザインの分野までは包含されても、ファッションは何故その枠外にあるのか。そうした話ならできると考えたのですが、自分の意見を言えなくてはそちらに持って行くこともできませんでした。

あまりつらつらと書いていても見苦しいので、言いたかったこと、思ったことを端的に書いていきます。

まず、カオス*ラウンジに対する美術の世界での評価について。「カオス*ラウンジ」を過去の芸術の動向や手法と関連付けて、既存の文脈から外れたことをしていないと評する人たちが少なくありません(たとえば『美術手帖』6月号参照)。『新潮』8月号で椹木野衣さんもやはり破滅*ラウンジについて、過去の作家たちの作品やコンセプトと比較しながら「新しくない」という結論を出していましたが、それはあくまで視点が美術という分野のなかにあるかぎりにおいてです。

破滅*ラウンジのリファレンスを探るとするなら、それは美術のなかではなく、やはりアニメです。1998年に放送された『serial experiments lain』(以下、『lain』)というアニメがあります。このアニメはそれに先行するエヴァンゲリオンが精神的な自己(あるいは自意識)というものをテーマにしていたとするなら、リアルな世界とヴァーチュアルな世界における物理的な存在としての自己をテーマにしたアニメだと言えます。このアニメではもともと内気なヒロイン(岩倉玲音)がどんどん引きこもっていき、まさに(NANZUKA UNDERGROUNDの)「破滅*ラウンジ的」な部屋を作り上げます。

このリアルとヴァーチュアルを行き来することを通じて、逆説的に内向きのベクトルを増大する玲音を、渋谷という都会のなかにある閉じられた空間に再現したものだと考えられます。(さらに言えば、このアニメでは「サイベリア」という名のクラブも重要な役割を果たしており、「破滅*ラウンジ」で流されるトランス的な音楽を踏まえると、玲音の部屋とサイベリアを一体化させたものだとも見ることができます)『lain』というアニメを参照することなく、別の文脈に位置づけることで「破滅*ラウンジ」を新しくないと結論づけるのは、破滅ラウンジを読解するための知識に欠けたためだと言えるでしょう(誤解のないように付け加えておきますと、もちろん「美術」に関しては椹木さんが優秀な批評家であることは疑いようのない事実ですが、カバーできる範囲には限界があるという意味です)。

ファッションとアートという話で、坂部さんから村上隆とルイ・ヴィトンのコラボレーションの話が出てきましたが(他の例としては、サルバドール・ダリがエルサ・スキアパレッリの服にロブスターを描いたというものもあったりしますが)、個人的には、こうした表面的な意味でのファッションとアートという関係からはあまり生産的な議論ができるとは思いません。

マンガのキャラクターを画家が自分の作品に描いたものをとりあげて、マンガとアートの融合だ!と言っても何ら発展性がないのと同じです。

これまで、ファッションとアートというテーマ設定の展覧会などがいくつもありましたが、こうした展覧会がとりあげるものは、「衣服の形をとった美術作品」でしかないことが多いです(特に戦後のものは)。「ファッション」の話をする場合には、ファッションの歴史やこれまでファッションについて語られてきたことを前提として理解することが必要ですし、「アート」の場合も同様です。

それならば、「ファッションとアート」について話をするときにも、「ファッションとアート」の歴史やこれまでの言説を確認しないといけません。そのあたりを飛ばした議論はそもそも無理なので、話を噛み合わせることも不可能です。

長くなってしまいましたので、今日はこの辺でやめておきます。

昨日のトークに関してでも、ここで書いたことに関してでも、ご意見やご批判があればコメントに書き込んでください。匿名でも構いませんので。身内からもすでに痛いほどの批判をいただいていますが、色々な意見を聞けると今後の参考になりますので。