日頃から、どーでもいい事からそうでもない事まで自分勝手に頭の中でぐるぐるくちゃくちゃとこねくり回すのが好きで、最近はブログのネタに困っていて(近頃インフォばっかで自分も飽き飽き)いっその事、脳内のそれをそのまま書いちゃいます。
早速脱線するのですが、ブログを日常的に書いて思うのは案外自分は社会に対して言いたい事なんてありゃしねーんだなぁ、という驚きです。他人からはカガリはもっと社会派であったりラディカルな人間だと言われる事が結構あったので素直にそう信じていたのですが、どうもそうでもないようです。最近そっち方面への興味が日に日に薄れているのかもしれないし、歳を重ねてより性格が悪くなって嘘をつくのが上手くなったのかもしれません。自分にはまったく分かりません。
ただ一つだけ最近はっきりしたのは、ボクはどーでもいい事の、どーでもいいからこその自由さが大好きなんだなという事の再発見ぐらいです。
さて、タイトルの事。
結構この台詞を、特に女性が発するのをちょこちょこと耳にするのですが(おいしいものを食べてる時とかね)なんなんでしょうね。
死んでもいい。
この単語を発している本人はどうやら「超幸せ」をそれとは反対の状態に位置するイメージの言葉をもってくる事でより強調しようと使っているように聞こえます。
なんでしょう。幸せの絶頂で死にたいのでしょうか。
ちょっと新鮮な物を食べたり新鮮な空気を吸っただけでそう言われてしまうと、普段どれだけ辛い思いをしているのかと心配になります。
死に対するイメージには、本当に様々なパターンがあるようで(この文章は何かを真面目に考察する為のものではなく、自分勝手なザッピングゲームなので話しはちょいちょい飛び散ります。ご了承ください)
最近ちょっと気になったのは3年ほど前のニコニコ動画の左上だか右上に出て来たフラッシュでどんどん入れ替わる単語の羅列の中にあった一つ。
人は一度は死にたがる。
死にたくなる、といった感情じたいは普通に生きてたら半年に一度は起こる事なので人として特に珍しいものでもありませんが、なんとなく気になったのはこの言葉のもつイメージというか、この言葉がニコニコ動画の画面に出て来る事で際立つ時代性にハッとさせられました。
大正時代の画家で不治の病に憧れて、もう本当に恋い焦がれすぎて結核患者が使用したお箸を舐めて回った人がいたそうですが、それを思い出しました。
死ぬ、って事には負のイメージが強くつきまとうけど同時になぜか憧れを抱くように出来ているそうです。ゴキブリと根本的に違う点はそこにあるのでしょう。
死ぬ事や負に対する暗い憧れは、過去には一部の人たちだけが持っていたもののはずですが、今やどうもそれが結構広くかつ深いところにまで浸透しているような気がします。
それがぼくの思い違いではないとしたら、今って病んだ時代だなぁ。
こんな病んだ時代に本当に病みたい人は普通になるしかないんだろうね。
そして、晴れて普通の人になれたとしても、いつしか自分の普通さに打ちのめされて、悩んで悩んで果てには本当の狂人になって、アメリカンサイコの主人公のようになるのかしらん。
あぁ、こわいこわい。
この前の写真はこんな感じになってます。http://changefashion.net/snap/2010/06/05030007.html脳内のそれ大歓迎です。