この2、3日いろいろと動き回って覚えているものを走り書き。
まずは清澄白河の現代美術館でやっている「装飾展」と「フセインチャラヤン展」
装飾展、半端ではなかった。
緻密なパターンの繰り返し。そこから浮かび上がるフラクタルのリズム。
普通の人間の意思があれ等の造形物を作っているというのに少し恐ろしさを感じる程。
手を動かす。作る。深く落ちる。観察し続ける。作り続ける。
空想の中にいる神様って、きっとこんな風に手を動かしてるんじゃないかな、なんてバカな連想をしたり。
とにかく、もうすんごいです。4月11日(今日だ!)で終わっちゃいます。
まぁ実際の所はいくつか「?」って作品もあったりなんかしちゃったりなんやったりなんですけども。。ふがふが。
で、フセインチャラヤン。
服を通して社会を見るチャラヤン。
様々なシチュエーションにおけるインスタレーションが施されており、ボリューム満点。
全体で一つの映像作品のように感じます。
ごく個人的にですが、服と社会性(単純ではいられないという意味で)について考えさせられました。
多分、装飾展と対で見たからそんな事を考えちゃったんだな。
ただ追求のみを純粋に形にした「装飾」と比べると(そもそも比べるものではないとは思いつつ)
造形自体の純度は少し鈍く感じざるをえませんでした。
無理をしている形、と言えばいいのかしらん。
そういう意味では服で「何か」を表すというのは難しいものですね。
でもだからこそ社会と深くつながっていられる、という利点もある気がします。
「服」「現実」「虚構」
チャラヤンやヴィクター、ギャルソンやマルジェラ。他にも色々な方がた。
ファッションのトップたちが作りだした素晴らしい装いの数々。虚構の装い。それが「身体の見た夢」の現実の形たちだとしたら、低価格でそこそこの品質しかもある程度オシャレと言われている形を取り揃えているファストファッションも一つの「身体の見た夢」の現実の形ではないかと。そしてその形が現実になったんだからその次の身体の夢の形もまた色々出てくるのではないかと。いま濃厚な気がするのは「個々」って言葉かな。
それらに対して否定も肯定もなく、ただすでにそこにある素材、状況として捉えたいな。
んんんんんんん、、でも本当のところ、「服」と「社会」はボクにはあまり深く理解できません。
多分、それが個人にとっての正解ではないかと思うのです。
社会を知らなきゃ形の方向を考えれないけど、もう一方で本当はそんな事どーだっていいんだよ、っていうのが作る側の本音なんじゃないかなぁ。
ま、そんな事をつらつらと膨大に考えておりました。
他にも色々あるんですが、眠くなったのでまたの機会に書きたいです。
おやすみなさい。