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HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
日本学術振興会特別研究員PD、京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターを経て、京都精華大学ファッションコース専任講師。
ファッションの批評誌『vanitas』編集委員、ファッションのギャラリー「gallery 110」運営メンバー、服と本の店「コトバトフク」運営メンバー。

e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
twitter: @ihsorihadihsa

『vanitas』の情報は↓
http://fashionista-mag.blogspot.com/
http://www.facebook.com/mag.fashionista

二人のC──クレア・マッカーデルとチャールズ・ジェームズ

2012年に入ってもう1ヶ月が経とうとしているんですね。

かなり久しぶりの更新になってしまいました。

今日は僕の所属先(KCI)での展覧会(かなり小さいですが)のお知らせです。

KCIでは、年に三回ほど付設のギャラリー(90平米弱の小さなスペースです)にて所蔵作品を使った展覧会を行っています。

今回は、20世紀半ばのアメリカン・ファッションがテーマなのですが、二人のデザイナー、クレア・マッカーデルとチャールズ・ジェームズにスポットをあてています。

クレア・マッカーデルは、タウンリー・フロックスという企業の雇われデザイナーとして既製服産業の発展に貢献した人物です。既存のファッション史はどうしてもフランス中心になってしまっており、そこまでの知名度はないかもしれませんが、1987年に開催された展覧会「Three Women」(ファッション工科大学附属美術館)では、マドレーヌ・ヴィオネ、川久保玲とともに20世紀を代表する女性デザイナーとして取り上げられるほど、アメリカでは重要視されているデザイナーです。

チャールズ・ジェームズはマッカーデル以上に認知度が低いかもしれませんが、同時代ではクリストバル・バレンシアにも絶賛され、最近では2010年春夏(オート・クチュール)のDiorや、2011年秋冬のRick Owensなど、様々なデザイナーのインスピレーション源になっているほどの人物です。

どちらも、日本ではなかなか見ることのできないデザイナーだと思いますので、関西在住の方はぜひ。一応、ギャラリー・トーク(事前申込制)もあります。

ただ、繰り返し強調しておきますが、クレア・マッカーデルは5点、チャールズ・ジェームズは4点と、小規模な展覧会であることを予めご了承ください。

会期は1/30から4/27までです。

詳細はこちらで。

表層としての魔法少女

少し前に放送され、話題を呼んだアニメ「魔法少女 まどか☆マギカ」。細かなあらすじは公式サイトを見ていただいた方がよいのですが、魔女と戦う魔法少女に憧れを抱いたヒロインのまどかの思考回路が現代の ファッションにとってとても示唆的な行動をとっていました。
まどかと友人のさやかは魔法少女の仕事を理解するために、既に魔法少女として戦っているマミの魔女退治についていくことになります。その際、さやかは戦いの見学の準備として金属バットを持ってきましたが、一方のまどかがしたことと言えば、魔法少女の衣装デザインだったのです。このシーンは現代の衣服観を象徴しているように感じました。

これはすなわち、まどかにとって魔法少女という職業/属性を象徴するものが、魔女退治という行為や活動に直結するもの(武器や魔法など)ではなく、視覚的に魔法少女を表象する衣服だった、ということです。まどかは魔法少女の中身ではなく、表層にあこがれていたと言っても過言ではありません。事実、魔法少女のリアルな活動内容を知ったまどかは、魔法少女になりたくないと思うようになりました。

一日の多くをパソコンやタブレット型PC、あるいはスマートフォンの前で過ごす人は次第に多くなっています。仕事のやりとりにメールを使うのなら、相手のリアルな生活(いまどこで何をしているか)などを考慮する必要はまったくありません。ツイッターやニコニコ動画でのコミュニケーションにおいても、相手と同じ時間を過ごしていることは必ずしも必要ではありません(濱野智史さんはこれを「選択同期」や「疑似同期」といった言葉で説明しています)。つまり、私たちはディスプレイの表層に残された他者の痕跡と戯れているとも言えるのです。

同様に、着用者の表層を形作る衣服は、まさにその人の痕跡でもあります(美術でいえば、クリスチャン・ボルタンスキーの古着の作品、塩田千春の靴の作品などはそのことを想起させてくれます)。まどかは魔法少女を衣装という表層=痕跡でのみ認識し、もはや魔法少女という実体など視野に入っていなかったのです。

このように、他者を表層において認識するという点において、まどかの魔法少女観と現代のコミュニケーションのあり方には通底しています。その意味では、一般に考えられているのとは逆に、衣服という表層は私たちの存在にとって今後より重要になっていくのかもしれません。

本の宣伝とブックリスト

まずは宣伝をひとつ。

『ハイファッション・オンライン』(そして実はchangefashionブロガー)の西谷真理子さん編集の『ファッションは語りはじめた──現代日本のファッション批評』という本が今日発売になりました。

そこに研究者/批評家の千葉雅也さんとの対談と、90年代以降のファッション史をオタクカルチャーからの視点でマッピングするような論考で参加していますので、よろしければお手にとってみて下さい。

それに関連して、ファッションの批評を考える上で有益なブックリストを少し。

(どこかからの転用に見えるかもしれませんが、ご容赦を。)

もちろん色々重要なものは他にも沢山あるのですが、現在(多分)あまり目に入ることのないものや、ファッション以外の分野の本で参考になりそうなものを選びました。

★Tiffany Godoy, Style Deficit Disorder, Chronicle Books, 2007

1990年代から2000年代までの原宿を彩った様々なブランドがヴィジュアル資料とともに紹介されている。各ブランドについて細かな分析がされているわけではないが、この時代のブランドがおしなべて忘れられている状況を踏まえると、このように一冊にまとめられた本は貴重である。

★José Teunissen, Made in Japan, Centraal Museum, Utrecht, 2001

ユトレヒト(オランダ)の中央美術館にて開催された展覧会のカタログ。コム・デ・ギャルソン、イッセイ・ミヤケ、ヨウジ・ヤマモト、ジュンヤ・ワタナベに続く若手としてシンイチロウ・アラカワ、ゴム、マサキ・マツシマ、コウスケ・ツムラ、大矢寛朗が取り上げられている。日本ではなく海外の美術館でこのような展覧会が開催されていたことをもっと考えなくてはならないだろう。

★深井晃子『20世紀モードの軌跡』文化出版局、1994年

歴史家とキュレーターという二つの立場から語られる軽妙なエッセイは、ファッションを考えるうえで興味深い視点を数多く提供してくれる。

★前島賢『セカイ系とは何か――ポスト・エヴァのオタク史』ソフトバンククリエイティブ、2010年

マンガ・アニメの文脈で流通し、誰もが知っているけどその内容がいまひとつ判然としない「セカイ系」という概念を丁寧に論じた好著。「セカイ系」がいかなるものであるのか明らかにされていくプロセスも秀逸であり、不用意に使われる言葉を再検討することの重要性も教えてくれる。

『PLANETS』第二次惑星委員会

宇野常寛を編集長とする批評誌。マンガやアニメはもとより、テレビドラマなどさまざまなジャンルを縦横無尽に論じている。現代日本における文化批評を知るのにうってつけの雑誌。

『シアタープロダクツのメソッド』リトルモア、2007年

批評に関心をもつブランドにとってはまさにお手本のような出版物。ブランド自ら過去のコレクションを振り返り、言語化を図ることで、ビジネスとは別の文脈を作り出すことが可能となる。

このほか、『ハイファッション』2009年6月号で「ファッションを読む」と題された特集が組まれており、そこでも様々な本が紹介されています。

関心のある方は是非こちらもお手に取ってみてください。

問題解決のためのファッション・デザイン

先日、建築家の藤原徹平さんに声をかけていただいて、建築の人とそれ以外のジャンルの人が対話を行うイベントに参加してきました。

その場で改めて考えるきっかけをもらったのが、「問題(あるいは状況)を解決する力」についてです。
建築や他分野のデザイン(あえて建築もデザインのひとつと言ってしまいますが)にはそれがあると思うのですが、今のファッションはこの力が軽視されているように感じるのです。

と書きながらchangefashionを見たら水野君に先を越されてました!
問題解決とはどういうことかについては、彼のブログを読んでください。

他分野のデザインでは、クライアントがいて、その人の要望に従って、金銭的な条件や物理的な条件など制約のなかで創造性を発揮するのが当たり前のように行われています。
ハイファッションの場合を考えてみると、ウォルト以前は仕立屋がクライアントの要望に従って服を作るようなシステムでした。しかしながらウォルト以降、すなわちオートクチュールのシステムができて以降はそれを放棄してきました。
そうなると、何か解決すべき問題が生じて当初の計画に狂いが出た時の対応ができなくなってしまう。
三宅一生さんが1960年の世界デザイン会議にファッションという領域が入らなかったことに異議を唱えたのは有名な話ですが、問題解決を放棄したファッションがデザインの一分野として認められなかったのは仕方がないとも思えてしまいます。

僕は今のファッションのシステムを変えないといけないと常々思っているのですが、オートクチュール以前の方法をとる人がもっとでてきてもいいのではないでしょうか。

オートクチュール以前というと大きな話のように感じられるかもしれませんが、少し前まで日本には町の仕立屋さんが少なからずいたことを考えれば、そんなにおかしな話ではないはずです。

クライアントと向き合い制作を行う、そんなデザイナーにこそ将来性があるような気もします。

お知らせ

今年に入ってからブログを書く頻度が低下していましたが、大人の事情により4月から月一程度の更新になってしまいます。

どれだけの方が毎回読んでくださっているのかわかりませんが、あらかじめお詫び申し上げます。

細々とでも続けていくつもりでおりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

あと、来年の1月に批評誌『fashionista(仮)』を創刊する予定です。

論文と批評を公募しているので、興味のある方は下記サイトをご覧下さい。

よろしくお願いいたします。

http://fashionista-mag.blogspot.com/

記号としてのファッション

ファッションを記号として消費することが何故(僕が)良くないと思うのか、なかなか答えを見つけられなかったのですが、少しだけわかったような気がします。

(記号としての消費をひとことで説明すると、「ブランド品」をみんなが持っているから、とか流行っているから、といった理由で買うことです。)

結論を先に言ってしまうと、この種の消費のあり方は「弱い」から、です。

別の言い方をすれば、たとえば今回の地震の被災者のような方々にとって、記号としてのファッションは役に立たないということです。

記号としてのファッションは、それを身につける主体だけでは成立せず、他の誰かに認められないといけません。ブランドもののバッグを持つことによる仲間意識や、あるいは羨望の眼差しなど、他者からの承認がなければ意味を持ち得ないからです。

たとえばバッグに関して、周囲の人間がブランドよりも丈夫さや実用性といったものを求めるようになると、ブランド品を持っていることのステータスや優越感などというものは砂上の楼閣のように崩れ去ってしまいます。

しかし、プロダクトそのものを気に入ったり、デザイナーの思想に共感したりして手に入れた服は違います。そこには着る人と服との関係だけがあるだけです。

たとえばロリータ・ファッションが好きな女の子(仮にロリ子さんとしましょう)のことを考えるとわかりやすいかもしれません。被災地では復興に向けてやるべきことが沢山あると思います。その際にロリ子さんにジャージで作業をしてもらうのと、お気に入りのロリータ服で作業をしてもらうのとでは、どちらの方がやる気が出るでしょうか。

他の例を挙げると、以前ここで取りあげたASEEDONCLOUDは図らずも2011年春夏のテーマを街作家としていましたが、デザイナーの玉井さんの思想や姿勢が好きな人にとっては──デザイナーのことを知らずとも、この「街作家」という架空の職業を想定した服そのものへの共感でも構いません──、この服は格好のユニフォームにもなるはずです。ここにあるのは着る主体の意志のみで、他者は必要とされていません。

そうしたことを考えると、ファッションが精神的な意味において強度を持ちうるためには、記号としてのファッションでは事足りないと言えるのではないでしょうか。

ひとつだけ補足をしておくと、ブランドそれ自体を否定しているわけではなく、ブランドを記号として消費することが良くないということです。

同じモノであっても、消費のされ方によって持つ意味が変わってきますので。

ファッション・ショーの開催について

今度の東京コレクション、ショーの発表を中止(または延期)されるブランドが結構あるようですね。

ブランド(及びスタッフ)には様々な事情があると思いますので、その決定についてとやかく言うつもりは全くありませんし、中止の決定も勇気ある判断だと尊重します。

ただ、もしかしたら「地震のなかファッションショーなんかやっている場合じゃないから中止しよう」と思っているブランドもあるかも知れませんので、個人的な意見を少しだけ。

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コレクションの発表はブランドにとって大きなポイントであることには誰しも異論がないと思います。

その方法がショーでも映像でもインスタレーションでも他の何かでも。

そのなかで、コレクションの発表手段にショーを選ぶということは、それなりの必然性があってのことだと思います。

少なくとも、「華やかに見えるから」「ファッションといえばショーだから」という安易な考えではないはずです。

(もしそんなブランドがあれば、発表手段についてもっとよく考えてください。)

ショーはファッション固有の発表手段であり、歴史もあります。決して浮ついたものではなく、ビジネスの一環でもあり、文化のひとつでもあるはずです。

いま、東京でショーをやることは決して不謹慎なことなんかではありません。

もちろん、どんなことに対しても批判をしたがる人はいると思いますが、それを恐れていては仕方がありません。

いま、美術の展覧会をすること、映画を公開すること、マンガを発行すること、アニメを放映すること、どれも重要なことだと思います。

東京で飲んで騒ぐことが不謹慎だと言って、居酒屋の営業に文句をつけることが真っ当な意見だと思いますか?

どの職業の人も、誇りを持って自分の仕事を全うすればよいのではないでしょうか。

ファッション・デザイナーがショーを開催することも同じです。

パリ、ロンドン、東京、その他の都市のコレクションの度にネットで色んなデザイナーの服を見ることを楽しみにしている方々は被災地にもいるはずです。

いまショーをすることで、その人たちに元気を与えることもできるのではないでしょうか。

もし、電気が、お金が、と言うのなら、制約の多い今こそデザイナーの力量が問われるときです。若手のデザイナーは、資金が少ない中でいかに自分の能力を発揮するか、常に考えてきたはずです。

資金や資源がないと良いものが作れないのであれば、ファッションはラグジュアリー・ブランドに任せてしまえばいい。

ファッションに携わる人はファッションに誇りを持つべきです。本来、ファッションは決して軽薄なものなんかではないはずなので。

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今回は下書きすることなく書いてしまったので(いつも、一応wordで下書きをしているのです。「あれで?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが・・・)、雑な言い方になっている部分もありますがお許し下さい。

あと、この記事自体書くかどうか悩んだのですが、「批判を恐れるな」と言っている人間が批判を恐れていては始まりませんので、書くことにしました。

JFW

JFWの期間中(3/22〜25)、ショーや展示会を回ろうと思っています。

が、ショーのスケジュールはJFWやCFDのサイトで見られても、展示会の情報ってなかなか探しにくいです。

僕みたいな周縁の人間にお知らせが自動的に入ってくるわけもなく。

もし、この期間に展示会をやっているブランドさんで、見せてあげてもいいよ!っていう親切な方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただけると嬉しいです。

(メールアドレスはプロフィール欄に載せておきました。)

あるいは、ここのブランドがオススメです!という情報をコメント欄にくださってもありがたいです。

時間が限られているので、お知らせいただいても全て回れるかどうかはわからないのですが、できるだけ見たいと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

再度、ファッション批評について。

前回のブログで告知した「ドリフのファッション研究室」では、「そもそも批評とは何のためにあるのか」という話から議論を始めようとしたのですが、会場からの質問や来場者の感想を聞くと、批評の必要性がいまひとつ伝わっていないような気がしました。

そこで、補足がてら再びファッションの批評についての話を少しだけ。

まず批評の意味について。

人によって批評の定義は様々だと思いますが、端的に言うと、批評という行為はある作品の評価を言語化することだと思っています。

ではなぜ言語化が必要なのでしょうか。

それは、現在の積み重ねが歴史を作ることになるからです。

毎シーズン、星の数ほどの服が作られ、最近ではウェブ上にアーカイブされ続けていますが、果たしてそれが集積されるだけで歴史が構築されるでしょうか。オンライン・アーカイブによって写真や映像などの視覚資料にアクセスしやすくなったのは素晴らしいことなのですが、資料が増えれば増えるほど情報の取捨選択が必要となります。

たとえば2000年代の(ハイ・)ファッション史を語ろうと思ったときに、存在したすべてのブランドに言及することはできるはずもありません。だとすれば、そこで情報を選択する指針が必要となってくるはずです。そのための一助となるのが批評です。

こう言うと、批評家のエゴだとかよく言われてしまいますし、ドリフで千葉雅也さんも仰っていたように完全に客観的な批評は不可能です。ただ、基準を提示した上で論理的な記述がされていれば、その批評に説得力があるかどうかを判断できるので、作品/作家と同様に、批評(家)も取捨選択されることになります。

「今シーズンの○○はミニマルでエレガントだった」のようなディスクリプションでは、その是非を判断することもできません。

ちなみに、会場からの質問で「概念が濫用されている」というご意見がありました。その方はミニマリズムの例を挙げ、「ファッションで言われるミニマリズムは模様がないとかシンプルだとか、その程度の意味しか持っていない」という旨のことを仰っていました(正確な言葉を覚えていないので、記憶違いがあったらすみません)。それは、僕が以前ここでモダニズムについて書いたことと同じで、概念をファッションの歴史や理論を踏まえて整理(あるいは構築)するべきだということです。

何をもってミニマルとするのか、エレガントとはどういうことなのか、こうした概念を考えていくのも批評(や研究)の役割です。

1990年代から2000年代の日本のファッション史を概観することすら難しくなっているのは、批評の不在に一因があることは間違いありません。「歴史なんていらない」という人にその意義を伝えるのは難しいかもしれませんが、批評が機能していれば、もっと多くのデザイナーが生き残り得たとも思っています。

短期的に見れば、服を買うことが直接にデザイナーを支援することになるのかもしれませんが、長期的に見れば、批評を書くことはデザイナーが生き残る道を作っていくことにもつながるはずです。

お知らせ(トークイベント)

トークイベントのお知らせです。

よろしければご来場下さいませ。

以下、ドリフのファッション研究室のウェブサイトより引用です。

(パネリストのプロフィールは元ページをご覧下さい。)

————————————–

「ドリフのファッション研究室」~総集編的・長編シンポジウム!(完全参加型)~

-ファッションの批評を考える-

2月20日(日)@ SNAC

  • そもそも批評は何のためにする/あるのか?
  • 他分野ではどういった方法論での批評がなされているか?
  • それを踏まえるとファッションではどのような批評が可能なのか?
  • ビジネスがメインとされているファッションでの批評は必要なのか?
  • それに対して現場デザイナーはどう考えて実際物作りしているのか?

などについて話すイメージです!


<TIME TABLE>

【PART1】 13:00 – 14:30
蘆田裕史(ファッション論)、大久保俊(ジュエリーデザイナー)、千葉雅也(哲学/表象文化論)、村田明子(スタイリスト、ヴィンテージ(アンティーク)ディーラー)

~休憩~

【PART2】 14:45 – 15:45
西谷真理子(ハイファッションオンライン)、スナオシタカヒサ(STUDENT VOICE)、山口壮大(ミキリハッシン)+そのほかゲスト多数。
*【PART1】の4名に加わります。

【PART3】 16:00 – 17:00
*誰でも参加ください 【PART1】+【PART2】+


<入場料>
【PART1】から入場の方:3000円
【PART2】から入場の方:2000円
【PART3】から入場の方:1500円


企画: 篠崎友亮(パレット実行委員会)
企画協力: 山口壮大(ミキリハッシン)
主催: NPO法人ドリフターズ・インターナショナル


<予約方法>
info@drifters-intl.org
お名前、ご連絡先、ご職業(任意)、年齢(任意)、
どのセッション(【PART1】【PART2】【PART3】)からの参加かを明記の上、ご予約ください。



衣服の恣意性

前回の記事と関連した話を。

衣服は意味が生成する場だということを前回書きましたが、もう少し言うと、生成だけでなく変容の場でもあります。

少し前に放映されていた『ストライク・ウィッチーズ』というアニメはそのことをわかりやすく提示してくれます。

このアニメは、ブーツ型の機械を脚に装着して空を飛ぶ少女たちが敵と戦う、いわゆる戦闘美少女ものです。ここを見てもらうとわかるように、少女たちは皆、下着が見えているとしか思えないような格好をしています。

ところが興味深いことに、このアニメには「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」というキャッチコピーがあり、少女たちが見せているのは下着ではない、と言明しているのです。これは図らずも衣服(の名前)が恣意的なものであることを示しています。

つまり、一見(あるいはどう見ても)パンツにしか思えないものであっても、それがパンツ(=下着)であるという保証はどこにもなく、たとえばこれを水着と認識することも実は可能なのです。

これは、「いぬ」という音は必ずしも動物の犬を指し示すわけではない、ということと似ています。実体としての犬を指し示す音は、日本語では「いぬ」ですが、英語では「どっぐ(dog)」であり、フランス語では「しあん(chien)」です(このあたりの話を詳しく知りたい方は「ソシュール」や「シニフィアン/シニフィエ」といった言葉で検索をしてみて下さい)。

こうした対応関係は絶対的なものではなく、衣服の場合もそれと同じことが言えるのです。

もしかしたら「いやいや、それはアニメの話だから」と仰る方もいるかもしれませんが、例えば「見せブラ/見せパン」といったものもそうです。

本来は下着であるはずのアイテムを再定義することによって、そのアイテムを別のものへと変化させてしまっていると言えます。ここで重要になってくるのが、名指すという行為なのですが、これについては(多分)次回に書くことにします。

先入観や既存の概念にとらわれない発想によって新しいものが生まれる、と言ってしまうとあまりに陳腐なのですが、いまあるものに対して疑問を持つことは思考にとっても制作にとっても重要なことであることはいつの時代も変わらないと思います。

生を規定するものとしての衣服

たまには時事ネタを。

先日、新幹線で全裸になった男性が逮捕されたというニュースをご覧になった方も多いかと思います。

このニュースはファッションを考える上で興味深い問題を孕んでいるので取りあげてみました。

まずひとつには、人前で衣服を着ないことがなぜ罪なのか、ということです。

これはかなり難しい問題ですので、問題提起のみで。

(SMAPのメンバーが公園で全裸になって捕まったときにも考えたのですが、僕にはどうしても答えが出せません。)

もうひとつは、逮捕された男性の次のような供述から引き出されるものです。

「服は親が買ったものだから、捨てないといつまでも自立できないと思った」(記事より引用)

このことは、衣服が私たちの生を規定しているものであることを再認識させてくれます。つまり、衣服とはただの装飾ではなく、それを身に纏う身体や精神にも働きかけるものでもあるということです。

たとえば、わかりやすい例では(19世紀までの女性が身につけていた)コルセット。これは女性の身体を外側からの力で変形させ、極端なフォルムを作り上げるものです。これは物理的な作用と言えます。

社会的なものの例としては制服があります。学校の制服はそれを身に纏う人たちを一つの集団として囲い込み、中高生「らしい」振る舞いを要求するものです。

そして、個人的なものとして挙げられるのが、このニュースの例です。他人からは何の変哲もない衣服にしか見えませんが、その入手の方法やこれまで着用してきた機会/場など様々な要素によって、この衣服が男性の精神を左右していたと言えます。

これは、たとえまったく同じ一枚の衣服であっても、その所有者/着用者や文化、あるいは時間の経過などによって持つ意味が変わってくるということを表しています。

衣服というものはただの完成されたプロダクトなのではなく、そこにさらに意味が生成してくる場でもあるのです。

これは衣服に限ったことではありませんが(個人的な思い出のこもった音楽や小説などもあります)、衣服の場合はその日常性ゆえにいっそう影響力が強く、また気づきにくいものになっているのです。