昨日の「ドリフのファッション研究室──ユースカルチャーとしてのカオスラウンジ、あるいはファッション」の話です。
後出しじゃんけん的な言い訳がお嫌いな方は今日は読まないでください。
まず反省点から。
昨日はモデレーターとしての力不足を実感しました。このことに関しても言い訳は山ほどあるのですが、それを差し引いてもあまりに経験と能力が足りなかったです。
もともと「朝まで生テレビ」の議論のように、相手の話を遮ってまで自分の意見を言うスタイルが好きではないので、僕自身の考えと合わなくても、話が少し噛み合ってなくても、途中で誰かの話を切ることができませんでした。たとえば、パネリスト二人の話が平行線をたどっていたとしても、お互いが話し続けていれば止めようとは思いませんでしたし、今から考えてみてもどちらの方がよいのかわかりません。
お客さんのなかにはパネリストの一人を目的として来ている人もいるはずですし、一人の話を遮ることはそのお客さんの楽しみを断ち切ってしまうことになってしまいます。
これは普段、大学でしている授業でも同じです。全員の希望を叶えることはできないけど、できるだけ多くの人が満足できるような話にしたい。1人と100人だったら100人を取ります。が、20人と80人だったらどちらも取りたいと思ってしまうのです。
こうした考えは「甘い」とも言われますし、事実、逆に多くの人が不満を持つ結果になってしまっていることもあるのかもしれません。
という考えを持っている時点で、モデレーターとか司会としては失格なんですよね。多分。
この点に関しては、明らかに僕の経験と見込みが足りませんでした。
会場にいらっしゃった方に対しては本当に申し訳なく思います。
それを補うことにはなりませんが、トークの直前に、モデレーターは自分の意見をあまり言わないようにと釘を刺されてしまったので、ここで僕の意見や感想などを。
今回図らずもモデレーターになってしまいましたが、テーマやタイトルに関しては
そもそも、カオス*ラウンジとファッションというテーマでまともに話ができるとは思っていませんでした。ユースカルチャーという補助線を引いたところで、僕の考えではカオスラウンジはユースカルチャーではないですし、MIKIO SAKABEも6%DOKIDOKIもユースカルチャーではないので、余計に話が混乱してしまいます。少し話したことですが、ユースカルチャーとして認識されるためには固有名から離れなくてはいけないと思っています。「カワイイ」であればユースカルチャーになり得ます。そこに固有名はないから。しかし、6%DOKIDOKIはあくまでオリジナルであろうとしている(もちろんこれはよいことです)ため、ユースカルチャーと呼ぶことはできない。僕の質問に対して黒瀬さんがオリジナルとフォロワーは違うと答えていたように、カオス*ラウンジもオリジナルであることを認めている。その点でユースカルチャーではありません。
だとすれば、どのような話に展開できるのか。それが前回の記事にも少し書いたように、「ゼロ年代の文化がファッションとどう関わらないのか」(東浩紀さんや宇野常寛さんの周辺を想定していますが)という問題です。インテリア・デザイナーをやっている浅子さんもいらっしゃったので、建築やデザインの分野までは包含されても、ファッションは何故その枠外にあるのか。そうした話ならできると考えたのですが、自分の意見を言えなくてはそちらに持って行くこともできませんでした。
あまりつらつらと書いていても見苦しいので、言いたかったこと、思ったことを端的に書いていきます。
まず、カオス*ラウンジに対する美術の世界での評価について。「カオス*ラウンジ」を過去の芸術の動向や手法と関連付けて、既存の文脈から外れたことをしていないと評する人たちが少なくありません(たとえば『美術手帖』6月号参照)。『新潮』8月号で椹木野衣さんもやはり破滅*ラウンジについて、過去の作家たちの作品やコンセプトと比較しながら「新しくない」という結論を出していましたが、それはあくまで視点が美術という分野のなかにあるかぎりにおいてです。
破滅*ラウンジのリファレンスを探るとするなら、それは美術のなかではなく、やはりアニメです。1998年に放送された『serial experiments lain』(以下、『lain』)というアニメがあります。このアニメはそれに先行するエヴァンゲリオンが精神的な自己(あるいは自意識)というものをテーマにしていたとするなら、リアルな世界とヴァーチュアルな世界における物理的な存在としての自己をテーマにしたアニメだと言えます。このアニメではもともと内気なヒロイン(岩倉玲音)がどんどん引きこもっていき、まさに(NANZUKA UNDERGROUNDでの)「破滅*ラウンジ的」な部屋を作り上げます。
このリアルとヴァーチュアルを行き来することを通じて、逆説的に内向きのベクトルを増大する玲音を、渋谷という都会のなかにある閉じられた空間に再現したものだと考えられます。(さらに言えば、このアニメでは「サイベリア」という名のクラブも重要な役割を果たしており、「破滅*ラウンジ」で流されるトランス的な音楽を踏まえると、玲音の部屋とサイベリアを一体化させたものだとも見ることができます)『lain』というアニメを参照することなく、別の文脈に位置づけることで「破滅*ラウンジ」を新しくないと結論づけるのは、破滅ラウンジを読解するための知識に欠けたためだと言えるでしょう(誤解のないように付け加えておきますと、もちろん「美術」に関しては椹木さんが優秀な批評家であることは疑いようのない事実ですが、カバーできる範囲には限界があるという意味です)。
ファッションとアートという話で、坂部さんから村上隆とルイ・ヴィトンのコラボレーションの話が出てきましたが(他の例としては、サルバドール・ダリがエルサ・スキアパレッリの服にロブスターを描いたというものもあったりしますが)、個人的には、こうした表面的な意味でのファッションとアートという関係からはあまり生産的な議論ができるとは思いません。
マンガのキャラクターを画家が自分の作品に描いたものをとりあげて、マンガとアートの融合だ!と言っても何ら発展性がないのと同じです。
これまで、ファッションとアートというテーマ設定の展覧会などがいくつもありましたが、こうした展覧会がとりあげるものは、「衣服の形をとった美術作品」でしかないことが多いです(特に戦後のものは)。「ファッション」の話をする場合には、ファッションの歴史やこれまでファッションについて語られてきたことを前提として理解することが必要ですし、「アート」の場合も同様です。
それならば、「ファッションとアート」について話をするときにも、「ファッションとアート」の歴史やこれまでの言説を確認しないといけません。そのあたりを飛ばした議論はそもそも無理なので、話を噛み合わせることも不可能です。
長くなってしまいましたので、今日はこの辺でやめておきます。
昨日のトークに関してでも、ここで書いたことに関してでも、ご意見やご批判があればコメントに書き込んでください。匿名でも構いませんので。身内からもすでに痛いほどの批判をいただいていますが、色々な意見を聞けると今後の参考になりますので。